世界経済に影響を与えた日本における銀生産の歴史「石見銀山」
世界遺産認定された島根県の石見銀山は、「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」と言われていますが、私は特に東西文明交流に果たした役割に注目したいと思います。江戸時代の鎖国政策により、海外からの新技術の導入が遅れて石見銀山は休山となりましたが、結果的に伝統的な鉱山遺構が残されました。
今日の日本は資源が乏しい状況ですが、17世紀初頭の日本は、銀の産出国として世界産出量のおよそ3分の1に相当する量を生産し、16世紀以降に来航するようになったポルトガル、オランダなどとの交易で石見銀山の銀が大量に使われたのです。
14世紀初頭に大内氏が発見したとされる石見銀山で、その銀の生産拡大を可能にしたのは、16世紀に博多の商人神屋寿禎(かみやじゅてい)が朝鮮から呼び寄せた二人の技術者によって伝えられた新しい精錬技術です。それは「灰吹き法」という、銀鉱石をいったん鉛に溶け込ませてから銀を抽出する効率的な生産方法でした。
石見銀山ではこの技術を取り入れて開発が進みましたが、健康被害は深刻だったようで、作業員は鉛中毒や水銀中毒を発症し、30歳まで生きられた鉱夫は、尾頭付きの鯛と赤飯で「長寿」の祝いをしたと言われています。
しかし、この石見銀山は、戦国時代の後期から江戸時代の前期にかけて最盛期を迎え、日本最大の銀山となり、17世紀初頭には推計で年間約40tの銀を産出していたと言われています。採掘していた坑道跡の遺跡と龍源寺間歩(まぶ)につながる「大森町の文化的景観」は世界遺産に登録されましたが、間歩とは銀山採掘のために掘られ坑道や水抜き坑のことで、主な坑道としては、大久保間歩、釜屋間歩、龍源寺間歩などがあります。
大久保長安が槍を持って馬に乗ったまま入れたと伝わる大久保間歩は、坑道周囲に住む住民の通路としても使用され、山を抜けて反対側の学校に通学する子供たちの通学路にもなっていました。
釜屋間歩は大久保間歩の上側に位置する坑道で、安原伝兵衛によって開発され、周囲には現場で精錬を行った遺跡も発掘されています。石見銀山資料館から徒歩圏内にある龍源寺間歩には約600mの坑道が残っており、入口寄りの273mは通年で一般公開され、内部を見学できますが、坑道壁面には当時のノミ跡が残っています。
石見銀山資料館は「いも代官ミュージアム」とも呼ばれ、石見銀山に関する歴史資料、鉱山資料・標本等を収集、収蔵、公開していますが、享保の大飢饉の際に石見銀山領を中心とする窮民救済のため数々の施策を講じた「いも代官」こと第19代石見代官の井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)に関する展示が充実しています。
彼は享保17(1732)年、石見国大森地区の栄泉寺で薩摩国の僧である泰永からサツマイモ(甘藷)が救荒食物として適しているという話を聞き、種芋を移入し、多くの領民を救いました。
この功績により井戸平左衛門正明は領民たちから「いも代官」あるいは「芋殿様」と称えられ、今日まで顕彰されるに至っているのです。
また、石見銀山では、銀の採掘→選鉱→製錬→精錬という、銀の生産から商品化までの行程がすべて銀山柵内(さくのうち)と呼ばれるこの地で行われ、工場と住宅が一体となり、生活の場にもなっていました。
そのため、石見銀山は銀の枯渇とともに閉山しましたが、その遺跡は坑道や鉱山、集落や役所などの銀生産に直接関わる「銀鉱山跡と鉱山町」、銀鉱石や物資を運搬する石見銀山街道などの「街道」、銀の積出港であった鞆ヶ浦や沖泊(おきどまり)、温泉津(ゆのつ)などの「港と港街」に分けられ、「歩く世界遺産」としても知られています。
特に全長約12kmの温泉津沖泊道や急傾斜地に形成された鞆ヶ浦には、当時の港湾集落の様相がよく保存されています。
また、鉱山町の大森は、江戸時代の武家屋敷や代官所跡、銀山で栄えた豪商の熊谷家住宅など、歴史的な建造物や文化財が並んでおり、のんびり散策すると懐かしい雰囲気に包まれます。
そして、銀山で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために羅漢寺も建てられており、向かい側に掘られた3つの石窟には、中央窟に三尊仏、左右両窟に250体ずつの石像羅漢座像が安置されています(五百羅漢)。
これら五百羅漢像には色鮮やかに塗りが施されており、笑ったり泣いたりしている姿、天空を仰いでいる姿など、様々な表情が見て取れます。
この五百羅漢は、18世紀に石見銀山代官所の役人が発創し、亡き人の冥福を祈って石仏を寄進したことが発端ですが、その完成によって、鉱山の衰退で不安を抱いていた人々の心に安らぎを与えただけでなく、鉱石の産出量も増加したと言われています。その後、拝観すると亡くなった父母や近親者に会えるとされ、各村々からの寄進が相次ぎました。
また、銀の精錬には多くの木材(薪炭材)を必要としますが、石見銀山では、採掘当時から無秩序に山を切り崩すような森林伐採をせず、銀鉱脈に沿って狭い坑道を掘り進める採掘方法や、伐採した数と同じだけの植林を行うなど、適切な森林管理に加えて、採掘から搬出までの銀山運営がしっかりとなされており、銀鉱山が豊かな自然と共存していた文化的景観である点が特筆されます。
銀の搬出と言えば、「銀の出ること土砂の如し」と言われた生野銀山から姫路・飾磨港へ銀を運んだ「銀の馬車道」は、画期的な馬車専用道として日本遺産に認定されています。
銀の馬車道(正式名称:生野鉱山寮馬車道)は、明治政府の官営事業として建設され、ヨーロッパの最新技術が導入された重い鉱石に耐え得る画期的な構造を持つ馬車専用道で、最短・平坦で安全な所を通る日本初の高速道路でもありました。
石見銀山世界遺産センターでは石見銀山の歴史が紹介されていますが、この世界遺産は日本遺産の「銀の馬車道」とともに、世界の銀の流通に大きな影響を与えた資源大国日本の記憶を残しています。
そして、この石見銀山は自然に対する配慮の歴史(自然と人間の共生)でもあり、私は「21世紀が必要としている環境への配慮」がすでに行われていたことに感銘を受けました。
祝!日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産登録
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されたことを記念して、私はみちのくを旅した芭蕉の研究本『松尾芭蕉の旅に学ぶ』と共に『縄文人からのメッセージ』というタイトルで縄文文化を語り、平成芭蕉の『令和の旅指南』シリーズ(Kindle電子本)として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。
また、日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』、感情の老化を防ぐ私の旅日記である『生まれ変わりの一人旅』とともにご一読下さい。
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②『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
③『松尾芭蕉の旅に学ぶ 令和の旅指南Ⅲ』:芭蕉に学ぶテーマ旅 「奥の深い細道」の旅
④『生まれ変わりの一人旅 令和の旅指南Ⅳ』: 感動を味わう一人旅のススメ
⑤『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って世界遺産を旅しています
「平成芭蕉の世界遺産」はその世界遺産についての単なる解説ではなく、私が実際に現地に赴いてその土地に生きる人たちと交流した際に感じた感動の記録です。