西洋の技術を取り入れた官営模範器械製糸場「富岡製糸場」
絹(シルク)は紀元前の中国で発明され、19世紀のヨーロッパで大量に生産された繊維ですが、私は30代から40代前半にかけて、父の経営する繊維会社を手伝っていた際、人の皮膚に優しいいこの絹について研究していました。
絹は植物であるクワ(桑)の葉を食べるカイコ(蚕)の繭から作られたタンパク質の繊維であるため、植物繊維の吸放湿性と動物繊維の保温性を備えた他の繊維の追随を許さない最高の天然衣料素材です。よって、絹はは古代より、ドレスや着物などフォーマルウェアの分野を中心に、最高の衣料素材として世界中の人々を魅了し、愛用されてきたのです。
カイコの繭を製糸し、引き出した繭糸を数本揃えて繰糸の状態にした絹糸を生糸と呼びますが、この生糸は開国直後の日本において主要な輸出品となりました。この生糸の輸出が拡大した理由は、当時、ヨーロッパにおける生糸の主要生産地であったフランスで、蚕の病気が大流行し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたからです。
そして「殖産興業」「富国強兵」を掲げた明治政府による生糸の品質改善・生産向上の政策から、フランス人技師ポール・ブリュナが招聘され、彼の指導のもとに西洋の技術を取り入れた官営模範器械製糸場が富岡製糸場です。富岡の地が選ばれのは、養蚕が盛んであり、工場建設用地としての「広い土地」、生糸の原料となる「繭」、製糸に必要な「水」に加えて、燃料となる「石炭」が近隣にあり、外国人の指導による工場建設に対し、地元の人たちの同意が得られたことが理由です。
工場建設には日本の伝統技術も取り入れられ、日本古来の木造の柱に西欧由来のレンガを組み合わせる木骨レンガ造りなど、和洋折衷様式になっており、またトラス構造と呼ばれる三角形の屋根組みから、多くの繰糸器を置ける中央に柱のない空間も特徴です。
模範工場の考え方としては、1つ目は洋式の製糸技術を導入すること、2つ目は外国人を指導者とすること、3つ目は全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻り、器械製糸の指導者とすることでした。
「かかあ天下」と永井流養蚕法伝習所
そして明治5年に富岡製糸場が創業すると、全国から少女たちが製糸工女として、また大量の繭も原料として富岡に集められましたが、この頃、片品村の養蚕農家に嫁いだ永井いとは、夫とともに繭増産のための養蚕技術の改良に挑み、ついには永井流養蚕法の伝習所を設立しました。
古くから養蚕業の盛んであった上州(群馬県)では、女性が養蚕・製糸で家計を支えていたので、永井いとは自ら教壇に立ち、講義の中で「農家の財布の紐はかかあが握るべし」と説いたと言われています。現在でも上州の夫(男)たちは、おれの「かかあは天下一」と呼び、これが「かかあ天下」として上州名物になっています。
一方、富岡製糸場は、長さが約140mある繰糸所に300釜の繰糸器が並ぶ、製糸工場としては世界最大規模でしたが、当時の人々は、外国人が飲む赤ワインを「生き血」と恐れたことから、外国人が指導する富岡製糸場の工女募集は難航したと言われています。
日本の製糸技術を支えた隠れた主役「富岡乙女」と富岡製糸場
しかし、最終的には明治6年から明治17年の間に32道府県から延べ3,509名が富岡製糸場に入場し、彼女たちは「富岡乙女」と呼ばれ、全国へと巣立って器械製糸の技術を伝えました。この製糸場は彼女たちにとって、単なる工場ではなく、診療所設備も付随する環境の中で、読み書き、算術、裁縫なども習得できる生活や学びの場でもあったのです。
そしてこの富岡製糸場の生糸は、かつて一部の特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化を豊かなものに変えただけでなく、ヨーロッパ市場の安定にも貢献しました。海外の進んだ技術を取り入れ、そこに日本独自の工夫を加えて高品質の製品を作り上げるといった「ものづくりニッポン」の原点は、ここ富岡製糸場にあったのです。
富岡製糸場と絹産業遺産群の「田島弥平旧宅」「高山社跡」「荒船風穴」
世界遺産の「富岡製糸場と絹産業遺産群」は明治期の日本における技術革新と近代化を示す産業遺産群ですが、「富岡製糸場」の他に「田島弥平旧宅」、「高山社跡」、「荒船風穴」の4資産からなります。養蚕農家の田島弥平は自然の通風を活用した養蚕法の「清涼育」を確立した人で、彼の旧宅は越屋根(こしやね)を持っており、近代養蚕農家建築の原点です。
また、高山長五郎は、温度と湿度を管理する養蚕法である「清温育」を確立し、「高山社跡」で研究と指導を行いました。このように富岡周辺地域で養蚕技術革新が進み、製糸業が発展すると繭の増産と安定供給が求められるようになりました。そのため、天然の風穴の冷風を利用して作られた蚕種貯蔵施設が「荒船風穴」で、富岡製糸場とこれらの施設が20世紀初頭に日本を世界一の生糸輸出国に導いたのです。
1987(昭和62)年、富岡製糸場は操業停止しましたが、「売らない」「貸さない」「壊さない」という理念で、施設を保存維持した「片倉工業」のお蔭で、広さ53,738㎡の敷地内には、明治5年の操業当初の貴重な建築物がほぼ完全な形で残りました。
そしてこの世界遺産「富岡製糸場」には、泣いて笑って技術習得に励み、その技術を全国に伝えた富岡伝習工女達の不屈の魂が込められており、生糸の大量生産を実現した「技術革新」と世界と日本との間の「技術交流」の象徴でもあるのです。
祝!日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産登録
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されたことを記念して、私はみちのくを旅した芭蕉の研究本『松尾芭蕉の旅に学ぶ』と共に『縄文人からのメッセージ』というタイトルで縄文文化を語り、平成芭蕉の『令和の旅指南』シリーズ(Kindle電子本)として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。
また、日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』、感情の老化を防ぐ私の旅日記である『生まれ変わりの一人旅』とともにご一読下さい。
★平成芭蕉ブックス
①『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
②『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
③『松尾芭蕉の旅に学ぶ 令和の旅指南Ⅲ』:芭蕉に学ぶテーマ旅 「奥の深い細道」の旅
④『生まれ変わりの一人旅 令和の旅指南Ⅳ』: 感動を味わう一人旅のススメ
⑤『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って世界遺産を旅しています
「平成芭蕉の世界遺産」はその世界遺産についての単なる解説ではなく、私が実際に現地に赴いてその土地に生きる人たちと交流した際に感じた感動の記録です。