『万葉集』に多くの秀歌を遺した歌聖柿本人麻呂
平成芭蕉にとって詩人と言えば、俳聖松尾芭蕉と歌聖と呼ばれる柿本人麻呂が代表です。松尾芭蕉については、『おくの細道』をはじめとする紀行文や俳句などでその生き様を知ることができます。しかし、柿本人麻呂は『万葉集』に数多くの秀歌が残されており、多くの人々の心を捉えていますが、その生涯は数多くの謎に包まれています。
そこで、私は島根県に残る柿本人麻呂ゆかりの地を訪ねてみました。柿本人麻呂の出自、生没年には諸説ありますが、天武、持統、文武の三天皇に仕え、生没年は660年~720年頃、姓は朝臣、人麻呂以降、子孫は石見国美乃郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を称して石見国人となったと言われていますが、確かなことは分かっていません。
しかし、石見の国の国司として赴任してきた宮廷歌人の人麻呂は、江津の地で依羅娘子(よさみのおとめ)と出会い、『万葉集』に数多くの抒情的な長歌、短歌を遺し、中でも「妻と別れて京に上り来る歌」と「臨死らんとする時自ら傷み作る歌」は、石見の国と人麻呂との深い由緒を物語っています。
とりわけ「石見の海 打歌の山の 木の際(ま)より 我が振る袖を 妹見つらむか」の「打歌の山」が古くから益田市中垣内町の大道山(おおどうやま)とされ、その北西にある戸田町が人麻呂の生誕地、北東の高津町が死没地と伝えられています。大道山は打歌山(うつうたやま)とも呼ばれ、山頂付近には歌碑も建てられており、三里ヶ浜海岸や益田市も一望出来ます。
そしてこの伝承から現在、島根県益田市内に柿本人麻呂を祀る神社が2社あり、一つは人麻呂生誕伝承の里にある戸田柿本神社で、今一つは人麻呂終焉の伝承が残る高津柿本神社です。
このように1人物について出生と死没に当たってそれぞれ神社が建立されているのは大変珍しく、語り継がれた人麻呂伝承が明らかに益田の地に生きている証であり、住民の間で人麻呂に対する尊敬の念が高いことを示しています。
柿本人麻呂生誕伝承の里にある戸田柿本神社
戸田柿本神社は山陰本線の戸田小浜駅の近くに鎮座していますが、駅には「柿本人麿生誕の地」と書かれた説明板と柿本神社の鳥居まであります。
この柿本人麻呂生誕に関する説明板には「大和に住んでいた綾部家は柿本氏に仕えたいたが、柿本氏の支族が石見に下った時、これに従って美濃郡小野に代々語家(かたらや)として住みついた。のち柿本某は語家の女を寵愛して柿本人麻呂が生まれた」と書かれています。
また、戸田柿本神社旧記には「人麻呂おひおひ成人なし給ふに従ひ学芸の道おろかなく、御名中国に高く聞えおはしましぬ。その頃嘉多良比(かたらい)のもとへ七十ばかりの老翁日毎に来り、人麻呂に書を授け、また互いに歌をよみ、詩を作り或いは弓馬の術を教へ、日傾けば何処ともなく帰り去りける」と人麻呂が少年時代に嘉多良比の下で文武に励んだことも記されています。この嘉多良比とは語家(かたらや)綾部氏を指すと言われています。
そしてこの柿本人麻呂の生誕地とされる戸田柿本神社の宮司綾部家は、50代続いている語家で、その庭前の柿木のもとに祭神は七歳の童児となって孝徳天皇即位九年に天降ったと古記にあります。
拝殿前の梁にはすばらしい龍の浮き彫りや組物がありますが、これらはご神体の人麿七体像と同様、津和野藩御用彫刻師 大島松渓の作で一見の価値があります。
大島松渓は、津和野藩藩主の亀井慈尚(これひさ)から、戸田柿本神社社殿、神像を造るよう命じられ、「人麿像」及び「人麿御童子象と付帯像(七体像9」を完成させるとともに、高津柿本神社の1100年祭に神馬も奉納しています。
また、綾部家には人麻呂の遺髪を埋葬したという言い伝えがあり、人丸塚と呼ばれる戸田柿本神社の近くには、遺髪が埋葬された「人麿遺髪塚」もあります。
柿本人麻呂終焉の伝承が残る高津柿本神社
一方、益田の人が「人丸さん」と呼んでいるのは高津町に鎮座する高津柿本神社(たかつかきのもとじんじゃ)で、「人丸さんに行こう」と言えば、柿本神社に参詣することを意味します。
鎮座地は丸山の東に張り出した鴨山(高角山)山頂に位置し、境内を含めた一帯は祭神にちなんで、島根県立万葉公園として整備されており、「石見の海 打歌の山の 木の際より 我が振る袖を 妹見つらむか」と「石見のや 高角山の 木の際より 我が振る袖を 妹みつらむか」の2首も紹介されています。
地元では歌道を始めとする学業成就や商売繁盛の神、また石見産紙の祖神とされたことから殖産の神として崇敬されるほか、「人麿(ひとまる)」を「火止まる」や「人産まる」と解して、開運、火難除けや安産の神としても崇敬されています。
晩年に国司として石見国に赴任した柿本人麿が、和銅年間に「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん」の辞世の歌を詠んで益田川河口の鴨島に没したので、神亀年間(724〜729)にその霊を祀るために石見国司が聖武天皇の勅命を受けて鴨島に人丸社を創祀したのに創まると言われています。
しかし約300年後の万寿3年(1026)の大地震で島は海底に沈み、人麿のご神体も津波で流されて現在の高津松崎に漂着したため、地元の人によって高津松崎に人丸社が建てられ、 長い間人々の信仰を集めました。
そして、1681年には津和野藩主亀井茲親(これちか)によって、現在の高角山(高津城跡)に移築され、拝殿は津和野城からも参拝できるように津和野方向に向いています。毎年9月1日には八朔祭が行われ、古式豊かな流鏑馬神事がそばの高津川河川敷で催されます。
私は益田川河口近くの高台に柿本人麿終焉の地といわれる「鴨島跡」を望む展望地も訪ねましたが、西の方向には、美しい弓形の海岸線のむこうに山陰の青い海と大道山系の山々が映えて、夕方は入日で赤く染まり感動的でした。
日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されたことを記念して、私はみちのくを旅した芭蕉の研究本『松尾芭蕉の旅に学ぶ』と共に『縄文人からのメッセージ』というタイトルで縄文文化を語り、平成芭蕉の『令和の旅指南』シリーズ(Kindle電子本)として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。
また、日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』、感情の老化を防ぐ私の旅日記である『生まれ変わりの一人旅』とともにご一読下さい。
★平成芭蕉ブックス
①『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
②『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
③『松尾芭蕉の旅に学ぶ 令和の旅指南Ⅲ』:芭蕉に学ぶテーマ旅 「奥の深い細道」の旅
④『生まれ変わりの一人旅 令和の旅指南Ⅳ』: 感動を味わう一人旅のススメ
⑤『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
私は平成芭蕉、自分の足と自分の五感を駆使して旅しています。
平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。
★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」