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平成芭蕉の日本遺産 石川県小松市「時の流れの中で磨き上げた石の文化」

西山石切り場

日本遺産の地を旅する~『珠玉と歩む物語』小松に生きる豊かな石の文化

石川県小松市と言えば、建設機械メーカーのコマツ(株式会社小松製作所)の企業城下町で、歌舞伎の「勧進帳」の舞台となった安宅の関などを思い浮かべますが、碧玉九谷焼などの石の資源を活用した豊かな石の文化も息づいており、平成28年、「『珠玉と歩む物語』小松~時の流れの中で磨き上げた石の文化~」というストーリーが日本遺産に認定されました。

安宅の関

有名な1300年の歴史を持つ白山信仰の古刹「那谷寺(なたでら)」は、碧玉の地層が見られる岩山に開かれ、屋根には地元凝灰岩、庫裏庭園には碧玉(ジャスパー)瑪瑙(メノウ)石の飛び石が配されており、まさに時の流れで磨き上げられた石の文化を感じさせてくれます。

那谷寺の庫裏庭園

私は今、縄文時代について研究していますが、石と人との交わりは、広く深いものがあります。その代表的な石としては黒曜石サヌカイトを連想しますが、今から2300年前の弥生時代には、自然や生命、権力への象徴として「緑」への憧れが強く、朝鮮半島から伝わった「碧玉(緑の玉)」が求められました。当時の権力者は碧玉の国産化を目指し、碧玉のとれる場所を探しましたが、良質で豊富な碧玉がとれた場所は全国で4か所しかありませんでした。

中でも小松の碧玉は量が見込め、きめ細やかさに優れていたため、小松の弥生人は那谷・菩提・滝ヶ原で産出される碧玉を原料に、首飾りや頭飾り用の「玉つくり」を開始しました。八日市地方(じかた)遺跡出土品に見られる、軟質の緑色凝灰岩による管玉製作から、硬質の碧玉から管玉製作を可能にした技術は、やがて国内最先端の石室構築技術にも繋がります。

八日市地方(じかた)遺跡出土の碧玉

古墳時代に装身具としての石製腕輪の需要が増えると、小松の緑色凝灰岩に精巧な彫刻加工を施した腕輪は、当時のヤマト王権の豪族がステータスシンボルとしてこぞって求め、各地へと広まっていきました。

また、小松の石材加工技術は大型古墳の石室構築にも活用され、河田山(こうだやま)古墳群に残るアーチ式天井を持つ飛鳥時代の切石積み横穴式石室では、石積みのズレを防止する最先端の石室構築技術が確認できます。

河田山(こうだやま)古墳の石室

この天井部がアーチ構造の横穴式石室は国内唯一であり、朝鮮半島の百済王墓と類似しており、大陸から直接、小松に伝わったものと考えられています。

王の墳墓などの特別な建造物に活かされた切石技術は、中世に入ると石工道具の進化と普及により、囲炉裏や火鉢等の生活道具のほか、石灯篭や石仏等の信仰具など、生活・信仰に密着した石の文化が浸透しました。

滝ヶ原八幡神社大鳥居

そして十九(じゅく)堂山遺跡石塔群、滝ヶ原八幡神社石造大鳥居多層塔などに見られるように小松に凝灰岩文化が花開き、小松市原町にある仏御前の屋敷跡地内に建つ石造物も『平家物語』に登場する白拍子「仏御前」の墓とされ、中世のものと言われています。

仏御前の墓

そして本格的な小松のまちづくりは、江戸時代に入って加賀前田家の三代前田利常公が隠居し、小松に居を構えたことに始まりました。前田利家の四男、利常公は加賀一向一揆の拠点となった小松城を大規模に改修し、その結果、小松城は巨大な湖沼に浮かぶ、全国でも珍しい「浮き城」となり、難攻不落の要塞であったといわれています。

芦城(ろじょう)公園に立つ利常公像

現在、その遺構はほとんど残っていませんが、三の丸跡の芦城(ろじょう)公園には前田利常像が建てられ、小松高校のグランド端には本丸櫓台(天守台)が残っています。その石垣は当時の最新工法「切り込み接ぎ(はぎ)」で積み上げた精緻なもので、地元の凝灰岩「鵜川石」と金沢の安山岩「戸室石」などがモザイク状に組み合わされており、デザイン性も豊かで、見ているだけでも楽しめます。

小松城本丸櫓台(天守台)の石垣

「鵜川石」に関しては『前田家文書』にも記載があり、小松城の石垣に使われた石は、鵜川地区に設けられた石切り場から、河川で城や町中へと運び込まれていたようです。

鵜川石切り場

その「鵜川石切り場」は古代から長い期間、角礫凝灰岩石材の産地として知られ、大規模な洞窟丁場の1ヶ所は、仁王像の立つ入口からおびただしい数の彫塑による地獄風景が展開する「ハニベ岩窟院」として観光名所になっています。

ハニベ巌窟院

しかし、利常公のこだわりは石垣構築だけでなく、城内や町家を区画する堀や河川の護岸、橋台にも及びました。そして利常公以降、近世のまちづくりが本格化すると、本格的な石切り場の開発が始まり、「遊泉寺石切り場」「滝ヶ原石切り場」など、現在、確認される石切り場の多くは江戸期に開かれていますが、随所に溜まった地下水が例えようもなく美しい光景を作り出しています。

滝ヶ原石切り場

また、遊泉寺では金・銅の採掘も始まり、特に明治期以降は「北陸の鉱山王」と呼ばれた横山家が経営する尾小屋鉱山、のちの遊泉寺銅山が銅の産出量を拡大させました。

遊泉寺銅山

「石の里」の風景を今に残す滝ヶ原町には、5橋のアーチ型石橋が残っていますが、これは水に強く青白い色調が美しい滝ケ原石を使用した石橋です。

滝ヶ原のアーチ石橋

国会議事堂に使われている黄色を呈した浮石質凝灰岩の「観音下(かながそ)石」の切り場は、大正初期から始まった丁場ですが、現在も掘削されています。湿気に強くカビが生えにくい上、耐火性もある「観音下(かながそ)石」は、私の地元にある甲子園ホテルなど、広く近代建築に利用されました。

観音下(かながそ)石切り場

実際、小松市内中心部を歩くと「東酒造」の石蔵など、町並みに多くの「観音下(かながそ)石」でできた石蔵が残っていますが、昭和初期の二度にわたる大火で多くの家屋が焼失する中、耐火性に優れた凝灰岩を壁に使った蔵の大半は焼け残りました。

「東酒造」の石蔵

一方、石川県を代表する焼き物といえば、明治期に欧米で「ジャパンクタニ」と称賛された九谷焼ですが、小松は全国有数の陶石産出地でもあり、九谷焼は江戸後期に花坂地区で発見された花坂陶石山の石が用いられています。

「ジャパンクタニ」九谷焼

九谷焼と聞くと赤、黄、緑、紫、紺青による色鮮やかで華やかな上絵付けや釉薬といった加飾に目を奪われますが、陶土(粘土)があってこそ器が形作られ、そこに絵付けを施すことができます。

九谷セラミック・ラボラトリー

そこで私は「九谷セラミック・ラボラトリー(セラボ九谷)」を訪ねましたが、この施設には谷口製土所が管理している製土工場があり、機械は現役で稼働し、ここで作られた粘土が、実際に窯元や作家の手に渡っています。

セラボ九谷では九谷焼の展示販売や、ロクロ、手びねり、絵付けなどの体験もできますが、製土工場が丸ごと展示されているような施設で、九谷焼にとっていかに粘土が重要かを認識することができます。

九谷セラミック・ラボラトリーの展示

また、明治から大正時代にかけて、外国へ輸出された「ジャパンクタニ 」のふるさとは、松本佐平が営んだ九谷窯元「松雲堂」ですが、松雲堂が破産したため、その建物を三代徳田八十吉が購入して小松市に寄付し、現在は町屋型文化施設となっています。

九谷窯元「松雲堂」

その「松雲堂」施設内には、観音下石と滝ヶ原石を組み合わせた石蔵と九谷焼の上絵付け窯(錦窯)が保存されており、昭和初期の小松町家の雰囲気を体感できるのでお勧めです。

弥生時代に国内を席巻した菩提・那谷の碧玉、そして遊泉寺の紫水晶は「加賀紫」として珍重されるなど、小松の石資源の豊かさは鉱石、宝石へと広がりを見せ、市民生活の中に深く溶け込んでいます。

遊泉寺銅山の紫水晶クラスター

滝ヶ原の「石の里」を散策し、日本遺産構成文化財であるアーチ型の石橋などの建造物に触れると、旅心が促されると同時に旅の想い出も提供してくれます。そして『珠玉と歩む物語』は、私たちに「石」を見つめ直し、「人と石との出会い」について再考する機会を与えてくれます。

滝ヶ原の「石の里」

『珠玉と歩む物語』小松~時の流れの中で磨き上げた石の文化~

所在自治体〔石川県:小松市〕

小松の人々は、弥生時代の碧玉の玉つくりを始まりとして2300年にわたり、金や銅の鉱石、メノウ、オパール、水晶、碧玉の宝石群、良質の凝灰岩石材、九谷焼原石の陶石などの、石の資源を見出してきた。

ヤマト王権の諸王たちが権威の象徴として、挙って求めるなど、時代のニーズに応じて、現代の技術をもってしても、再現が困難な高度な加工技術を磨き上げ、人・モノ・技術が交流する、豊かな石の文化を築き上げている。

〔主な構成文化財〕

八日市地方(じかた)遺跡出土品(製玉資料)、那谷寺鵜川石切り場滝ヶ原石切り場小松城本丸櫓台石垣九谷焼製土場、東酒造など

一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定

私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会

平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える

「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。

そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。

私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。

平成芭蕉の日本遺産

この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。

「令和の旅」へ挑む平成芭蕉

*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照

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