荒波を越えた男たちの物語「北前船寄港地と船主集落」
北前船とは?北前船の歴史と果たした役割
北前船は、江戸時代から明治時代にかけて商品を預かっての運送ではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる主に買積みの廻船でした。
北前船が登場する以前には、北海道の産物は近江商人が敦賀で荷揚げして琵琶湖を経由し、大坂へ運んで売りさばいていましたが、寛文12(1672)年、幕府は川村瑞賢に最上川流域の天領米を酒田から江戸まで運ぶ航路の整備を命じました。
酒田から江戸へは、太平洋岸を航行する「東回り」の方が近いのですが、危険な海域が多いため、瑞賢はより安全な佐渡の小木、下関経由で大阪へ至る「西回り航路」を整備したのです。
そして近江商人の敦賀~北海道航路と、瑞賢の西回り航路のうち、酒田~大阪航路が結びついたのが北前船航路です。
北前船のルートと寄港地
船の大きさは通常500石から1,500石で、なかには2,000石近い大型船を持ち大小200艘もの船団を擁する大船主もいました(千石船は積載量150t)。そして北前船は通常1年1航海で大坂と北海道を往復しました。
下 り(大阪→北海道、対馬海流に対して順流)
① 3月下旬頃: 大阪を出帆。
② 4 – 5月: 航路上の瀬戸内海・日本海で、途中商売をしながら北上。
③ 5月下旬頃: 蝦夷が島(北海道)に到着。
上り(北海道→大阪、対馬海流に対して逆流)
④ 7月下旬頃: 蝦夷が島(北海道)を出帆。
⑤ 8 – 10月: 航路上の寄港地で商売をしながら南下。
⑥ 11月上旬頃: 大阪に到着。
出戸時代、稲を育てられなかった松前藩では、ほとんどの生活物資を本州から手に入れる必要がありました。そのため、下 りではあちこちの寄港地で売れそうなものを何でも買い、帰りにはニシン、昆布などを満載して瀬戸内海を目指しました。
すなわち下り荷は、飲食品(米や酒、砂糖)、瀬戸内海の塩(漁獲物の塩漬けに不可欠)、日常生活品(木綿製品、煙草、紙、陶磁器、漆器、蝋燭)、藁製品(縄や筵)、石などですが、上り荷は、ニシンを中心とした海産物が主で、昆布(中国へ輸出)、干したアワビ、ナマコ、フカヒレ(俵者)などで下り荷ほど種類は多くありません。
北海道の北前船寄港地
北前船の折り返し点は、北海道の港で、松前藩の人々の食料、生活物資を運び、帰りにはニシン、昆布などを積んでいました。松前藩では出港税を徴収する関係で、すべての廻船を監視するためにも交易港は当初、松前、江差、函館の3港に限定しており、松前藩の出港税は、船の大きさに応じて税額が決められたため、それが次第に北前船の形を変えました。
北海道小樽市旧北浜地区
小樽港は江戸時代後半にニシン漁業と明治以降の港湾整備で発展し、多くの船主たちは小樽に倉庫を設立しました。
江差追分で恋する女性の想いが詠われた場所で、旧北浜地区倉庫群には当時の面影が残っています。
北海道石狩市厚田
松前藩の時代が終わり、江差、函館、松前以外への北前船来航が可能となると、多くの北前船は鰊粕を求めて北へ向かいました。北前船は石狩の人には宝船とされ、厚田には弁財船塔錨地の碑、厚田神社には鰊の豊漁記念碑があります。
また、石狩川河口の石狩は鮭とともに発展した町でした。
北海道江差町
北前船が停泊した天然の防波堤「鴎(かもめ)島」ですが、今は陸続きで渡れ、老婆が神様から授かった瓶子(へいし)のなかの水を海に注ぐとニシンが群れたとの伝説に基づく「瓶子岩」を過ぎたあたりに、北前船の係船跡が残っています。
また、江差追分会館では「江差追分」の生いたちや変遷をたどるさまざまな資料が展示されています。
北海道松前町
17世紀、松前藩屋敷前に出店を開いた近江商人は、松前の鰊、昆布などの海産物を大阪、京都の市場で売りさばき、代わりに呉服、米、味噌などを松前に運んで商いをしていました。
しかし、運ばれたのは物資だけでなく、京都の文化も伝えられ、松前城が桜の名所となったのも京から嫁いだ松前藩藩主の奥方が桜の木を植えたのが始まりと言われています。
北海道函館市
東蝦夷地のアイヌ交易によって、その産物が箱館経由で流通すると、北前船の来航が急増しました。
そして函館奉行と豪商の高田屋嘉兵衛によって函館市街地の整備が進められ、夜景の名所「函館山」では、北前船の男たちが出向前に日和を見ていました。
日本海の北前船寄港地
北前船は江戸中期から明治30年代まで、蝦夷(北海道)と大坂の間を、日本海沿岸の諸港に寄港しながら、下関、瀬戸内海を通って往来した廻船です。上方や瀬戸内では、「北前」とは「日本海側」を指し、北の日本海から来る船を「北前の船」と呼んだことに由来します。
日本海沿岸では北前船とは呼ばず「千石船」「弁才船(べざい)」、また越中地方では一度の航海で倍の儲けが得られることから「バイ船」と呼びました。
〔風待ち港〕:青森県鰺ヶ沢町・深浦町、秋田県男鹿市・にかほ市、兵庫県新温泉町
〔日本海寄港地〕:青森県野辺地町、秋田県能代市・秋田市・由利本荘市、山形県酒田市、新潟県新潟市・長岡市・上越市、富山県富山市・高岡市、石川県小松市、福井県坂井市・敦賀市・小浜市、京都府宮津市、鳥取県鳥取市、島根県浜田市
青森県鰺ヶ沢(あじがさわ)町
津軽藩の海の玄関で、藩米を大阪に積み出す御用港として栄え、200年前以上前の「鰺ヶ沢町絵図」の姿と変わらず、鰺ヶ沢総鎮守の白八幡宮は坂上田村麻呂ゆかりの神社です。
日和山は阿倍比羅夫が渡嶋に渡るため日和を見た場所です。北の京菓子として人気の鰺ヶ沢名産「鯨餅」は、京都発祥の上品な味わいの餅菓子です。
青森県深浦町
津軽で一番の風待ち港であった深浦町の行合崎(ゆきあいざき)は、その沖で北前船が行き交うことから命名されました。
深浦町の円覚寺は、航海の安全を願う船乗りたちの信仰を集め、彼らが嵐に遭遇すると無事を願ってちょんまげを切り落としてご加護を祈り、無事に生還したお礼参りとして奉納されたとされる髷(まげ)が残る「髷額」が28点残っています。
秋田県男鹿市船川港
船川港は男鹿半島南東部に位置し、北西にある真山が季節風を防ぐため、北前船が避難する「風待ち港」として栄えました。
北前船の船乗りを相手に芸者が唄った秋田船方節や「ナマハゲ」ゆかりの真山(しんざん)神社の五社殿に残る船乗りたちの落書き、双六の船絵馬など、男鹿には北前船が関係しているものがたくさん残っています。
秋田県にかほ市塩越湊
北前船は、にかほ市では塩越湊のほか、金浦、三森、平沢にも寄港しましたが、塩越湊の周辺には16の神社があり、全部で約130点の船絵馬が残っています。中でも八幡神社は「船着き八幡」といわれ、多くの船絵馬が奉納されています。
戸隠神社には安永9(1780)年に奉納された、秋田県最古の「永久丸」の船絵馬があります。
兵庫県新温泉町諸寄(もろよせ)
兵庫県新温泉町諸寄(もろよせ)は、日本海の狭い入り口から内部に広がる天然の良港で、江戸時代から、北前船の寄港地として栄え、中藤田家(網干屋)、東藤田家、道盛家(千原屋)などの有力船主が活躍し、今も日和山には灯台が立っています。
今でもたくさんの廻船問屋の屋敷が保存され、北前船 寄港地の名残が残り、東藤田邸は、現在ゲストハウスとして活用されています。
青森県野辺地町
盛岡藩の湊町として発展し、領内の大豆、銅などの物資が積み出されていました。
野辺地漁港そばの常夜燈公園には、日本古来の和船の建造技術や歴史を後世に伝えるために、船大工16名によって建造された復元船「みちのく丸」が陸揚げ展示されています。
秋田県能代市
米代川河口に位置する能代は、流域からの木材や金銀銅などが運ばれ、中でも秋田杉は秀吉の伏見築城で多く使われたため「太閤板」とも呼ばれ、能代は「東洋一の木都」になりました。
旧料亭「金勇」は秋田杉を使い、職人の技で建てられました。北前船の灯台代わりにも使われた「能代凧」は、北前船の船乗りたちが腹に顔を描いた踊りが起源といわれています。
秋田県秋田市土崎港
19世紀には土崎港へ入港する北前船は、年間600艘を超え、12軒の廻船問屋が賑わい、秋田杉や海産物や米が出荷されました。
高清水公園の五輪塔は北前船が港に入る目印だったとされ、日和山とされた場所には地蔵院虚空蔵尊堂が建っており、石灯籠や百度石などが残ります。
秋田県由利本荘市石脇湊・古雪湊
江戸時代、由利本荘市を流れる子吉川河口には亀田藩の「石脇湊」と矢島藩・本荘藩の古雪湊が川を挟んで整備されました。石脇湊には廻船問屋や旅館・料理屋が軒を連ね、古雪湊は、「廻船問屋十人仲間」と呼ばれた本荘藩公認の株持ち問屋が10軒あり、船乗りのための旅館街や花柳街もありました。裸参りの新山神社は船乗りが日和を見た場所とされています。
山形県酒田市
酒田港では米以外に紅花を積み、帰りの荷には、その紅花で染められた雛人形や京友禅などの京の文化を運んできました。
「西廻り」航路を開いた河村瑞賢像の建つ日和山公園には、300余年前の御米置場、日本最古級の洋式木造六角灯台が残り、北前船として活躍した千石船も2分の1で再現されています。
江戸時代から酒田を代表する料亭であった「相馬屋」の主屋は、明治27年の庄内大震災の大火で焼失してしまいましたが、残った土蔵を取り囲み、伝統に新しい息吹を加えて修復した「舞娘茶屋 相馬樓」では、舞娘さんの踊りやお食事を楽しみ、雛人形や古美術品の展示も見ることができます。江戸時代から守られてきた酒田の伝統が、宴席での「芸」だけでなくその場を華やかにする「舞娘」に込められています。
新潟県新潟市
北前船の水先案内のために日和を見た日和山には、現在も残る住吉神社や方角石に、ありし日の新潟が偲ばれます。
北前船の隆盛で、全国屈指の花街となった新潟の伝統ある「新潟古町芸妓の舞」は、北前船で財をなした齋藤家が大正期に建てた別荘「旧齋藤家別邸」でも鑑賞できます。
新潟県長岡市寺泊
江戸時代の寺泊は、「日本海の鎌倉」とも呼ばれ、由緒ある街並みですが、本州から最短距離で佐渡島に渡れる地として、海上交通の要衝でもありました。
寺泊の聖徳寺庭園は、江戸時代中頃、北前船が大阪の港から大和の石と京都の庭師を乗せて来て、檀信徒多数の勤労奉仕により築かれたものと言われています。
新潟県上越市直江津
直江津(今町湊)は、室町時代の海洋法規集「廻船式目」で当時の重要な港を表す三津七湊(さんしんしちそう)の1つに名を連ねていました。
江戸時代には高田藩の外港として発展し、直江津には北前船で栄えた風情が漂い、北前船がもたらした笏谷石や御影石などが町中に見られます。
富山県富山市東岩瀬
富山湾に面した東岩瀬は、神通川河口右岸の良港で、加賀藩の米倉が設けられ、北前船の寄港地として繁栄しました。
旧北国街道沿いには、北前船で巨万の富を得た船主が明治初期に建てた屋敷が立ち並び、中でも岩瀬五大家の1つ廻船問屋森家の旧屋敷では、南北の土蔵の扉に施された漆喰の絵など、随所に贅を尽くした意匠が見られます。
富山県高岡市伏木港
高岡市の伏木港には、最盛期に大小30軒の廻船問屋があり、加賀藩に莫大な富をもたらしました。
高岡市伏木北前船資料館は、廻船問屋であった旧秋元家住宅を利用し、伏木と周辺の村々の歴史、当時の水運の様子を紹介するほか、貴重な資料を展示しています。民家としては建築年代が古く、船の出入りを見張った望楼も残っています。
石川県小松市安宅(あたか)
加賀藩前田家三代利常公が小松城(芦城公園)に隠居した寛永16(1639)年に、藩米を下関を廻って大阪へ海路輸送したのが北前船の始まりと言われています。
小松では、歌舞伎「勧進帳」で知られる安宅が拠点で、安宅住吉神社は武蔵坊弁慶が疑われながらも難を逃れたとの伝承から、難関突破に霊験があるとされています。
福井県坂井市三国湊
福井県一の大河「九頭竜川」の河口に位置する坂井市三国町の三國湊は、九頭竜川やその支流「足羽川」などを使った水運による物流の拠点として昔から栄え、格子戸が連なる町家、豪商の面影が残る建造物など、情緒ある町並みが残っています。
「みくに龍翔館」には、北前船に関する歴史資料を中心に三国のすべてがわかりやすく展示されています。
福井県敦賀市敦賀湊
敦賀湊は、古来より北国の物資が京都などへ運ばれる際の中継地としての役割を果たし、松前藩の漁場での交易権を独占した近江商人の荷物を運ぶ船を、敦賀を含む北陸の船主達が“運賃積み”で運営していました。
後に北前船の“買い積み”による財力が、気比神宮例祭の山車をはじめとした地域の伝統文化を維持する資金となり、明治以降の近代化の礎となっていきました。
福井県小浜市小浜西組
若狭小浜は天然の良港で、御食国(みけつくに)と呼ばれ、古くから海と都をつなぎ、朝廷に海産物の御食料を納めていましたが、江戸時代に入ると北前船寄港地としてさらに繁栄し、新鮮な鯖を都に運ぶ「鯖街道」の起点でもありました。
小浜湾に面した古い町並み「小浜西組」は、重伝建地区に指定され、当時の料亭建築「蓬嶋楼」や芝居小屋、船主別邸などが残り、船主が信仰した八幡神社には「船玉」と呼ばれる北前船模型が数多く奉納されています。
また、北前船で運ばれた産物や技術により、港町・城下町として栄えた小浜には、津軽塗の技法を取り入れたと伝わる「若狭塗」や北海道からもたらされた「めのう原石」を加工した工芸品である「若狭めのう細工」などの伝統産業もが根付いています。これらの伝統工芸・産業は、「御食国若狭おばま食文化館」で各種の工芸体験として楽しむことができるだけでなく、港町の中心には、北前船船主の娯楽の場であった芝居小屋「旭座」があり、まち歩き観光の拠点となっています。
京都府宮津市
日本海を東西に巡る北前船開運で賑わった港町宮津には、「二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空となる 丹後の宮津でピンとだした」と『宮津節』に唄われて、全国に広く知られ繁盛した新浜遊郭がありました。この遊廓は、幕末の天保十三(1842)年、時の宮津城主本荘宗秀が、それまで城下町にちらばっていた茶屋を集めたのがはじまりで、日本海を東西に廻るかつての和船頭たちが、ふかくなじんで宣伝したと言われています。
河原町通りに面して屋敷を構えた、「元結屋(もっといや)三上家」は、江戸時代に廻船業で富を築いた旧家ですが、酒造業も営み、のちには宮津藩の財政にも深く関与しました。建物の旧三上家住宅は、幕府巡見使の本陣としても利用され、専用の門なども残し、妻入の主屋を中心として南側に新座敷、庭座敷を連続し北側に釜場と酒造蔵などを配しています。
“海の京都”で見る絶景「由良川橋梁」
「京都丹後鉄道」宮舞線の宮津駅と丹後由良駅間にある「由良川橋梁(ゆらがわきょうりょう)」は、由良川河口水面近くを一直線に架かる美しい姿で有名ですが、この丹後由良地区はかつては湊千軒と言われ、北前船の船主・船頭衆の出身地でもありました。
鳥取県鳥取市賀露港
鳥取県鳥取市の賀露港は、千代川と湖山川が合流して日本海に注ぐ河口に位置しており、北前船船主が集住していたことで知られる港町で、小路に入っても、そのほとんどが海に通じていました。
賀露神社には船絵馬や北前船の船模型だけでなく、錨や尾道石工の御神灯なども奉納されています。
鳥取県浜田市外ノ浦(とのうら)
浜田市には、外ノ浦・瀬戸ヶ島・長浜の三つの港がありますが、中でも外ノ浦(とのうら)は北前船(弁財船)の風待ち港及び瀬戸内方面への中継点として栄えた浜田藩最大の貿易港でした。浜田市街地から、北へおよそ2kmの松原湾奥地にあり、江戸時代に西廻り航路の寄港地となって栄え、現在は漁港となっています。
外ノ浦の特徴は、大きな船主屋敷が集住する形態ではなく、山に抱かれた深い入江に沿った湾内のわずかな平地に、廻船問屋をはじめとした小規模な集落が形成されている点です。江戸時代から変わることのない風景と寄港地の面影を色濃く残し、海上安全を祈願した湾内の金刀比羅神社は、地形の関係で本殿が拝殿の横を向いている珍しい造りです。
外ノ浦日和山に整備された中国遊歩道沿いの標高85m地点には、花崗岩製の「方角石」が立てられており、12支を彫り込んで方角を示しています。北前船の時代、船乗達は日和山の方角石で風向きや潮の流れなどを確認し、出発の時を決めたとされ、方角石は海上交通上大きな役目を果たしていました。
また、この場所は西に向って広がる日本海が見渡せる位置にあり、岬の夷(えびす)ノ鼻、万年ケ鼻などの夕映えの景観はすばらしく、かつて海の男たちが活躍した日本海を眺望することができます。
船主を輩出した集落
北前船主が活躍した海村は、北陸を中心に日本海側に広範囲に分布しており、新潟県佐渡市宿根木、福井県南越前町旧河野村、石川県輪島市門前などがありますが、とりわけ石川県加賀市橋立村、瀬越村、塩屋村は多くの北前船主や船頭を輩出し、「北前船のふる里」として知られています。
なかでも橋立の久保彦兵衛、西出孫左衛門と瀬越の広海二三郎、大家七平の4人は「加賀4大船主」と呼ばれています。南越前町の河野浦は耕作地がほとんどなく、古くから船乗りを輩出した村ですが、幕末に中村三郎衛門、右近権左衛門が北前船で急成長しました。
船主集落:新潟県佐渡市、石川県輪島市・加賀市、福井県南越前町
新潟県佐渡市宿根木
北前船寄港地でたらい船でも知られる小木港から南西約4kmに位置する宿根木は、江戸時代中期から明治にかけて日本海を舞台とする廻船業に加え、造船基地としても発展しました。
旧・宿根木小学校の木造校舎を利用した「佐渡国小木民俗博物館」には、民俗学者の宮本常一が住民に呼びかけて集めたという、海運の歴史を物語る貴重な品々が収められており、宿根木で建造された北前船を当時の設計図をもとに復元した千石船「白山丸」も展示されています。
小木が金銀を運ぶ「奉行船」の港としてだけでなく、1672年(寛文12)に北前船寄港地になったのも追い風となり、宿根木には船主、船乗りや船大工だけでなく、桶屋、鍛冶屋、石屋など様々な職種が集まりました。
宿根木には石置木羽葺(いしおきこばぶき)屋根、石州瓦を用いた茶色い屋根、能登瓦(のち三州瓦)の黒い屋根の家々が入り混じるノスタルジックな風景が広がっており、小さな入り江に面した集落の真ん中には称光寺川(しょうこうじがわ)が流れていますが、この川筋は人為的なものと言われています。
海と山が混ざり合ったような荒れた土地であったため、住民は自分たちで川筋を決め、道割をし、その間にできた土地に家を建てました。そのため、正方形の宅地は少なく、その代表格がランドマークの「三角家(さんかくや)」で、敷地に合わせて三角形に切り詰めて建てられていおり、なんとなく船の舳先を思わせます。それもそのはず、この家は壁板や船釘の使用など、船大工の技術が随所に応用されているのです。
石川県輪島市黒島地区
輪島市門前(黒島)は、能登半島の地理的な利点を生かした北前船の拠点であり、黒島地区伝統的建造物群保存地区には、船主や船員の居住地として栄えた集落が残っています。
廻船問屋であった角海家には、往時の隆盛をしのぶ豪華な収蔵品が展示されており、かつての繁栄ぶりを堪能できます。
石川県加賀市橋立
加賀市の瀬越と橋立の集落は、北前船で財を築き、「日本一の富豪村」と言われていました。
近くの山中温泉には船乗り衆が湯地に訪れ、彼らが歌う「松前追分」を聞いた浴衣娘(ユカタベ)さんが真似たのが山中節の起源とされています。
石川県加賀市瀬越(せごえ)村
瀬越村(せごえむら)は、現在の加賀市大聖寺瀬越町にあたり、北前船の船主・大家家、広海家の邸宅があって、加賀橋立とともに『日本一の富豪村』と称されました。
広海(ひろみ)家は1820年頃、2代当主・広海二三郎が北前船による廻漕問屋を始め、大聖寺藩の御用を承る代々船主となり、明治維新後、5代広海二三郎と大家七平は産業革命の波に乗り大成しました。
福井県南越前町旧河野村
福井県南越前市旧河野村は、越前海岸の南端に位置し、京都への物資輸送の中心基地だった敦賀にも近く、「海とともに生きてきた村」でした。
「河野北前船主通り」には、北陸五大船主の一人、右近家の豪邸や「中村家住宅」など、かつて栄華を誇った船主たちの屋敷が並んでいます。
北前船の巨大市場「瀬戸内海」
北海道でニシン粕や食品の昆布を満載した北前船は、瀬戸内海各地で荷物を売り払いながら「天下の台所」の大坂を目指しましたが、早くから綿花、藍などの換金作物の栽培が始まった瀬戸内では、北前船のもたらす肥料のニシン粕は争って買い求められました。
特に昆布は大阪で荷揚げした後、幕府会所によって長崎に運ばれ、中国へ輸出される重要な商品で、千石船の「一航海で利益千両」の商いは、瀬戸内海全体が巨大市場だったから成り立ちました。
広島県呉市御手洗(みたらい)
呉市の御手洗は、瀬戸内海の大崎下島に位置する、潮待ち・風待ちの港町で、「船宿カフェ若長」など、風情ある建物が建ち並び、小路のほとんどが海に向かう町並みとなっています。
御手洗の町並みの特徴は、江戸時代の中頃から幕末にかけて形成されていった町の形態や構造がよく残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
広島県尾道市尾道港
中世より瀬戸内海最大級の港町として発展した尾道港ですが、室町時代以降は「村上海賊」が近くの芸予諸島に現れ、通行料と引き換えに水先案内や海上警護を請け負いました。
江戸中期には寄港する船がさらに増え、石細工や塩、鉄碇などが尾道から各地へと積み出され、なかでも良質な花崗岩の石細工は、日本海側へと多く運ばれて行きました。
岡山県倉敷市下津井
倉敷市には児島半島の先端に岡山藩の外港として栄えた下津井、大規模な干拓によって綿花栽培と積み出しで栄えた玉島、そして野崎浜の塩田から塩を積んだ児島の3港があります。
これらの地域では綿の栽培が盛んに行われ、肥料となるニシン粕が必要でした。玉島は綿とニシン粕の取引地として、また下津井では帰り荷として綿の他に児島の塩が喜ばれました。
兵庫県赤穂市坂越(さこし)浦
赤穂市の坂越(さこし)浦は弧を描く坂越湾と湾内に防波堤となる生島(いきしま)があり、古くからの良港でしたが、西廻り航路の発展とともに、北国産物輸送の主導権を奪われたため、19世紀以降は、赤穂の塩問屋などから塩を購入して江戸へ廻送する塩廻船として生き残っていきました。海に向かう「大道」にそって、廻船業者・浦会所など北前船寄港地の町並みが残っています。
毎年10月の第2日曜日に行われる坂越の船渡御祭(坂越の船祭り)は坂越の廻船業が繁栄していた頃に始められ300年以上歴史がある伝統行事で、航行安全を祈願し、御輿を乗せた色鮮やかな船行列が大避(おおさけ)神社から生島まで巡航するこの船祭は、宮島の管弦祭、大阪の天神祭と並ぶ瀬戸内三大船祭りの一つです。
大避神社は秦河勝(はたのかわかつ)、天照大神、春日大神を祀っていますが、秦河勝は聖徳太子の同志として活躍した秦氏出身の豪族で、京都最古の寺とされる広隆寺を建立、聖徳太子より賜った弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)を安置したと言われています。
大避神社の拝殿両翼には多数の奉納絵馬が掲げられていますが、その中に坂越の廻船業が繁栄していた頃に奉納された享保7(1722)の日本で最も古い船絵馬が目をひきます。
工楽松右衛門ゆかりの兵庫県高砂市
工楽(くらく)松右衛門ゆかりの高砂は、加古川河口に位置し、加古川舟運と瀬戸内海の北前船中継地として繁栄しました。
高砂神社境内に像が建つ工楽松右衛門は、発明家であり実業家であった人物で、破れやすく貧弱だった北前船の船の帆を、丈夫で破れにくく水切りも良い帆布「松右衛門帆」を開発し、北前船の航行性能を飛躍的に向上させました。
兵庫県洲本市五色町都志(つし)
洲本市五色町都志(つし)は廻船業を興し、蝦夷地開拓や日露民間外交の先駆者として活躍した高田屋嘉兵衛の生誕地で、嘉兵衛は22歳の時に兵庫へ出て拠点を構え、後に箱館(函館)に拠点を移し、幕府の御用商人となりました。
都志八幡神社は北前船の船乗りたちに崇拝された神社で、船主・水主が奉納した石燈籠が多数残ります。
兵庫県神戸市兵庫津
兵庫津(ひょうごのつ)は、8世紀初頭、大輪田泊と呼ばれ、近畿から中国・九州へ向かう航路の船泊りとして築かれました。平安時代の終わりごろには、平清盛が日宋貿易に大輪田泊を利用し、大きな港に大修築し、重要な国際貿易港になります。
北前船の時代には高田屋嘉兵衛が択捉航路を開き、北海道物産交易の基地としても賑わいました。高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の『菜の花の沖』にも描かれていますが、兵庫の西出町に居を構え、和泉屋伊兵衛のもとで沖船頭として働いていました。そして後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出し、国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献しました。
地元では「ちぢみさん」と呼ばれている西出町の鎮守稲荷神社には、ピリケン菩薩(ビリケン)が祀られていますが、高田屋嘉兵衛が海上交通安全を祈って献上した石灯篭も残っています。
大阪府大阪市難波津・住吉(すみのえ)津
北前船の起終地となった大坂は、古来から「難波津」、「住吉津」を擁し、朝鮮半島や中国大陸など海外に開かれていました。
北海道や日本海沿岸の地域との間を結ぶ北前船、江戸との間を結ぶ菱垣廻船をはじめ、京都との間を結ぶ三十石船や伏見船など多くの船が往来し、住吉大社は航海の守護神でした。
北前船の果たした役割
徳川幕府のおひざ元である江戸は、当時百万人もの人口があり、大坂から江戸への菱垣廻船や樽廻船、塩廻船などで大量の物資が運ばれましたが、これらは片道運賃で稼いでいました。しかし、北前船は「買積(かいづみ)船」で、寄港地で商売をしながら往復していたため、千石船で大坂と蝦夷を1往復すると千両(約1億円)もの利益を得ました。
本州からは、米や塩、砂糖、酒、酢、鉄、綿、薬、反物や衣類などあらゆる生活物資を積み込み、売買しながら日本海を蝦夷地に向けて北上し、逆に、蝦夷地からは、主に昆布や鰊、鰊粕、干鰯(ほしか)、鮭、鱈などの海産物を運びました。
そして北前船は船主に巨富をもたらしただけでなく、鰊粕や干鰯などの魚肥は、上方の綿花栽培を支え、木綿の衣類を普及させたほか、昆布は食文化を一変させるなど、各地の生活と郷土の文化にさまざまな影響を及ぼしました。
海の大動脈として物流を支えた北前船は、いわば“海を往く総合商社”であり、北前船は身分制度のあった時代に自分の才覚と努力で一攫千金を狙える庶民の夢物語だったのです。
荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~
所在自治体〔北海道、青森県、秋田県、山形県、新潟県、富山県、石川県、福井県、京都府、大阪府、兵庫県、島根県、岡山県、広島県、香川県の各市町村〕
日本海や瀬戸内海沿岸には、山を風景の一部に取り込む港町が点々とみられます。
そこには、港に通じる小路が随所に走り、通りには広大な商家や豪壮な船主屋敷が建っています。
また、社寺には奉納された船の絵馬や模型が残り、京など遠方に起源がある祭礼が行われ、節回しの似た民謡が唄われています。
これらの港町は、荒波を越え、動く総合商社として巨万の富を生み、各地に繁栄をもたらした北前船の寄港地・船主集落で、時を重ねて彩られた異空間として今も人々を惹きつけてやみません。
一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定
私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。