日本が誇る縄文時代の遺跡が世界文化遺産登録
日本の縄文文化は約16000年前に始まり、本格的な農耕や牧畜を選択することなく、鹿やイノシシを狩り(狩猟)、クリやドングリなどの木の実を集め(採集)、川や海で魚を取りながら(漁労)、四季折々に採取できるものを知り、定住を達成して協調的な社会を作り上げた世界史上きわめて稀有な先史文化です。
縄文人は自然との共生のもと、調理方法を工夫して食べられるものの種類を増やしつつ、冬に備えた保存食もつくり、長い年月をかけて自然を最大限に活用する術(すべ)を身につけていました。四季がはっきりしており、食料となる動植物が豊かで、石器など道具の材料になる資源にも恵まれたおかげで、自然と共存できる独自の文化を築いたわけですが、同じ文化が1万年以上も長い間、続いた時代は世界にも例がありません。
北海道や北東北に点在する縄文遺跡は、美しく豊かな自然の恵みを受けながら、狩猟・採集・漁労により定住した縄文人の生活と精神文化を今に伝える貴重な文化遺産であり、その価値は2021(令和3)年7月27日にユネスコに認められ、北海道・青森県・秋田県・岩手県に点在する17ヶ所の遺跡で構成される「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、世界文化遺産に登録されました。この”JOMON JAPAN”のロゴは北海道と北東北の交流を示し、中央の渦巻は津軽海峡を表しています。
長期間継続した採集・漁労・狩猟による定住の開始,発展,成熟の過程及び精神文化の発達を示し,農耕以前における人類の生活の在り方と精緻で複雑な精神文化を顕著に示すものとして評価されました。
北海道から北東北にかけての地域は、全国に約9万3千か所ある縄文遺跡のうち、約5分の1が分布する「縄文遺跡の宝庫」ですが、その中で今回、世界遺産登録される17ヶ所の遺跡とその集落の変遷について所見を述べてみます。
まず、「大平山元遺跡」の調査から、紀元前1万3000年頃に日本で居住地の形成と土器の使用が開始されたことがわかりました。そして続く紀元前7000年から紀元前5000年になると、「垣ノ島遺跡」のように集落が形成されるも居住域と墓域が分離されていきます。
「北黄金貝塚」、「田小屋野貝塚」においては、紀元前5000年から紀元前3000年にかけて、集落内に貯蔵施設や「捨て場」が設けられるようになりました。
そして紀元前3000年から紀元前2000年になると、拠点集落が生まれ、祭祀場が発達したことを「大船遺跡」、「御所野遺跡」、「三内丸山遺跡」が示しています。
その後、紀元前2000年から紀元前1500年には、集落は分散するも、集落間の結びつきを強化するために共同の祭祀場や墓地が形成されるようになりますが、その代表は「大湯環状列石」や「伊勢堂岱(どうたい)遺跡」、そして「小牧野遺跡」です。
紀元前1500年から紀元前400年では、祭祀場と墓地が分離されていますが、この種の遺跡としては、「キウス周堤墓群」、「高砂貝塚」、「是川石器時代遺跡」、遮光器土偶(しゃこうきどぐう)で有名な「亀ヶ岡石器時代遺跡」があります。
1.北海道の縄文遺跡
北海道唯一の国宝「中空土偶の茅空(カックウ)」
北海道と言えば、唯一の国宝である中空土偶(ちゅうくうどぐう)が有名ですが、これは北海道旧南茅部町(現・函館市)の著保内野(ちょぼないの)遺跡で出土した土偶です。
写実的で精巧に作られており、耳やアゴの部分に黒色の漆で着色されているなど、装飾性も高く、文様構成にも優れています。縄文時代の信仰や祭祀の実態および精神文化を明らかにし、土偶造形の到達点を示すきわめて重要な優品で、出土した南茅部(みなみかやべ)の地名と中空土偶であることにちなんで茅空(カックウ)の愛称で親しまれています。
著保内野遺跡は私有地にあり、掘り出された遺物は、近くに建てられた「函館市縄文文化交流センター」に展示されています。函館市縄文文化交流センターは北海道で唯一の国宝「中空土偶」を常設展示し、道の駅機能を併せもつ博物館で、大船遺跡や垣ノ島遺跡などの南茅部縄文遺跡群を中心に、函館市の縄文遺跡から出土した土器や石器などの遺物を数多く展示しています。
しかし、中空土偶「カックウ」は国宝ですが、動産なので世界遺産にはならず、世界遺産の対象は、北海道各地に散在する①キウス周堤墓群、②北黄金貝塚、③入江貝塚、④高砂貝塚、⑤垣ノ島貝塚、⑥大船貝塚の6箇所の縄文遺跡と関連遺跡の「鷲ノ木遺跡」です。
北海道の世界遺産認定された縄文遺跡
①墓地としては日本最大規模の「キウス周堤墓群」(千歳市):縄文時代の晩期の祭祀場と墓地の文化が伺える集団墓地遺跡で、緩やかな丘陵につくられています。9基の周堤墓が発見されており、周堤の直径は18~75m、底面から周堤上までの高さは最大5.4mと日本最大規模の大きな墓です。
②水場遺構もあった「北黄金貝塚」(伊達市):縄文時代前期の拠点集落と貝塚の遺跡で、内浦湾に面する丘陵上に位置しています。シカの頭骨を配置した動物儀礼の痕跡や石器の廃棄に伴う祭祀が行われた水場遺構が残っています。
③「黒い貝塚」と呼ばれる「入江貝塚」(洞爺湖町):縄文時代後期の貝塚と集落の遺跡で、内浦湾を望む高台にあります。竪穴建物による居住域と土坑墓による墓域から構成され、貝塚からは貝類の他に海獣や魚の骨も出土し、また人骨が15人分発見されています。
④抜歯人骨も見つかった「高砂貝塚」(洞爺湖町):縄文時代晩期の祭祀場と墓地の文化を示す貝塚と集落の遺跡で、入江貝塚に隣接する内浦湾を見下ろす台地にあります。晩期の土坑墓が28基発見されており、また伊豆諸島や沖縄以南でしか取れないオオツタノハガイの腕輪も出土しており、他地域との交流が伺えます。
⑤国内最大級の盛り土遺構「垣ノ島遺跡」(函館市):縄文時代の早期から後期の約6000年間にわたる定住集落の変遷を示す遺跡で、幼子の足形・手形を焼いた足形付土版、赤漆塗りの注口土器、香炉型土器、盛り土などの遺物や遺構が豊富な遺跡です。
⑥「三内丸山遺跡」と共通する「大船遺跡」(函館市):縄文時代中期の大規模な集落遺跡で、太平洋を望む丘に位置しています。100棟以上の深い竪穴建物跡をはじめ、盛り土遺構、土坑群などが確認され、建物からはクジラ、オットセイの骨、クリの種が見つかっています。
*関連遺産の環状列石「鷲ノ木遺跡」(森町):いか飯で有名な北海道南西部の森町に所在し、内浦湾(噴火湾)沿岸から約1km内陸の標高70mの河岸段丘上にある北海道内最大規模である環状列石です。
北海道の縄文遺跡の多くは、祭祀・儀礼などの高い精神文化を示す遺跡で、これらの遺跡や出土品からは、縄文人が自然に敬意を払いつつも、「神」は自分の中に存在すると考えていたことがわかります。また、北海道と青森の間には津軽海峡があいますが、北の縄文人はおたがいに海を越えて文化や世界観を共有し、円筒土器文化などの地域文化を育みました。すなわち、この地には縄文時代を通じて文化が共通する「津軽海峡文化圏」があったと考えられます。
津軽海峡は海流が速いので、北海道と北東北の縄文人は、舟をあやつり、海峡をわたる知識と技術があり、海峡をこえて交流を深め、文化を共有していたのです。
北海道独自の縄文文化
北海道では、本州の住民が水稲栽培を取り入れて弥生時代に移行しても、気候的条件から水田を作らずに縄文時代の生活様式を継承し、紀元前3世紀頃から紀元後7世紀にかけて、擦文文化が現れるまで弥生・古墳文化に並行する続縄文時代がありました。
続縄文時代には、北海道北部が大陸・樺太方面から、北海道南西部が本州からの文化と産物の流入の窓口になり、北方産とみられる琥珀製の玉類は北海道から東北地方北部にまで分布し、佐渡島産とみられる碧玉製の管玉は石狩川河口付近までみられます。
この時代の後期にあたる5世紀(古墳時代中期)になると、樺太から北海道のオホーツク海沿岸にかけてオホーツク文化が定着しますが、これは続縄文文化とは異質のもので、北海道は「擦文時代」そして「アイヌ時代」へと移っていきます。
*関連記事 平成芭蕉の世界遺産~北の縄文世界「北海道の縄文遺跡群」
2.青森県の縄文遺跡
青森県は縄文遺跡の宝庫であり、縄文時代の各時期にわたる重要な縄文遺跡が数多くあります。世界遺産の対象は、青森県各地に散在する①三内丸山遺跡、②大平山元遺跡、③田小屋野遺跡、④亀ヶ岡石器時代遺跡、⑤大森勝山遺跡、⑥二ツ森貝塚、⑦小牧野遺跡、⑧是川遺跡の7箇所の縄文遺跡と関連遺跡の「長七谷地貝塚」です。
中でも三内丸山遺跡は我が国を代表する縄文遺跡であり、縄文時代における集落の全体像や変遷、社会構造、自然環境や精神性などの縄文文化を知る上で極めて重要な遺跡です。
縄文時代は平等社会と言われていますが、私は三内丸山遺跡を訪ねた際、長期間の定住生活を物語る数多くの土坑墓と約20基の環状配石墓を見て、縄文人にも階級があったのではないかと思いました。なぜなら、環状配石墓は土坑墓に比べて石を配置するなどの手間もかかるため、環状配石墓にはそれなりの人が埋葬されたと考えられるからです。
しかし、縄文時代の階級の差は、弥生時代以降のそれとは異なります。縄文時代には組織的な戦争は起こっておらず、また強い権力者を求めていた様子もないからです。私が考える縄文社会の階層化の根拠は、出土している祭祀に使われたであろう土偶の存在にあります。
これらの非実用的工芸の発達は、環状配石墓に埋葬されるような祭祀主宰者がいたことを示唆します。すなわち、縄文社会には自然界との儀礼的関係を司る神職のような階層が存在したと推察されますが、それは単純な権力社会ではなかったはずです。
① 大型掘建柱で知られる「三内丸山遺跡」〔青森市山内丸山〕
「三内丸山遺跡」は青森県青森市に所在し、沖館川沿岸の標高約20メートルの海岸段丘上に立地しています。縄文時代前期から中期にかけて、長期間にわたり定住生活が営まれた、東京ドーム9個分にあたる大規模な集落跡です。集落には、竪穴建物、掘立柱建物、列状に並んだ土坑墓、貯蔵穴、道路、大型建物などが計画的に配置されています。
遺跡からはヒョウタンやゴボウなど栽培植物の種子が見つかっていますが、出土したクリをDNA鑑定した結果、クリも栽培・管理されていた可能性が高いことが分かっています。さらに、糸魚川産のヒスイや岩手産のコハク、北海道、佐渡、信州産の黒曜石、秋田産のアスファルトなど、広範囲の交流や交易を示す遺物も出土しています。また、体が板のように扁平に造られた大型の板状土偶も出土しましたが、頭部と胴体が離れて見つかっていることから呪術的な目的でわざと壊されたと考えられています。
中でも、クリの巨木を使った大型掘立柱建物跡や東西に420m以上も延びる大規模な墓地は他に例を見ないものです。大型掘立柱建物跡は、柱穴が4.2m間隔で3ヶ所、これが2列ありましたが、この建物には35cmを基準とする「縄文尺」が用いられています。
② 日本最古の土器が出土「大平山元(おおだいやまもと)遺跡」〔外ヶ浜町〕
「大平山元遺跡」は、石器の材料となる珪質頁岩(けいしつけつがん)が採取できる蟹田川近くにある縄文時代草創期の遺跡で、旧石器時代の石器や日本最古の土器が出土しました。
1971(昭和46)年、外ヶ浜町内の中学生が拾った石斧(せきふ)を契機に学術調査が実施され、拾われた石器が神子柴(みこしば)形石斧だったこともあって、担当者の三宅徹也氏の想定どおりに無文土器片が見つかりました。
*神子柴形石斧(みこしばがたせきふ):長野県の神子柴遺跡から見つかった石斧に由来し、縄文時代はじめの頃の、全体の型は打製、刃の部分だけを研磨するなどの特徴的な石斧。
土器は縄文時代草創期(紀元前1万3000年頃)に出現したとされますが、大平山元遺跡(大平山元I遺跡)から出土した無文土器片(縄の文様がない土器のかけら)は、1万6500年前のものと推測され(土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法による算定)、日本最古の土器(北東アジア最古の土器)ともいわれています。
旧石器時代のものと推測できる石器とともに土器のかけらが出土したことから、土器誕生のプロセスを探る上で極めて重要な遺跡となっており、出土した石鏃(せきぞく)も、世界でもっとも古い矢尻です。
大平山元遺跡から発掘された無文土器片(むもんどきへん)は、ガイダンス史跡である「外ヶ浜町大山ふるさと資料館」に実物が展示されています。
③ ベンケイガイの貝輪が出土「田小屋野貝塚」〔つがる外市木造館岡田小屋野〕
「田小屋野(たごやの)貝塚」は縄文時代前期中葉の貝塚を伴う集落遺跡で、津軽平野に向かって傾斜する屏風山砂丘の比高差10m前後の平坦な台地上にあります。
南に亀ヶ岡遺跡があり、岩木川左岸に立地していますが、縄文海進のピークである約6000年前は、北方にある十三湖は津軽平野全域に広がる内湾になっており、この貝塚はその西岸に位置していました。
当時の湾岸を見下ろす丘の東端が「居住域」で、その一角に「捨て場」と「墓域」があり、「墓域」の土坑墓からは妊娠・出産経験のある成人女性の遺骨が発見されています。
「捨て場」からは十三湖の名産であるヤマトシジミを中心に多くの貝殻や円筒式土器、イルカやクジラの海獣骨や骨角器などが見つかっています。また、大型の二枚貝であるベンケイガイで作られた貝輪が多く出土していることから、この地が腕輪の供給地であったと考えられます。
④ 遮光器土偶が出土「亀ヶ岡石器時代遺跡」〔つがる外市木造亀ヶ岡〕
「亀ヶ岡石器時代遺跡」は、縄文時代晩期の竪穴住居や土坑墓群からなる集落遺跡です。遺跡が位置する津軽半島の屏風山砂丘の東縁の「縦走砂丘」と呼ばれる砂丘の窪地には、多くの沼地や湿地があり、魚介類が豊富に取れた地域です。
遺跡発見は津軽藩が築城工事を行った江戸時代の元和8(1622)年とかなり古く、そこから発掘された土偶や壺、甕は縄文後期から晩期の終末期にわたるもので、出土品は当時の江戸で優れた芸術品として扱われ、亀ヶ岡物として珍重されたと言われています。そのため、「亀ヶ岡」は「甕の丘」に由来する説もあります。
この遺跡は縄文海進期に形成された内湾である古十三湖に面し、後背地は落葉広葉樹の森で、台地上には土坑墓が多数群集する墓域が広がり、土器や玉などの副葬品から祖先崇拝が継続して行われたことを示しています。
台地周囲の低湿地には祭祀場としての「捨て場」が形成され、完形品を含む多数の造形的に優れた漆塗りの土器や漆器、土偶、植物製品、ヒスイ製の玉類などが出土していますが、中でも、1887(明治20)年に沢根地区で出土した左脚を欠いた「しゃこちゃん」の愛称で親しまれる遮光器土偶は有名です。
「雷電宮」の鎮座する丘から北側への傾斜地は近江野沢地区と呼ばれていますが、この地からも同様の遮光器土偶が出土しています。
なお、1991(平成3)年に誕生したJR五能線木造(きづくり)駅の遮光器土偶をモデルとした巨大シャコちゃんは、誕生から約30年が経った2021年4月、老朽化した駅舎の補修工事とともに、目がLEDライトに取り替えられ、赤1色だった従来よりパワーアップし、何と7色に次々と変化するシステムになりました。
⑤ 岩木山を仰ぎ見る「大森勝山遺跡」〔弘前市大森勝山〕
「大森勝山遺跡」は、縄文晩期前半の数少ない定住成熟期における環状列石(ストーンサークル)を主体とする祭祀遺跡であり、山岳地帯における生業と高い精神性を示す重要な遺跡です。
岩木山北東麓の標高143~145メートルの丘陵地にあり、遺跡の南西側では岩木山の全景を眺望できます。大森川と大石川が刻んで形成された舌状台地を整地した後、低く円形に盛土を行い、その縁辺部に77基の組石を楕円形に配置した環状列石は、主に輝石安山岩(きせきあんざんがん)が約1200個使われており、長径48.5m、短径39.1mの大きさです。
環状列石周辺には捨て場や屋外炉などが確認されていますが、列石内には土坑墓もなく、明確な墓域が確認されないことから、墓域は別の場所に形成されたものと考えられます。
遺跡からは、土器や石器のほか、祭祀用の岩版・石剣などが出土していますが、中でも環状列石及びその周辺から約250点出土した円盤状石製品は、組石と同じ輝石安山岩を加工して作られており、環状列石と関連する何らかの祭祀・儀礼用と考えられます。
遺跡は冬至に太陽が岩木山山頂へと沈む地点に立地しており、環状列石と岩木山を結ぶ直線上に直径13mの大型竪穴建物跡が1棟あり、4本の柱と直径1.5mの円形石組の炉の跡が残っています。また、床面には円盤状石製品が6個重ねて置かれていました。
⑥ 埋葬された犬が発見された「二ッ森貝塚」〔七戸町〕
「二ツ森貝塚」は、青森県東部の七戸町にある縄文時代前期から中期の約1500年間に渡って継続的に営まれた拠点集落で、太平洋岸の小川原(おがわら)湖西岸(高瀬川下流域)の標高30メートルの段丘上に立地します。
氷河期末期の縄文海進期に形成された湖沼地帯の最奥部にあり、貝塚は台地の北斜面と南斜面の2か所に形成され、下層から海水性のハマグリ、上層からは汽水性のヤマトシジミが発見され、海進・海退による環境の変化を明確に示しています。
すなわち、定住発展期前半を中心とした大規模な貝塚を伴う集落として、湖沼地帯における生業や、海進・海退など環境変化への適応を示す貴重な遺跡です。
この東北最大級の貝塚からはホタテやマガキ等の貝類に加えて、スズキ、マダイ、フグなどの魚骨、ハクチョウ、カモなどの鳥骨、シカ、イノシシなどの獣骨も出土し、釣り針や銛などの骨角器も見つかっており、中でも精巧に加工された鹿角製櫛は当時の高い精神性と加工技術を示しています。
遺跡からは竪穴建物跡や貯蔵穴が多数見つかっていますが、台地の中央には東西に道路遺構が確認されることから、縄文時代にも計画的土地利用が行われていたことがわかりました。
また、約4000年前に埋葬された犬も発見されており、縄文人が犬をパートナーとして大切にしていたことも分かります。
⑦ 縄文時代後期の環状列石「小牧野遺跡」〔青森市小牧野〕
「小牧野遺跡」は三内丸山遺跡の南方、八甲田山西麓に広がる荒川と入内川に挟まれた、青森平野を一望できる標高80〜160mの舌状台地上にあり、縄文時代後期の環状列石(ストーンサークル)を中心とした遺跡です。
環状列石は、遺構の中で最も高いところに斜面を平らに造成して約2400個の川原石で作られており、中央帯が直径2.5m、内帯が直径29m、外帯が直径35mの三重の環を描くように配置されています。
また、その周りを囲むように直径約4mの環状配石や一部四重となる列石などが配置されており、全体直径は55mになります。内帯と外帯は楕円形の石を縦に置き、両側に平らな石を数段積み重ねる石垣にも似たはしごのような石の並べ方で、「小牧野式配列」と呼ばれています。
環状列石のほか、捨て場や湧水遺構、「縄文の墓場」には土坑墓群や土器棺墓なども発見されており、共同墓地であるとともに祭祀や儀式の空間として、周辺の複数の集落により環状列石が構築され活用されていたと考えられます。
また、環状列石に隣接する墓域や捨て場を中心に、土器や石器のほか、土偶や動物形土製品、鐸形土製品、三角形岩版、円形岩版など、祭祀的要素の強い遺物が出土しており、中でも三角形岩版は400点以上も出土していることから、祭祀・儀礼に使われたものと推察できます。
⑧ 多数の漆製品が出土した「是川石器時代遺跡」〔青森市小牧野〕
「是川石器時代遺跡」は、八戸市中心部の南、新井田川沿いの2つの沢に囲まれた台地に広がる遺跡で、湿地の捨て場とともに竪穴建物や墓域、祭祀場に加えて沢辺に木組みの作業場や「水さらし場」が見つかっています。
この是川遺跡は堀田遺跡(縄文中期)、一王寺遺跡(縄文前期~中期)、中居遺跡(縄文晩期)の異なる時代に営まれた3つの集落遺跡の総称で、一王寺遺跡に生まれた集落が、掘田から川向うの風張遺跡(縄文後期)、そして最後に中居へ移動していったと考えられています。
国宝の「合掌土偶」は是川遺跡対岸の縄文後期集落のあった風張(かざはり)遺跡で発見され、両足、腕が割れていましたが、アスファルトで修復されており、顔料が残り、往時は全身が赤く着色されていたとみられ、大切に扱われていたものと考えられています。
縄文前期から晩期までの期間の長さ、総面積376000㎡という広さ、そして数万点に及ぶ出土品の多さから縄文一万年を体現する巨大遺跡です。中でも世界遺産に登録された中居遺跡は、縄文晩期の集落の全体像を示す貴重な遺跡で、貴重な木製品、繊維製品に加えて漆塗り製品が多く出土しています。
漆は重ね塗りが施され、中にはベンガラの顔料を混ぜた漆の上に朱漆を重ねて見栄えをよくする工夫がされたものもあり、縄文人の美意識や技術の高さも伺えます。
これらの漆製品や土器、石器そして一王寺遺跡から出土した「日本最古の土面」などの出土品と国宝の「合掌土偶」は、是川遺跡に隣接する「是川縄文館」に展示されており、縄文の世界をイメージさせるマルチ画面の映像シアター施設も備えています。
私は風張1遺跡の「頬杖(ほおづえ)土偶」が好きで、この土偶の前に立つと合掌土偶と同じような国宝級の風格を感じ、脚が揃っていれば国宝扱いを受けたと思います。
⑧ 関連遺跡の「長七谷地(ちょうしちやち)貝塚」〔八戸市〕
「長七谷地貝塚」は、五戸(ごのへ)川下流域の右岸、桔梗野(ききょうの)工業団地内に位置する縄文後期の貝塚を伴う集落遺跡です。主に海水産のハマグリや汽水産のヤマトシジミなどの貝類の堆積がみられる貝塚で、魚骨や鳥獣骨のほかに、結合式釣り針(軸と針を別々に作って結ぶ大型釣り針)や銛、縫い針、ヘアピンなどに加工した骨角製品も出土しており、漁労文化が発達していた集落です。
3.岩手県の縄文遺跡
岩手県内の世界遺産に指定される縄文遺跡は、一戸町の①「御所野遺跡」だけですが、この遺跡では焼けた建物跡の調査が行われました。これまで縄文時代の竪穴住居建物は、茅葺き屋根で復元されていましたが、御所野遺跡においては、茅が確認できず、焼けた木材の上に焼けた土が載っている状態で見つかったため、屋根に土が載っていたことがわかったのです。
そこで、平成11年10月、復元した土屋根の建物を実際に燃やすという焼失実験を行い、実験後の燃えた竪穴建物跡は、その後の風化状況を確認するため、そのまま現地に保存されています。この実験からは、竪穴住居の出入り口は天窓にあったのではないかと推察されています。
①縄文時代を体感できる「御所野遺跡」〔一戸町〕
「御所野遺跡」は、縄文時代中期後半の定住発展期における配石遺構を伴う墓域と祭祀場を伴う拠点集落であり、内陸の河川地域における生業と精神生活の在り方を示す重要な遺跡で、岩手県北部の一戸町にあります。
馬淵(まべち)川沿岸の標高190~210メートルの河岸段丘に立地し、集落の中央には配石遺構や墓などの墓域が造られ、その周囲に竪穴建物、掘立柱建物、祭祀に伴う盛土などが分布し、さらにその外側の東、西にも竪穴建物が密集しています。秋田県産の珪質頁岩(けいしつけつがん)や日本海側のアスファルトが見つかっており、他地域との交流があったこともわかっています。
現在では調査をふまえて復元された建物が公開されていますが、その竪穴住居は、それぞれの建物が発掘された場所に盛り土をし、竪穴の大きさや柱の位置、太さも発掘された建物跡にもとづいて建てられています。
また、復元した後も屋根の土をたたいて締めたり、炉に火を入れたりするメンテナンス作業が行われており、世界遺産登録を契機にさらなる調査が実施され、ますます本来の縄文時代の姿に近づいていくと思われます。
縄文人が生活の糧を得るために、手を加えた環境を「縄文里山」とすれば、この御所野遺跡では、調査で明らかになった縄文人の活動を体験しながら、縄文人の生活と当時の環境を復元するという、現代人による「縄文里山づくり」が行われています。
盛土からは、大量の土器や石器とともに、焼かれたシカ、イノシシなどの動物骨、同様のクリ、クルミなどの堅果類、さらに祭祀遺物と考えられる土偶、土製品、石製品などが出土しており、これらは「御所野縄文博物館」に展示されています。
この展示館には一戸町の蒔前遺跡(まくまえいせき)から出土した重要文化財『鼻曲り土面』も展示されていますが、プロジェクションマッピングなどを使って縄文時代の暮らしが分かりやすく紹介されています。
4.秋田県の遺跡
ストーンサークルと言えば、イギリスの世界遺産「ストーンヘンジ」が有名ですが、日本にも立派なストーンサークルが存在していたのです。それは、秋田県内で世界遺産認定された①大湯環状列石と②伊勢堂岱(どうたい)遺跡の環状列石です。
① 日本のストーンヘンジ「大湯環状列石」〔鹿角市〕
「大湯環状列石」は、鹿角(かずの)市十和田大湯にあり、縄文時代後期(約4000~3500年前)に作られた日本最大級のストーンサークルで、野中堂環状列石(最大径44m)と万座環状列石(最大径52m)を主体とする配石遺構です。
環状列石には遺跡から東に約7キロメートル離れた安久谷(あくや)川から運ばれた石や3km離れた大湯川からの石英閃緑ヒン岩が約8500個使われており、完成までには多くの人力と約200年の歳月がかかったと思われます。
しかし、人が暮らした集落遺跡ではなく、周辺に暮らす人々が、寄り集まって造ったもので、万座・野中堂とも同時並行で構築されました。個々の配石は墓であり、環状列石自体が墓地と考えられ、外帯、内帯の間、北西の位置に立石のある日時計状組石があります。そしてそれぞれの環状列石の中心と日時計状組石は一直線に並び、その方向は夏至の日没、冬至の日の出を指しています。
列石の周囲には掘立柱建物が巡らされており、また、一部の組石の下には墓穴が確認されているほか、装飾性の高い土器や石剣、キノコ型土製品、鐸型土製品などの祭祀関係の遺物が見つかっています。これは周辺に離れて暮らす人々が、共同の墓地で定期的に死者を弔う祭祀を行っていたことを示しています。
これらの遺物は大湯環状列石に併設された「大湯ストーンサークル館」に展示されていますが、大湯環状列石を知る貴重な資料も揃っています。
大湯環状列石は近年パワースポットとして人気を集めていますが、この近くには標高280mの黒又山(クロマンタ)という古くから信仰を集める三角形の山があり、環状列石と黒又山を結んだラインは、大地のエネルギーが流れる場所だとも言われています。
なお、この黒又山は人工的に作られたピラミッドという噂もあり、実際、石で造られた階段状の遺構や頂上付近に空洞なども発見されており、山に人の手で装飾を加えていた形跡があるのです。また、黒又山山頂にある本宮神社では、大湯環状列石と同じ石が使われており、この山と環状列石の関係が強く示唆されています。興味深いことに、大湯環状列石から見ると確かにピラミッドのようなシルエットが確認できるのです。
② 小牧野式配列が見られる「伊勢堂岱(どうたい)遺跡」〔北秋田市〕
「伊勢堂岱(どうたい)遺跡」は、縄文時代後期の環状列石で、北秋田市を流れる米代川沿岸の2つの河川に囲まれた標高42~45メートルの白神山地を望める河岸段丘上に立地しており、食料となるサケ・マスが遡上し、捕獲できる河川近くで後背地には落葉広葉樹の森が広がっていました。
直径30m以上の環状列石が4基あり、これだけの数の環状列石が隣接して集中しているのは珍しく、4つの環状列石を主体に配石遺構、掘立柱建物跡、土坑墓、貯蔵穴、溝状遺構などが見つかっています。環状列石の石の並べ方には「小牧野式配列」が見られ、他地域とのつながりが伺えます。
環状列石の下には死者を埋葬した土坑墓があり、共同墓地であるとともに、祭祀・儀礼の空間でもあったと考えられ、周辺からは、土偶、動物形土製品、鐸形土製品、岩版類、三脚石器、石剣類など祭祀・儀礼の道具も多数出土していますが、特に板状土偶は有名で「伊勢堂岱縄文館」に展示されています。
祝!日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産登録
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されたことを記念して、私はみちのくを旅した芭蕉の研究本『松尾芭蕉の旅に学ぶ』と共に『縄文人からのメッセージ』というタイトルで縄文文化を語り、平成芭蕉の『令和の旅指南』シリーズ(Kindle電子本)として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。
また、日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』、感情の老化を防ぐ私の旅日記である『生まれ変わりの一人旅』とともにご一読下さい。
★平成芭蕉ブックス
①『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
②『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
③『松尾芭蕉の旅に学ぶ 令和の旅指南Ⅲ』:芭蕉に学ぶテーマ旅 「奥の深い細道」の旅
④『生まれ変わりの一人旅 令和の旅指南Ⅳ』: 感動を味わう一人旅のススメ
⑤『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って世界遺産を旅しています
「平成芭蕉の世界遺産」はその世界遺産についての単なる解説ではなく、私が実際に現地に赴いてその土地に生きる人たちと交流した際に感じた感動の記録です。