越中万葉歌人の大伴家持と「加賀前田家」の高岡
新型コロナウイルス感染拡大により、まだまだ海外旅行は先の話かもしれませんが、令和時代の今日、お金と時間にいとめをつけなければ、私たちは世界中のどんな辺鄙な場所にも旅することができます。そこで残された最後の秘境は「過去」であり、古典を通じて古代の人々と心を通じさせる旅が、今最もおすすめできる旅かと思います。
年号が「平成」から「令和」になった2019年、私は万葉故地である飛鳥や奈良、若狭そして高岡をしばしば訪ねました。かつて大伴家持が政務をとった越中国国庁跡近くにある「高岡市万葉歴史館」の敷地内には、『万葉集』ゆかりの花木を植栽した「四季の庭」もあり、万葉人と触れ合うことができたからです。
加賀前田家の町民文化が色濃く残る高岡ですが、街を歩いていると路面電車「万葉線」や日本料理「都万麻(つまま)」など万葉由来の名前も目にします。これらの言葉は、万葉集の編纂者とされる大伴家持が、越中国(現在の富山県と石川県能登地方)の国守(くにのかみ)として高岡の伏木に赴任していたことからきています。
現在、国庁跡とされる伏木には、藩政時代に加賀藩前田家と関係を深めた浄土真宗の古刹、雲龍山勝興寺が建っていますが、境内には大伴家持の歌碑があり、その横には、歌に詠まれたとされる古い井戸も残っています。
「もののふの 八十娘子(やそをとめ)らが 汲みまがふ
寺井の上の 堅香子(かたかご)の花」
『万葉集』巻19-4143 大伴家持(おおとものやかもち)
(たくさんの娘子たちが入り乱れて水を汲む、寺井のほとりのかたくりの花よ)
大伴家持は、高岡では多くの歌を詠んでいますが万葉集中「堅香子(かたくり)」が歌われたのはこの一首のみで、カタクリの花は高岡市の「市の花」となっています。
高岡の町民文化と松尾芭蕉の伊賀上野
古今東西、人は美味しいものや美しいものを求めて旅をし、歴史を重ねてきましたが、私の敬愛する松尾芭蕉も『おくのほそ道』で高岡を訪ねており、大伴家持の古歌にちなむ越中の歌枕「有磯(ありそ)海」を俳句に詠んでいます。
「わせの香や分入右は有磯海」 芭蕉
(かぐわしい早稲の香りの中を分け入って進むと、はるか右手に有磯海が見渡せる)
有磯海(富山の海岸で万葉歌枕の地)一帯は、「ありそ」の本来の意味である「荒磯」の景観をみせており、文化庁によって「おくのほそ道の風景地」として文化財に指定されています。しかし、加賀前田家ゆかりの高岡は「町民文化が花咲くまち高岡-人、技、心-」として同じ文化庁による日本遺産にも認定されているのです。
私と芭蕉さんの生まれ故郷である伊賀上野も高岡同様、城下町を中心に町民文化が栄え、今も神輿・鬼・「だんじり」の巡行で知られる伝統的な「天神祭」が継承されています。
高岡では毎年5月1日に行われる高岡関野神社の春季例祭「高岡御車山祭(たかおかみくるまやままつり)」が有名ですが、この祭りは富山県内で最も古く、御車山(みくるやま)と呼ばれる7基の山車が優雅な囃子とともに高岡の市街を巡行し、伊賀上野の天神祭りと同様にユネスコの無形文化遺産に登録されています。
高岡ではこの祭りを盛大に行うのは加賀藩の伝統的な政策であり、町民にとっては神様に感謝を込める行事であるとともに普段の倹約生活から解放される気分転換の機会でした。また、これは内需拡大の意味もあり、町民自身が楽しむために自らの富を自らの町の産業に投資し、地域経済を動かすという今でいう地方創成の行事とも言えます。
実際、国の重要有形民俗文化財にも指定されている御車山の装飾は、高岡市内の「金屋町」の鋳物師によるものが中心ですが、「金屋町」は前田利長が鋳物師を集めて、鋳物づくりを行わせた鋳物師の町です。人々の嗜好を研究しながら装飾品や美術工芸品としての銅鋳物が作られ、鋳物の一大生産地として発展し、今日では土蔵造りの伝統的建造物が立ち並ぶ「山町筋」と共に重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
また、藤堂高虎築城の伊賀上野城と同様に日本100名城に選ばれている高岡城は、残念ながら一国一城令によって完成後僅か6年で廃城となりましたが、歴代の藩主が城址を町奉行の管理下に置き、堀や土塀の保存に務めた結果、高山右近設計当時の縄張りを今に伝えています。
この貴重な遺構が残ったのは、築城主の前田利長の跡を継いだ前田利常が、高岡城の敷地内に平和的利用として米・塩の藩蔵を建て、軍事的に使うつもりがないことをアピールし、江戸幕府に干渉の口実を与えなかったからで、利常の優れた経営手腕が見て取れます。
しかし、高山と伊賀上野の大きな違いは伏木港(浦)という港の存在です。この港は北前船(バイ船)の中継地で、江戸幕府が置いた船政所の1つであったことから、近世・近代には、大阪に米や綿、肥料を出荷するなど、盛んに交易が行われていました。さらに、鋳物製造が盛んになると、鋳物製品も出荷され、港には食料をはじめ多くの商品が集まり、高岡は「加賀藩の台所」と呼ばれるほど栄えました。しかし、746年、大伴家持が越中国守として着任した万葉の時代には、すでに港として利用されていたと言われており、古代より日本海沿岸の重要な港として機能していました。
伏木港近くにある「伏木北前船資料館」の旧秋元家は、北前船の交易で繁盛した廻船問屋ですが、船の出入りを確かめる望楼など、明治期の建物の様子をよく留めており、高岡のまちが北前船の通商で栄えた歴史を知ることができます。
また、伊賀上野は天正伊賀の乱で織田信長によって壊滅状態に追い込まれましたが、この高岡も高岡城を築いて町の土台を築いた前田利長が、在城わずか5年で他界し、その城も廃城となるなど、同じ苦労を味わっています。
城がなくなれば、城下町は存在意義を失いますが、利長の跡を継いだ前田利常は、高岡町民の他所転出を禁じた上で、高岡を麻布の集散地としました。さらに、海が近く、荷物を運ぶための川もあることから、魚や塩の問屋をたくさん作らせ、城跡内には米蔵と塩蔵を設置するなど、城下町から町民がささえる商業都市への転換策を積極的に進めたのです。
また、異母弟である自分に家督を譲ってくれた利長への恩義も深く、菩提のために造営した壮大な伽藍建築を持つ「瑞龍寺」や異例の規模を誇る「前田利長墓所」は、町民に永く利長の遺徳をしのばせるだけでなく、併せて町の繁栄を願う気持ちも込めて建立されました。
「瑞龍寺」は利長の戒名に因んだ名前の曹洞宗寺院ですが、仏殿、法堂、山門が国宝に指定されている他、多くの堂宇が国指定重要文化財で、素晴らしい建造物です。
私は2018年の「高岡御車山祭(たかおかみくるまやままつり)」を見学した後、ライトアップされた瑞龍寺も訪れましたが、3Dプロジェクションマッピングが山門の左右に投影され、境内は幻想的な雰囲気に包まれていました。ただし、地元の人によると、夜の参拝では、本堂ではなく、トイレの神様と言われる烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)に無病息災、子孫繁栄などを祈るそうです。
そこで私は、高岡は今も固有の祭礼など、純然たる町民の町として発展し続けており、この瑞龍寺のライトアップ行事においても、高岡市民の魂が色濃く残されているように感じました。
加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡 -人、技、心-
所在自治体〔富山県:高岡市〕地域型
高岡は商工業で発展し、町民によって文化が興り受け継がれてきた都市である。
高岡城が廃城となり、繁栄が危ぶまれたところで加賀藩は商工本位の町への転換政策を実施し、浮足立つ町民に活を入れた。
鋳物や漆工などの独自生産力を高める一方、穀倉地帯を控え、米などの物資を運ぶ良港を持ち、米や綿、肥料などの取引拠点として高岡は「加賀藩の台所」と呼ばれる程の隆盛を極める。
町民は、固有の祭礼など、地域にその富を還元し、町民自身が担う文化を形成した。
純然たる町民の町として発展し続け現在でも町割り、街道筋、町並み、生業や伝統行事などに、高岡町民の歩みが色濃く残されている。
〔主な構成文化財〕
高岡城跡、高岡御車山、瑞龍寺、山町筋・金屋町(重要伝統的建造物群保存地区)、前田利長墓所、勝興寺、高岡鋳物の制作用具及び製品など
一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定
私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。