三重県明和町“祈りの都”を訪ねて
都より 遥かに遠き 伊勢の国 祈りを捧ぐ 斎王の跡
斎王または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の皇族女性で、伊勢神宮の斎王は特に斎宮(さいぐう)、賀茂神社の斎王は特に斎院(さいいん)とも呼ばれました。彼女たちは単なる神職ではなく、「国家の安寧を祈る存在」として、極めて高い精神性と象徴性を担っていました。
日本遺産「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」は、古代日本における“祈りの都”の姿を今に伝える、極めて象徴的な物語で、その舞台となるのは三重県明和町に広がる斎宮跡です。ここは、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた未婚の皇女「斎王」が暮らした特別な宮廷であり、政治と信仰が深く結びついた場所でした。
伝説の斎王「倭姫命」
斎王制度は、天武2(674)年、壬申の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まり、 以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在し、伝説上は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝えています。
倭姫命は、天照大神の鎮座地を求めて、笠縫邑を出発し、宇陀から近江・美濃を経て伊勢の地(現在の明和町大淀)に入り、佐々夫江行宮を造り、カケチカラ行事の発祥となる伝説をつくったと言われています。
佐々夫江行宮跡
斎宮とは何か ― 聖域を支えた「幻の都」
「斎宮」とは、飛鳥時代から南北朝時代までの約660年間にわたり、伊勢神宮に奉仕した「斎王」の宮殿であり、彼女たちが生活した役所(斎宮寮)の総称です。斎王に選ばれるのは、天皇の娘や孫娘といった高貴な身位にある未婚の皇女たちで、彼女たちは都を離れ、この伊勢の地で国家の安寧と繁栄を祈り続けました。
斎王制度が確立して以降の斎王は、卜定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王に任命されると宮中の初斎院と都の郊外にある野宮で精進潔斎したのち、3年目の秋、斎王群行と呼ばれる五泊六日の旅を経て伊勢の斎宮へと赴きました。その任が解かれるのは、原則的に天皇が代わったときのみで、斎王は年に三度、伊勢神宮に赴く以外は、一年のほとんどを斎宮で過ごし、神々を祀る日々を送っていました。
斎王群行「斎宮芝遺跡」
また、神に仕える身ゆえに恋をすることも許されず、伝説に語られる斎王の中には己の命を絶って身の潔白を証明した哀しい斎王や、恋ゆえに斎王を解任されたり、恋人と引き裂かれたりした斎王もいました。
別れの小櫛 ― 運命を受け入れる皇女たち
斎王の物語で最も胸を打つのは、都を出発する際の「別れの小櫛(わかれのおぐし)」の儀式です。この儀式は大極殿で行われ、斎王の伊勢出発前に行われますが、天皇は白の衣装を着用し、高御座(たかみくら)には座らず、床に座を設けて対面します。天皇は斎王の額の髪に黄楊(つげ)の小櫛を手ずから挿し、言葉をかけます。
「都の方に赴きたまふな(都へ戻ってこようと思ってはならない)」
「別れの小櫛」の儀式
天皇と斎王が直接会う機会は、この出発時の一度きりであるという、非常に厳しい別れを意味しており、この瞬間、彼女は一人の皇女から、神に仕える聖なる存在へと変わります。家族との別れ、恋との別れ、そして華やかな京の生活との別れの後、5泊6日の厳しい旅路「群行(ぐんこう)」に出発しました。
斎宮跡を歩く ― 日本遺産が映し出す平安の風
斎宮に住まいを移した斎王が伊勢神宮に赴くのは、9月の神嘗祭、6月、12月の月次祭の年3回のみで、9月の神嘗祭に奉仕するため、8月に身を清めたと言われている斎王尾野湊御禊場跡(おののみなとおんみそぎばあと)が大淀の海岸に残っています。
尾野湊御禊場跡
それ以外の日々は斎宮で厳重な慎みを保ち、祈りの日々を過ごしながら、神と人との架け橋となっていました。しかし、祈りを捧げる慎ましやかな生活の一方で、十二単を纏い、貝合わせや盤すごろくを楽しみ、歌を詠むといった都にいた時の雅やかな生活も送っており、斎王の身の回りの世話、庶務などを50人近くの女官が行っていたことは、斎王の地位の高さを示しています。
斎宮での雅な生活
また、斎宮寮と呼ばれる役所に勤める官人を中心に総勢500人以上の人々が斎宮で執務をしており、天皇の代理である斎王が暮らす斎宮は、都から訪れる人も多く、近隣の国からもさまざまな物資が集まるなど、この地方の文化の中心地の一つで、碁盤の目のように区画された広大な都市が形成されていました。しかし、斎王制度の廃止とともにその存在は歴史の表舞台から消え、長い間「幻の都」と呼ばれてきましたが、幻の宮になりながらも、斎宮に住む人々は、先祖代々語り継がれてきた斎王・斎宮の存在を信じていました。
斎王が身を清めた竹神社
斎王の御殿があったとされる場所を「斎王の森」、斎宮の人々に親しまれている竹神社を「野々宮」と呼び、神聖な土地として大切に護り後世に伝え残してきました。その結果、現在の斎宮跡は、広大な芝生が広がる国の史跡となっており、かつての建物の柱跡が保存され、一部の建物が当時の工法で復元されています。
斎宮跡
1. さいくう平安の杜
史跡斎宮跡に三棟の平安時代の建物「斎宮寮庁」が復元されました。斎宮の役所「斎宮寮(さいくうりょう)」の長官のもと、儀式や饗宴に使用されたと考えられる斎宮寮の正殿・西脇殿・東脇殿が復元されており、 空の青さと、建物の木肌の美しさが古代建築の魅力を伝え、いにしえの斎宮の姿を再現しています。
さいくう平安の杜
釘を一本も使わない伝統技法で建てられた白木(しらき)の建物は、凛とした空気感を放っていますが、ここで斎王は、遥か伊勢神宮の方角を向き、日々祈りを捧げていたのです。
2. いつきのみや歴史体験館
建物は、平安時代の貴族の住まいであった「寝殿造(しんでんづくり)」を模したガイダンス棟と、古代の役所の建物をモデルとした体験学習棟などから構成されています。体験館では、国史跡斎宮跡の案内(ガイダンス)機能を果たすために、斎宮のあらましや史跡内の見学ポイントなどをパネルで紹介しており、斎宮の歴史や史跡散策の情報を知ることできます。
いつきのみや歴史体験館
また、平安時代の貴族の衣装「十二単(じゅうにひとえ)」の着装体験や、当時の遊び(盤双六など)を体験できますが、 重厚な絹の層を身に纏うと、かつての斎王たちが感じた、高貴さゆえの不自由さと、背負った責任の重さが肌で感じられるようです。
斎王を支えた食と文化
日本遺産「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」の魅力は、建物だけではありません。 発掘調査によって都のような「方格地割」という碁盤の目状の区画道路を備え、伊勢神宮の社殿にも類する100棟もの建物が整然と並んでいたことが明らかになり、他にも都から運ばれた最高級の陶磁器(緑釉陶器)や蹄脚硯、墨書土器、祭祀用具の出土により、斎宮では都のような雅やかな生活が営まれていたことや、常に清浄を求め、禊を行っていたことが裏付けられました。
斎宮の方格地割
また、この地で育まれた食文化が明らかになっており、斎王の食事は、伊勢湾の豊かな海の幸、そして地元で採れる旬の食材が使われていました。現代でも、明和町では「斎王の食事」をイメージした御膳を楽しむことができますが、「祈り」という精神性の高い営みを支えたのは、この豊かな土地の恵みだったと考えられます。
古代米を使った「斎王の宝箱」
文学に見る斎王 ― 禁じられた恋と悲劇
斎宮は、多くの文学作品の舞台にもなりました。 『伊勢物語』では、在原業平と思われる男が斎王と密かに通じるエピソードが描かれ、『源氏物語』では、六条御息所の娘が斎王として下向する切ない場面が登場します。
『伊勢物語』69段「狩の使」には、在原業平と斎王の一夜の出会いが描かれており、斎王が在原業平との別れを惜しみ、歌を詠み交わしたという故事にあやかって、大淀にある松を「業平松」と呼んでおり、今の松は3代目ですが、斎王のはかなき恋物語の世界が舞い降りる美しい風景を今に伝えています。
業平松
また、『源氏物語』では、光源氏をめぐる葵の上と六条御息所の攻防は『源氏物語』の中でも有名なシーンです。この六条御息所は最終的に斎王に選ばれた娘と一緒に伊勢に向かい、斎宮で暮らすことになりますが、これは、実際に娘に付き添って斎宮に赴いた徽子(きし)女王、規子内親王親子がモデルとなっています。他にも「竹河の段」には、今も残る斎宮の地名、「竹川」が登場しますが、「竹川の花園」には、四季の花が植えられ、斎王も楽しまれていたと伝わっています。
竹川の花園
清廉潔白を求められた斎王ですが、彼女たちもまた一人の人間でした。厳しい戒律の中で、誰かを想い、和歌を詠む。その人間味あふれる葛藤こそが、斎宮という場所に深い情緒を与えているように感じられます。
斎王制度の終焉と現代へのメッセージ
斎王制度は、天皇が国家の中心であり、祭祀と政治が一体であった時代にこそ意味を持つ制度でした。ところが、平安時代後期になると院政が始まり、さらに鎌倉時代には武家政権が成立します。そして鎌倉幕府の成立以降は、政治の実権は武士へと移り、天皇の役割は象徴的なものへと変化していきました。
その結果、「天皇に代わって祈る皇女」という制度の政治的・宗教的な意味が、次第に弱まっていきました。制度としての終焉を象徴するのは、南北朝時代に斎王の選定が行われなくなったことで、特に朝廷が南北に分裂した混乱の中では、斎王を選び、送り出すという国家的事業そのものが不可能となったのです。
斎王制度の廃止は、単なる「制度の終了」ではなく、政治の中心の変化、財政の衰退、社会の不安定化、信仰の多様化といった、日本社会そのものの大きな転換を背景にしています。それは、「どれほど崇高な制度であっても、時代とともに役割を終える」ということですが、斎王制度の精神までもが消えたわけではありません。
斎王たちが体現した「誰かのために祈る心」、「自らを律して役割を果たす姿」、「見えないものを大切にする感性」は、形を変えながら現代にも受け継がれています。制度は消えても、“祈りの本質”は残る――三重県明和町の斎宮跡には、今も変わらず美しい夕日と、悠久の時を超えて受け継がれる「祈りの心」があります。 斎王制度の終焉は、そのことを静かに語っているのではないでしょうか。
夕暮れ時の斎宮跡
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
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私は平成芭蕉、自分の足と自分の五感を駆使して旅しています。
平成芭蕉の旅語録
平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。
「令和の旅」へ挑む平成芭蕉
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