戦後80周年記念企画 黒田尚嗣ナビゲーター同行 中国東北歴史探訪7日間
日中戦争は、1937年の盧溝橋事件をきっかけに始まりましたが、この戦争は第二次世界大戦(太平洋戦争)の一部となり、日本の敗北と終戦によって1945年8月に終結しました。2025年は日中戦争終結の80周年で、1945年の終戦から80年が経過したことになります。
戦後の日本は、戦争を知る人たちが「二度と戦争をしてはならない」という強い思いを持って、平和な国をつくってきました。この間、日本においては1人の戦死者も出していません。将来、今の時代が「戦前」と呼ばれることのないよう、太平洋戦争や満州国についても記憶にとどめておくべきかと思い、本ツアーを企画しました。
◆1日目 2025年9月1日(月) <羽田→大連→瀋陽>
06:55 羽田空港第3ターミナル 3階出発ロビーY団体カウンターで出迎え Y団体カウンター7・8番にて受付
07:15 日本航空航空カウンターにて各自荷物のチェックイン
08:55 ゲートより搭乗開始
09:25 日本航空023便(JL-023)にて中国の大連へ
*機内食(Hot Meal)1回
*時差 -1時間
11:05 大連国際空港到着
*入国審査・各自荷物をPick Up
大連国際空港
12:00 専用バスにて大連市内へ
*ガイドの原涛(Mr. Yuan Tao)さんの出迎え
12:30~12:55 旧大和ホテル前で下車、中山広場散策
中山広場
*シベリア鉄道の太平洋側の玄関口となる不凍港を欲していた帝政ロシアは、1898年に遼東半島南端を租借すると、大連湾に面した青泥窪に商業都市「ダーリニー」の建設を開始します。この「ダーリニー」はパリに倣った多心放射状街路を持つ都市として計画され、中央に配された円形広場は「ニコライェフスカヤ広場」と命名されました。
*1904年5月、日本軍はダーリニーを占領し、1905年1月、ダーリニーを「大連」と改称、児玉源太郎の方針によりロシア統治時代の都市計画を基本的に引き継ぐことになり、ニコライェフスカヤ広場は大広場(中山広場)へと改称されました。
13:00~13:15 旧満鉄本社 (外観のみ見学、原涛さんの案内)
旧満鉄本社
*南満州鉄道株式会社(通称、満鉄)は日露戦争勝利後の1906年(明治39年)に設立された半官半民の会社で大連、中国東北地方の開発に関わりました。現在、大部分は大連鉄路の事務所として使用されています。
13:20~13:40 南山日本人街をガイドの原涛さんの案内で散策
南山日本人街
*南山日本人街は南山の麓にあり、1910年から20年代にかけて日本統治時代に建設された和風モダン住宅が立ち並ぶ、かつての高級住宅街です。かつてはここに満鉄や関東軍のお偉方が住んでおり、 海を望む楓林街、南山路、七七街、五五路、望海街の一帯は、今も昔の面影を残しています。
13:45 バスにて大連港付近のPAVILION柏威年へ(車窓より大連港、大連駅見学)
13:50~15:20 PAVILION 柏威年
大連のPAVILION
*大連の中心部にある巨大なショッピングモールで、生鮮食品を扱う高級スーパーから雑貨店、ブランド品のお店、レストランなどなんでもあり、新しくツインのオフィス棟ビルも隣接して作られました。
大連港
*私たちはガイドの原涛さんの案内でPAVILION内の展望レストランにて大連港を眺めながら62階のカフェにてコーヒータイムをとりました。
15:35 バスにて大連駅へ
上野駅に似た大連駅
16:15 大連駅到着後、セキュリティチェックを受けて新幹線ホームへ
17:02 大連駅出発 新幹線(G8059)にて瀋陽へ(列車内で中国歴史講座①)
大連の新幹線ホーム
19:05 瀋陽駅到着後、瀋陽現地ガイド金石さんと共にバスにて瀋陽の中山広場へ
*瀋陽は中国最後の王朝・清朝の発祥地で、かつて「盛京」と呼ばれていましたが、20世紀前半の中華民国時代や、日本の統治下におかれた満州国時代には、「奉天」と呼ばれていました。
中山広場の毛沢東像
19:25 中山広場にて下車
*中山広場は満州時代には奉天大広場と呼ばれ、日露戦争戦勝記念の碑が建てられていましたが、現在は毛沢東の像が建っています。広場は直径90mの円形で、周辺の1920~30 年代に建てられた欧風建築群や遼寧賓館(旧奉天ヤマトホテル)など、現存する6棟すべては日本人建築家による設計です。
19:25~19:50 中山広場前の遼寧賓館(旧奉天ヤマトホテル)見学
瀋陽の旧大和ホテル
*初めは奉天駅(現瀋陽駅)の一部をステーションホテルとして開業しましたが、1929(昭和4)年に今の中山広場前に開業しました。大和(ヤマト)ホテルは、満鉄が鉄道沿線に設けたホテルの総称で、ここ奉天以外では、大連、星が浦、旅順、長春に建てられました。
20:00~21:00 遼寧工会厦にて瀋陽料理の夕食(にらと卵の炒め、太刀魚の醤油煮込み、鶏のから揚げ、ハス団子えのきたけスープ、花巻饅頭、炒飯ほか)
21:35 DOUBLETREE BY HILTON SHENYANG(瀋陽希爾頓逸林酒店)チェックイン
〔旅日記〕 天候は晴れ 28℃
今年2025(令和7)年は「戦後80年」で「昭和100年」に当たります。日本におけるこの100年間は戦争と平和の両面の歴史を持ち、短い戦争と長い平和が続いています。戦後の日本は、戦争を知る人たちが「二度と戦争をしてはならない」という強い思いを持って、平和な国をつくってきました。
この間、日本は1人の戦死者も出していません。しかし長い平和の下でも冷戦、内戦、貿易戦争、地域紛争への間接的な関与があったことは想起されるべきかもしれません。そこで将来、今の時代が「戦前」と呼ばれることのないよう、この節目の年に日中戦争や満州国についても記憶にとどめておくべきかと思い、このツアーを企画しました。
これまで海外テーマ旅行は私が講師兼添乗員を務めてきましたが、今回は歴史チームの若手社員の田口さんが添乗業務を担ってくれ、お客様11名様と計13名で出発です。また、朝早い集合でしたが、本企画の直接の担当者である丹治社員も見送りにかけつけてくれました。
お一人様が集合時間を誤ってきわどい時間に来られましたが、丹治さんが適切に案内してくれたおかげでギリギリ出発に間に合いました。
大連空港に到着するとスルーガイドの原涛さんの出迎えがあり、スムーズに大連市内を観光することができ、時間的に余裕ができたので、市内のショッピングセンター PAVILION 柏威年の展望レストランで休憩時間をとることができました。
大連から瀋陽へは中国が誇る新幹線で移動しましたが、今回はこの列車内でガイディングレシーバーを使って「 中国東北地方歴史探訪」講座を実施します。
まずは、瀋陽(奉天)に向かうので、満州国の基本的なお話と満州事変について解説しましたが、満州事変の発端となった柳条湖事件は、1931年(昭和6年)9月18日、満洲の奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近で、関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した事件です。関東軍はこれを中国側の張学良軍が起こしたとして鉄道防衛を理由に中国軍と交戦を開始、満州事変の引き金となりました。
事件の計画と実行には、関東軍の参謀であった石原莞爾と板垣征四郎が深く関わっていたと言われていますが、今回は戦争の跡地ではなく、清国の歴史を探るべく北陵公園と瀋陽故宮を巡ります。
しかし、瀋陽滞在時間が短いので、本日の夕食前に中山広場前の遼寧賓館(旧奉天ヤマトホテル)を見学しました。中山広場は満州時代には奉天大広場と呼ばれ、広場は直径90mの円形で、周辺には1920~30年代に建てられた欧風建築群が今も残り、当時の面影を伝えています。
◆2日目 2025年9月2日(火) <瀋陽→長春>
07:30 ホテル内で朝食後、現地ガイドの金石さんの案内で瀋陽市内観光へ
08:00~09:15 北陵公園見学(2台のカートに分乗して参道を正門前へ 金石さんの案内)
北陵公園の隆恩門
*正門から隆恩門をくぐると隆恩殿があり、隆恩殿の周囲は方城と呼ばれる高さ約7メートルの城壁が真四角にめぐらされており、隆恩殿の奥には大明樓が建っていて、その背後 の宝頂の地下の宮殿に清朝の2代皇帝、太宗ホンタイジ夫妻の棺が安置されています。
*市の北部にあるため通称、北陵公園と呼ばれていますが、正式名称は昭陵と呼ぶ太宗ホンタイジ夫妻の眠る陵墓で、清朝初期の技術・建築文化の一端を知ることができます。
添乗員の田口さんと(昭稜)
09:45~10:30 瀋陽故宮見学(バスの下車地より徒歩約10分、金石さんの案内)
*瀋陽故宮は、清朝創成期の1625年、初代皇帝ヌルハチによって建設が始まり、2代皇帝ホンタイジ(皇太極)の時代に拡張されました。建築様式は満洲・モンゴル・漢の様式 が融合しており、規模は、北京の故宮の12分の1です。後金時代の2人の皇帝ヌルハチとホンタイジの皇居で、清の入関後は引き続き離宮として用いられました。
瀋陽故宮の大政殿
*大政殿は東路の正殿で八角形をしており、世界唯一の建築様式で、移動式テント・ゲルを真似ており、正面の2つの柱には、皇帝の象徴の金の龍が絡み付いています。
*中路は瀋陽故宮の中でもホンタイジ時代の建物で、主な建物には崇政殿・清寧宮・鳳凰楼があり、崇政殿は中路の正殿で、ホンタイジの執務室でした。
崇政殿の玉座
10:35 瀋陽故宮より昼食レストランへ
10:45~12:00 老辺餃子館にて餃子料理の昼食(セリと豚肉蒸し餃子、酸菜餃子、氷花焼き餃子、コーン豚肉餃子、特色煮餃子、角瓜と卵餃子、老辺百年辺餡餃子ほか)
老辺餃子館
12:25 瀋陽駅到着、 セキュリティチェックを受けて新幹線ホームへ
13:10 瀋陽駅出発 新幹線(G8011)にて長春へ(列車内で中国歴史講座②)
14:31 長春駅到着後、長春現地ガイド張国華さんと共にバスにて偽満皇宮博物院へ
長春(旧新京)駅
*長春はかつては「新京」の名称で、1932年から1945年まで日本軍が建国した満州国の首都とした場所で、市内には当時の建築物が多く残っています。
15:15~17:25 偽満皇宮博物院見学(長国華さんの案内)
溥儀が公務を執った勤民桜
*偽満州国皇宮(中国では満州国が日本の傀儡政権であることを強調するために偽満州国と呼ぶ)は、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が満州国の皇帝となった時の宮殿(宮内府) で、溥儀が政治活動を行った「外廷」と日常生活を過ごした「内廷」に分かれ、現在は「偽満皇宮博物院」として一般に公開されています。
*外廷(皇宮)の主要な建物として、「勤民楼」、「懐遠楼」、「嘉楽楼」があり、勤民楼では溥儀が公務を執り、各種の典礼が行われました。
愛新覚羅溥儀
17:45~17:50 神武殿旧址(外観のみの案内)
神武殿旧址
*神武殿は、竣工した1940年が神武天皇の即位から2600年だったため、これを記念して名付けられました。神道の祭祀施設を備えた総合武道場として建設され、柔道・剣道・弓 道・相撲などの演武や試合を通じて、満洲における武道精神の宣揚が図られました。
18:00~18:10 偽満州国務院(外観のみの案内)
偽満州国務院
*国務院は満州国の最高行政機関で、かつてはここに総務庁と参議院の建物がありました。『偽満州国八大部』(満州国の国家機関のうちで、現存する8つの建築物)の中心で、 東北地方が日本に占領されてから40年の間、日本軍の傀儡政権の中枢機関でした。
18:40~19:50 向陽屯飯店にて東北料理の夕食(鶏肉とキノコと春雨の煮込み、東北風味蒸し肉、東北風ソース付野菜、麻婆豆腐、ホウレン草と卵スープ、酢豚、炒飯ほか)
20:10 NOBLE HOTEL(名門飯店)チェックイン
名門飯店
〔旅日記〕 天候は晴れ 27℃
今日の午前中は瀋陽の主要な観光地を巡り、午後は瀋陽から満州国の都のあった長春に移動します。瀋陽は中国最後の王朝・清朝の発祥地で、かつて「盛京」と呼ばれ、20世紀前半の中華民国時代や、日本の統治下におかれた満州国時代には「奉天」と呼ばれていました。奉天で行われた会戦は日露陸戦最後の戦いでしたが、戦力を比較すれば兵力・火力ともに圧倒的にロシア軍が優勢でした。
しかし、旅順の攻略を終えた乃木率いる第3軍は、総司令部の命を受け、来たるべき奉天会戦のために1月中旬より北上を開始し、わずか10日で遼陽付近に集結を完了、奉天会戦に参戦、この乃木希典率いる第3軍の活躍は目覚しく、獅子奮迅の働きでロシア軍を撃破しながら独自の判断で前進を続け、奉天を小規模包囲し、ロシア軍の補給を担う鉄道を攻撃して遮断しようとしました。この快進撃に退路を封鎖されて殲滅されることを恐れたクロパトキン大将は総撤退を決意、ロシア軍は途中までは優勢でしたが、乃木軍を恐れるがあまり、この軍に退路を断たれることを恐れて退却したと言われています。
このかつての奉天近郊には清朝初期の皇宮である瀋陽故宮や、20世紀初頭の軍閥政治家・張作霖の官邸兼私邸である張氏帥府など、観光スポットも多くあり、特に有名なのは瀋陽駅の駅舎で、現在の日本の東京駅と外観がよく似ています。
最初に訪れた北陵公園は、清朝の2代皇帝、太宗ホンタイジ夫妻の眠る陵墓があり、正式名称は昭陵です。広い公園ですので私たちは入り口から門前まで往復、カートを利用しました。瀋陽のローカルガイド金石さんに丁寧に案内していただき、清朝初期の土木技術・建築文化の一端を知ることができました。この地は2004年にユネスコの世界遺産(文化遺産)の明・清王朝の皇帝墓群の一部として追加登録されています。
次に訪れた瀋陽故宮はとても混雑していましたが、故宮のすぐ北側には、瀋陽最大の繁華街である中街路があることも影響しているのでしょう。1625年に建てられた後金の2人の皇帝ヌルハチとホンタイジの皇居で、中国人にとっても歴史的な名所であり、女真族の文化に触れる貴重な場所だと思います。北京の故宮に比べれば小さいですが、建築様式は満洲・モンゴル・漢の様式が融合している貴重な世界文化遺産です。
昼食は近くの老辺餃子館にて餃子料理を食べて、急ぎ、瀋陽駅に向かいました。瀋陽駅からはまた新幹線に乗って長春駅に出発です。列車内の歴史講座では、満州国の都であった長春の歴史と清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀について説明させていただきました。
長春はかつては「新京」の名称で、1932年から1945年まで日本軍が建国した満州国の首都とした場所です。日本はロシアから継承した東支鉄道(とうしてつどう)を南満州鉄道とし、清から土地を買収して満鉄付属地をつくり、1914年その中央部に長春駅を建設しました。
長春では現地ガイド張国さんの案内で、偽満皇宮博物院、神武殿旧址そして偽満州国務院を案内していただきました。
偽満皇宮博物院には、満州時代に満州国皇帝・愛新覚羅溥儀が住んでいた宮殿や執政していた宮廷府などがあり、偽満州国皇宮は、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が満州国の皇帝となった時の宮殿で、彼の使った家具、執務室等がそのままの状態で展示されており、見ごたえのある博物館です。
神武殿は、日本の国技館のような建物で、神道の祭祀施設を備えた総合武道場として建設され、柔道・剣道・弓道・相撲などの演武や試合を通じて、満洲における武道精神の宣揚が図られたと言われています。また、1936年に完成した偽満州国務院は、日本の国会議事堂に似た満州国の最高行政機関で、かつてはここに総務庁と参議院の建物がありました。
今回は訪れることができませんでしたが、長春には他に満州国時代の重要な建築物が残されている偽満州国八大部遺跡もあります。
◆3日目 2025年9月3日(水) <長春→哈爾浜(ハルビン)>
07:40 ホテル内で朝食後、バスにて長春西駅へ
08:10 長春西駅到着、 セキュリティチェックを受けて新幹線ホームへ
中国の新幹線
09:11 06:50 哈爾浜駅到着、 セキュリティチェックを受けて新幹線ホームへ
10:40 哈爾浜西駅からバスにて安重根記念館へ
11:00~11:50 安重根記念館見学 (ハルビン駅より陳輝武さんの案内)
安重根記念館
*ハルビン駅は初代総理大臣でのちに初代韓国統監となった伊藤博文暗殺の舞台となった場所で、安重根は1909年にホームで伊藤博文を「韓国独立主権侵奪の元凶」と短銃で殺 害、その後、日本側に引き渡され死刑になりました。日本にとっては「テロリスト」ですが、韓国では日本の支配に抵抗した「英雄」とされています。
伊藤博文の暗殺現場(ハルビン駅ホーム)
12:10 バスにてハルビン市内のレストランへ
12:20~13:20 太二中餐庁にて郷土料理の昼食(ハルピンソーセージとピーナッツの炒め、ネギと木耳と豚肉の炒め、東北風味魚醤油煮込み、四川風豚肉料理、干豆腐と豚肉醤油煮込みほか)
13:30~13:55 旧東清鉄道本社見学
旧東清鉄道本社
*ハルビンの東清鉄道本社ビルは、細部の装飾がアールヌーヴォー調で、非常に豪華で立派なもので、現ハルビン鉄路局の向かい一帯には、東清鉄道の宿舎として利用されていた 老建築がたくさん残っています。
東清鉄道博物館
*東清鉄道とは、19世紀末にロシアと清の合弁により設立された中国東北部の鉄道会社で、満鉄の元となった鉄道です。路線はハルビンを起点に満洲里と綏芬河を結ぶ本線と、 ハルビンから旅順へ向かう支線があり、日露戦争後には長春以南が満鉄に譲渡されました。
東清鉄道の機関車
14:10~14:40 聖ソフィア教会見学(外観のみ)
ソフィア教会前で記念撮影
*聖ソフィア教会は帝政ロシアの兵士の軍用教会として1907年に創建され、帝政ロシアの極東地区に現存する最大のロシア聖堂で、内部の壁は赤煉瓦で造られ、四つの入口が あり、表門の最上階の鐘楼には音色の異なる7つの鐘があります。
*典型的なビザンチン様式の建物であり、四階建てで高さ53.35メートル、建築面積は721平方メートルです。
14:55~16:05 スターリン公園散策
スターリン公園
*スターリン公園は1953年に、ハルビン市にある「松花江」南岸に造られ、当初は「川畔公園」という名前でしたが、スターリンの名前が付けられたのは、彼の影響力や権力の 象徴としての意味が込められています。公園の東に松花江鉄道大橋があり、西には九站公園があります。
松花江鉄道大橋
*公園内には色とりどりの「五色草花壇」や「翼を広げる白鳥」「三少年」「動き出す」「飛び込み」「剣舞」など16組の彫像が園内の緑地に分散していますが、公園の中心は ロシアの古典式建築の「防洪記念塔」で、ハルビン人が大洪水に2度も打ち勝った記念に建てられたものです。
「防洪記念塔」
16:15~17:10 中央大街散策
*中央大街は北端の松花江防洪記念塔から南端の経緯街まで広がっており、71棟のヨーロッパ風およびヨーロッパ風に模倣された建物が並び、そのうち13棟が市の保護建築物で あり、ルネサンス、バロック、折衷主義、モダニズムなど多様なヨーロッパ建築様式が集結し、「建築の歴史博物館」とも称されています。
中央大街
*中央大街は歴史の息吹を感じられる商業通りで、ロシア建築の特徴とヨーロッパのロマンチックな雰囲気を持つ場所ですが、東風街には「氷彫刻ワールド」があり、まるで大型冷蔵庫に入ったかのようで、入口から入ると氷彫刻のアーチがあり、内部には恐竜の氷彫刻などがあります。
氷彫刻ワールド
プラウィキレストラン
17:15~18:55 プラウィキレストランにてロシア料理の夕食(ボルシチ、牛肉のつぼ焼、ウォトガ焼鶏、コーカサス焼肉、ロシア風ポテト、ロシア風味酸胡瓜、アゼルバイジャン牛乳肉ほか)
19:20 SOFITEL HARBIN HOTEL(哈爾濱索韮特大酒店)チェックイン
〔旅日記〕 天候は晴れ 25℃
今日は満州の都、長春から伊藤博文が暗殺された哈爾浜(はるびん)に向かいます。また、セキュリティチェックを受けて新幹線に乗車、社内で歴史講座を行いましたが、今回は満蒙開拓団の歴史についても触れました。
1936年に「満州農業移民100万戸移住計画(満蒙開拓)」が国策となりますが、当時の日本国内は世界恐慌のあおりを受け深刻な経済不況に陥り、特に農村経済を支えていた養蚕業は大打撃を受け、農家は借金を背負い、村や町といった自治体も負債を抱えていたのです。そこで、石炭や鉄鉱石などの豊富な資源が取れる満州は、日本にとっての「生命線=国家存続のための必要な地域」と考えられたのです。背景には「満州国」の支配、防衛といった軍事的な目的もあり、日本の戦況悪化、ソ連軍侵攻により、約27万人の開拓団のうち約8万人がなくなったと言われています。
哈爾浜では現地ガイドの陳輝武さんに安重根記念館、旧東清鉄道本社、聖ソフィア教会、スターリン公園そして旧ロシアの雰囲気が残る中央大街を案内していただきました。安重根記念館の展示は暗殺された伊藤博文は否定され、安重根が英雄視されており、観光客も韓国人が多いようです。
旧東清鉄道は、19世紀末にロシアと清の合弁により設立された中国東北部の鉄道会社で、路線はハルビンを起点に満洲里と綏芬河を結ぶ本線と、ハルビンから旅順へ向かう支線があり、日露戦争後には長春以南が満鉄に譲渡されました。その本社ビルや周辺の建物は、細部の装飾がアールヌーヴォー調で、非常に豪華で立派でした。
哈爾浜の象徴である聖ソフィア大聖堂は現在、内部が修復中のため、中には入れませんでしたが、帝政ロシアの兵士の軍用教会として創建された現存する最大のロシア聖堂です。典型的なビザンチン建築で外見も素晴らしいので、私たちは大聖堂をバックに記念撮影をしました。
スターリン公園の近くに架けられた「松花江鉄道大橋」は今年が記念年に当たっているためか、とても混雑していました。私たちはこの橋を見学後、色とりどりの「五色草花壇」や「翼を広げる白鳥」「三少年」などの彫像が鑑賞しながら、公園の中心にある「防洪記念塔」を訪ねましたが、これはハルビン人が大洪水に2度も打ち勝った記念に建てられたものです。
最後に訪れた「中央大街」は歴史の息吹を感じられる商業通りで、ロシア建築の特徴とヨーロッパのロマンチックな雰囲気を持つ場所ですが、ルネサンス、バロック、折衷主義、モダニズムなど多様なヨーロッパ建築様式が集結し、「建築の歴史博物館」とも称されています。
夕食は中央大街付近のプラウィキレストランにてロシア料理を食べましたが、美味しいボルシチを食べるとロシアに来ている気分になりました。
◆4日目 2025年9月4日(木) <哈爾浜(ハルビン)→丹東>
06:15 ホテル出発、バスにて哈爾浜駅へ(朝食はホテルにて弁当積み込み)
06:50 哈爾浜駅到着、 セキュリティチェックを受けて新幹線ホームへ(ガイドの陳さんとお別れ)
哈爾浜ガイドの陳輝武さん
07:48 長春西駅出発 新幹線(G782)にて丹東)へ
新幹線車内で朝食後、ガイディングレシーバーを使用して第4回目の中国歴史講座
新幹線の車内
11:48 丹東駅到着後、バス駐車場へ
12:05 丹東駅よりバスにて市内のレストランへ
丹東駅
*丹東市はかつて安東と呼ばれ、中国遼寧省南部に位置し、鴨緑江を隔てて北朝鮮と接する国境の街です。清朝は満洲での漢人入植を禁止する封禁政策を取っていましたが、1874 年に全面的に解禁し、1876年に安東県を設置しました。
12:15~13:20 陽光酒店にて郷土料理の昼食(陽光野菜サラダ、たらの醤油煮込み、アサリの辛炒め、帆立と卵の炒め、風味牛肉、東北風味豚肉、エリンギ肉炒め、風味茄子ほか)
13:45~15:25 虎山長城、一歩跨見学(原涛さんの案内)
虎山長城前で記念撮影
*虎山長城の入り口で記念撮影をした後、まずは鴨緑江に沿って北上した虎山長城の下に位置する中国と北朝鮮国境の川幅が数メートルとなっている一歩跨(いっぽまたぎ)
を見学しました。
「一歩跨」と鴨緑江
*虎山長城が最初に着工されたのは明の時代で、明長城の東の起点です。現在は200メートルが残され、三つの望楼があり、北へ約五 キロの所に六つの城壁があります。当時は建 州女真族の侵略を防御するために建造されました。
虎山長城
16:10~17:20 鴨緑江クルーズ(原涛さんの案内)
鴨緑江クルーズ
*鴨緑江(おうりょくこう)は、中国東北部と北朝鮮との国境となっている川で、白頭山(中国名:長白山)に源を発し黄海に注いでおり、水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたことからこの名前があります。
北朝鮮の風景
*鴨緑江のクルーズ船は川沿いを航行し、威化島、将軍の館、川を渡る義勇軍の舟橋など、北朝鮮の景色を間近に見ることができ、北朝鮮側の都市の村や女性宿舎などの生活風景 も遠望することができました。
中国と北朝鮮の国境を往く船上にて
17:30 バスにて丹東市内のレストランへ
18:30~19:40 牡丹峰酒店にて朝鮮料理の夕食(朝鮮式焼き牛肉、明太魚炒め、高句麗式火鍋、丹東黄アサリ、朝鮮式サラダ、桂花豚肉、朝鮮もち、塩ヨシエビ、焼きササエほか)
20:00 DANDONG FRIEND PLAZA HOTEL(丹東福瑞徳大酒店)チェックイン
〔旅日記〕 天候は晴れ 28℃
今日の出発は朝が早いため、朝食はホテルではなく、弁当をバスに積んで、丹東に向かう新幹線車内で食べました。
本日訪れる丹東市はかつて安東と呼ばれ、中国遼寧省南部に位置し、鴨緑江を隔てて北朝鮮と接する国境の街です。歴史的に言えば、清朝は満洲での漢人入植を禁止する封禁政策を取っていましたが、1874年に全面的に解禁し、1876年に安東県を設置しました。しかし、1931年に満洲事変が勃発すると直ちに日本軍に占領され、満洲国は1934年安東省を新設、安東県を省城としました。
丹東から明日の旅順観光まではスルーガイドの原涛に案内していただきます。最初に訪れた虎山長城の遺構のある山は、遠くから見ると虎が座っているように見えるため「虎山」と呼ばれ、また遺構から出土する煉瓦が周辺住民の建築にも使われたことから「石山」とも称されmした。この長城は丹東市街より20キロメートル、鴨緑江に沿って北上してその支流の愛河を渡ったところにあり、鴨緑江を隔てて、北朝鮮領の中洲が広がり、まさしく北朝鮮との国境の町です。
実際に長城の下には、「一歩跨(いっぽまたぎ)」と呼ばれる、中国と北朝鮮国境の川幅が数メートルとなっている箇所があります。現実的に渡ることはできませんが、鴨緑江の川幅が一番短いところに飛び石があり、一歩跨からは小船で虎山長城の下を通り、北朝鮮の国境監視所まで往復遊覧することができます。
私たちは本来、明日に鴨緑江クルーズをする予定でしたが、明日、北朝鮮の
(キム・ジョンウン)帰国するため、本日の夕刻にクルーズ船に乗ることにしました。クルーズ船からは鴨緑江断橋の1つを見学でき、鴨緑江両岸の美しい景色や、北朝鮮側の村や女性宿舎などの生活風景も楽しむことができました。クルーズを楽しんだ後、夕食レストランに向かうために、駐車場に戻ってバスに乗車しましたが、なんとエンジントラブルでバスは動きませんでした。しかし、こちらのドライバーは器用にエンジニアと連絡を取りながら、自ら修理して事なきを得ました。
◆5日目 2025年9月5日(金) <丹東→大連>
08:45 ホテルで朝食後、バスにて丹東市内観光へ
08:55~09:05 断橋近くの公園
断橋を遠望
*鴨緑江「断橋」は1911年に大日本帝国が中朝国境の鴨緑江に建設した鉄道橋「鴨緑江橋梁」の遺構です。現在の中国丹東市と北朝鮮新義州市を繋いでいましたが、朝鮮戦争中 の1950年に国連軍の爆撃を受けて北朝鮮側が落橋しました。
*今回は北朝鮮の (キム・ジョンウン)が北京より帰国の際、「中朝友誼橋」を利用するため、断橋付近は規制され立ち入り禁止となりました。
09:20~09:50 錦江山公園
錦江山公園の鳥居
*1905年、日本の僧侶は錦江山の上に隣済寺を建て、その後、日本人は本渓湖で戦死した兵士の骨灰をここに置いて、錦江山には日本神社、八幡宮、忠魂碑を作り、現在も当時 の鳥居が残っています。丹東市の北部にある錦江山の南の麓に位置して、鴨緑江より1.8キロ、山を上がると丹東市と北朝鮮の新義州市の全貌を眺められます。
*この公園も (キム・ジョンウン)帰国警備のために閉山されていました。
10:10~11:20 安東老街散策
安東老街
*2015年に遼寧省丹東市の駅の西にオープンした「安東老街」は、再開発されたレンガ造りのビルの中に100年前の古い町並みを再現したテーマパークです。アウターストリー トとインナーストリートのショップは、古い安東の古典的な建築要素を利用し、古いオブジェクトや100年前の街並みの彫刻を再現しています。
11:40~12:15 陽光酒店にて郷土料理の昼食(陽光野菜サラダ、たらの醤油煮込み、アサリの辛炒め、帆立と卵の炒め、風味牛肉、東北風味豚肉、エリンギ肉炒め、風味茄子ほか)
陽光飯店
12:30 丹東駅到着、 セキュリティチェックを受けて新幹線ホームへ
13:26 丹東駅出発 新幹線(D7746)にて大連へ(列車内で中国歴史講座⑤)
快適な新幹線
15:57 大連駅到着後、バスの駐車場へ
16:25 バスにて大連市内のレストランへ
大地食府
17:00~18:10 大地食府にて春餅料理の夕食(薄きりの豚肉の炒め、四川風の鶏肉炒め、肉甘酢炒め、季節野菜炒め、豚肉の揚げ物、キャベツと海老皮炒め、春餅、ご飯ほか)
18:15 「満谷宝栗」店とスーパーマーケットで買い物
スーパーマーケット
19:25 HOTEL NIKKO DALIAN(大連日航飯店)チェックイン
〔旅日記〕 天候は晴れ 27℃
今日は午後に北朝鮮の
(キム・ジョンウン)帰国するため、鴨緑江周辺は警備が厳しく、予定していた「断橋」には入れず、警備エリア外の公園より遠望しました。鴨緑江断橋は1911年に大日本帝国が中朝国境の鴨緑江に建設した鉄道橋「鴨緑江橋梁」の遺構です。現在の中国丹東市と北朝鮮新義州市を繋いでいましたが、朝鮮戦争中の1950年に国連軍の爆撃を受けて北朝鮮側が落橋したままです。この橋は、日本が建設した橋として初めてニューマチックケーソン工法が使われ、12連単線鉄道トラス橋であり、欧亜連絡運輸の一部でした。また、鴨緑江クルーズは昨日に終えていますので、代わりに錦江山公園を訪ねましたが、ここも警戒エリアとなっており、入山できず、鳥居より遥拝することとしました。錦江山公園は20世紀初に日本人によって建設され、その後何度も改築・拡張され、現在の規模となりました。公園の門を兼ねる鳥居は、古色古香で精巧に作られており、観光客の目を引いて山へと誘っているようでした。
錦江山公園も散策できなかったため、私たちはガイドの原涛さんの勧めで安東老街を散策することにしました。安東老街は、100年前の街並みを再現したレトロテーマパーク兼グルメ街だそうです。日本統治時代の日本街(現、五経街)の写真など、丹東が清朝安東県、満州国安東省だった頃の展示物もちらほら散見でき、珍しい食べ物も並んでおり、興味深い場所でした。
昼食は混雑を予想して、昨日と同じレストランで食べ、早めに丹東駅に向かいました。丹東から大連に向かう新幹線の列車内では、歴史講座として日清・日露戦争における旅順港の戦いを中心に解説しました。
日清戦争は、朝鮮半島を巡り、清国と日本の対立が深まる中、1894年に勃発した「甲午農民戦争(東学党の乱)」が直接的な引き金となりました。日本と清国はそれぞれ朝鮮への出兵を決定、その結果、清国との対立が激化し、日本軍の王宮占領後に日清戦争に発展したのです。1894年7月25日、豊島(ほうとう)沖海戦で日本海軍が清国艦隊を破り、戦闘開始となりました。
日本陸軍は朝鮮半島で清国軍を破り、遼東半島へ進攻し、日本海軍は黄海海戦で清国海軍を破り、制海権を掌握します。1895年1月、日本軍は遼東半島の旅順を占領し、2月には山東半島の威海衛を攻略した結果、清国は講和を求め、日本に全権大使として李鴻章を派遣しました。
日清戦争での日本の勝利は、アジアにおける日本の地位を向上させ、朝鮮は清国より独立し、日本は朝鮮への影響力を強め植民地化します。また、台湾、澎湖諸島を日本が領有、台湾には総督府が置かれますが、三国干渉により、日本の対ロシア感情が悪化、日露戦争へとつながっていきました。
大連に到着後は市内レストランにて夕食をとりましたが、ホテルに戻る途中、中国のスーパーマーケットに立ち寄りました。
◆6日目 2025年9月6日(土) <大連→旅順→大連>
08:30 ホテルで朝食後、バスにて旅順観光へ
星海湾大橋
08:50 星海湾大橋通貨
*星海湾海上大橋(星海湾大橋)は通常の橋桁橋と中央部分を吊橋とした橋で、中国初の2層(上段は西向き)の高速道路です。橋の建設は2011年に始まり、2015年10月30日 に開通し、全体の長さは6キロメートルで、そのうち吊橋の長さは820メートル、高さは30メートルで、中心部分は星海広場に面しています。
09:45~11:10 東鶏冠山見学
東鶏冠山にて記念撮影
*鶏のトサカに似た形状をしているために名づけられたこの東鶏冠山の標高は海抜119mで、日露戦争の中でも最も凄惨な戦いが繰り広げられた戦場の一つです。日本軍が東鶏冠山を落としたのは、203高地を奪取(12月6日)した約10日後の1904年12月18日でした。
11:30~12:50 203高地見学
203高地にて記念撮影
*203高地は、遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵で、旅順港の西北にある標高203mのこの丘を占拠すれば、港のロシア艦隊を攻撃できるとして、激しい攻防が繰り広げられました。
日本の砲f台
*203高地は旅順港を見下ろせる戦略拠点であるため、特攻的な作戦も多く、特に「白襷隊」と呼ばれる部隊が行った夜襲は象徴的です。
13:00~13:55 水師営レストランにて郷土料理の昼食(モヤシの炒め、トマト卵炒め、イカ・ピーマンの炒め、キャベツ豚肉炒め、揚げ魚、酢豚、茄子の煮込み、麻婆豆腐、スープほか)
水師営
*旅順駅から北へ4キロほどの水師営のある農家で、日露戦争中の1905年(明治38)1月15日、停戦条約が締結されました。
*日清戦争後、第三軍司令官乃木希典大将と旅順要塞司令官 アナトーリイ・ステッセル中将がここで会見したとされる場所ですが、水師営とは村の名であり、その会場として指 定されたのは劉という百姓の家で、戦闘中この家は日本軍の野戦病院に使われていました。
水師営での説明
14:53 旅順港・勝利塔(車窓)
*旅順軍港は清朝により北洋艦隊の基地として威海衛(本部)と共に1890年代に建設され、旅順市街地から南にあり、渤海から老虎尾と黄金山に守られた旅順湾へ入ったところにあります。
14:57~15:05 コンドラチェンコ司令官旧居
コンドラチェンコ司令官旧居
*コンドラチェンコ司令官は、日露戦争の旅順攻囲戦で日本帝国陸軍を苦しめた名将で、最後までロシア軍の前線に立って、ロシア兵を鼓舞し続けたとされています。コンドラチェンコ司令官は、ここを生活拠点に軍の指揮を取り、旅順要塞を守っていました。
15:08~15:15 川島芳子旧居
川島芳子旧居
*川島芳子の旧居は中国遼寧省旅順の旧粛親王府(旧じゅくしんのうふ)跡で、彼女が日本へ行くまでの7年間、清朝の王女として暮らした場所です。1912年~1945年まで旧満州粛親王一族の邸宅として使用され、粛親王府となりました。そして、1932年にラストエンペラーの愛新覚羅溥儀と夫人の婉容もここに滞在していました。
15:16 旅順ヤマトホテル(車窓)
旅順大和ホテル
*1908年に満鉄が旅順ヤマトホテルとして開業し、開業当時は15部屋の小規模ホテルでした。この建物は元々ロシアと関係が深かった豪商紀鳳台の私邸を改良したものです。
15:20~16:20 旅順博物館見学
旅順博物館
*旅順博物館は帝政ロシア時代の建物で、当時はロシア人将校クラブとして利用されていた軍の施設でしたが、日本が旅順を占領した後、1915年に満豪物産陳列所として開設、翌年、関東軍都督府満豪物産館と名称を変更し、1917年に博物館として一般に公開されるようになりました。
*日本人の大谷光端率いる大谷探検隊がシルクロードで発見したミイラ2体が、この博物館のハイライトです。
16:35 旅順港・旅順駅(車窓)
旅順駅
*旅順軍港は清朝により北洋艦隊の基地として威海衛(本部)と共に1890年代に建設され、旅順市街地から南にあり、渤海から老虎尾と黄金山に守られた旅順湾へ入ったところにあります。
*旅順駅は、大連市旅順口区にある旅順支線の終着駅で、旅順駅より旅順軍港の埠頭へ引込み線が延びています。1903年開業、瀋陽鉄路局の管轄する2等駅で旅順軍港のすぐそばにあり、ロシア風の木造建築の駅です。
16:55~17:45 白玉山
白玉山で記念撮影
*白玉山は海抜が130mあり、山頂には蝋燭のような形をした「表忠塔」がありますが、この塔は日露戦争が終結後、日本海軍大将東郷平八郎と陸軍大将乃木希典の提案で、25万 円の募金と、のべ2万人の労力を用いて、1907年6月に着工し、1909年11月に完成しました。
*山頂にある展望台からは軍港として利用されている旅順港を一望することができ、また203高地も遠望できます。
軍港の旅順港
18:50~19:15 満谷宝栗にて買い物
満谷宝栗
19:30~21:00 天天漁港にて海鮮料理の夕食(ヒラメの刺身、春雨入りの帆立貝の煮物、焼き大海老、石鍋ウニ豆腐、韮とイカの炒め、ネギと海鮮炒め、鉄板牛肉、アサリ辛炒めほか)
21:10 HOTEL NIKKO DALIAN(大連日航飯店)到着
◆7日目 2025年9月7日(日) <大連→羽田>
10:35 ホテルで朝食後、バスにて大連空港へ
スルーガイドの原涛さん
10:55 大連空港到着
*7日間お世話になったガイドの原涛さんとお別れ
12:30 27番ゲートに再集合
13:00 日本航空024便(JL-024)にて帰国の途へ
17:00 羽田空港到着
羽田空港