壱岐の万葉公園開園50周年記念イベントに想う
令和元年11月17日、長崎県壱岐市石田町の万葉公園で「開園50周年記念イベント」が開催され、新元号「令和」の典拠となった万葉集が注目される中、壱岐市の白川博一市長のご挨拶の後、犬養万葉記念館の岡本三千代館長による「万葉講話と万葉うたがたり」および大宰府万葉会による歌語りが披露されました。
さらに地元参加者による短歌創作コンテストも開催され、私はこのコンテストの審査員を務めさせていただきましたが、いずれも素晴らしい歌で、甲乙つけがたく難しい審査でした。
しかし私、「令和の旅人」平成芭蕉は、「万葉の旅人」岡本三千代館長と同様に犬養節で万葉集に親しんできましたので、今回のイベントにはとても感銘を受けて、東京と関西からツアーを組んで参加させていただきました。
私にとって旅の最大の楽しみは旅先で出会った人と絆を作り、良き「想い出」として残すことです。
ここで注意していただきたいことは「思い出」ではなく「想い出」として残すことです。
「思い」という字は、自分の「田」んぼ(フィールド)について「心」を砕くと書きますが、「想い」という字は、「相」手のことに「心」を砕くと書き、相手のことを考えるという行為を伴っているのです。
すなわち「思い出」は自分中心の記憶とすれば、「想い出」は旅先で出会った相手のことを意識した記憶で、今回は昨年の古事記講座でお世話になった壱岐観光連盟の方々や壱岐ゆかりの遣新羅使に想いを馳せました。
壱岐の万葉公園には、天平8(736)年の「遣新羅使」の一員で、新羅へ向かう途上、この壱岐市石田町の印通寺付近で病死した雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の死を偲んだ次の万葉歌碑が建てられているのです。
「石田(いわた)野に 宿りする君 家人のいづらと我を 問はばいかに言はむ」
(石田野に眠っている雪宅麻呂君よ、我々はこれから新羅に向かい、都に帰るが、その時、君の奥さんが、私の主人はどこにいるのかと私に尋ねたら、私はなんと答えようか)
万葉人は歌を詠むことによって、死者への鎮魂と悲しみを尽くそうとして挽歌を詠んだのです。石田(いわた)野は現在、石田(いしだ)町と呼び、そこに石田峯という丘に小さな墓がありますが、これが遣新羅使、雪連宅満の墓と考えられています。
雪連宅満が亡くなった時の挽歌はこの歌を含めて万葉集の中に9首残っていますが、その反歌としては六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が詠んだとされる
「新羅へか 家にか帰る 壱岐の島 行かむたどきも 思ひかねつも」
があり、この歌は雪連宅満が亡くなったことで、一行は不安を感じてこのあと新羅に行こうか、家に戻ろうかと思い悩んだ心情が歌われています。
壱岐出身の遣新羅使 雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)
雪連宅満の先祖は、壱岐出身の占い師であり、朝廷の信任の厚かった押見宿禰(おしみのすくね)で、壱岐にある「月読神社」を京都の松尾大社に分霊した人です。
その縁もあって、雪連宅満は松尾大社の宮主(みやじ)として月読命を祀り、壱岐の島司も兼ねて神祇官として出仕し、卜占(ぼくせん)を行っていたのです。
すなわち、彼は航海途上で亀ト(きぼく)という、亀の甲を焼いて吉凶を占う卜部(うらべ)として乗船していました。
当時、卜部は、安全な航海をする上で、欠くことのできない存在でしたので、彼の死は一行にとって本当にショックであり、その先不安を抱いたのも当然です。
日本からの遣新羅使は数回に及んでいますが、この雪連宅満が同行した天平8年の遣新羅使一行は、阿倍継麻呂を大使として大阪の難波津を出港した後、瀬戸内海で悪天候や潮の満ち干に恵まれず、「佐婆(さば)の海」と呼ばれた山口県の周防灘(すおうなだ)では遭難して豊前の中津に漂着しています。
それから博多に向かいましたが、博多に到着した時には七夕(新暦では8月17日)を迎えていました。
博多を出発した後も玄界灘が荒れて難航し、糸島半島の周囲をまわりこむように唐津湾まで避難して、苦労を重ねた末、壱岐島に着いたのは旧暦で8月中旬頃と言われています。
本来ならば秋には帰ってくる予定が、秋になってもまだ壱岐周辺をうろうろしていたことになります。
そして対馬に着いた時にはすでに紅葉が始まっており、ここでも天候に恵まれず南岸の浅茅浦、北側の竹敷浦で一週間以上、日和待ちをして苦労の末、新羅へ到着しました。
しかし、外交使節としての待遇は受けられず、何の役も果たせずに帰って来ました。そのため、往路では140首詠まれていますが、復路は5首しか詠まれていません。
新羅が予告なしに国名を王城国と変えたのを無礼と考えた日本が、前年に新羅から日本に来た使者を追い返した報復だったのでしょう。
まさしく苦難の旅で大使の阿部継麻呂も復路の対馬で疫病にかかって客死、副使の大伴三中も病気にかかり、帰国後には都に疫病がはやるという祟られた旅だったのです。
遣新羅使人と防人の万葉歌がたり
大宰府万葉会による「遣新羅使人」の悲別の歌語りで紹介された歌からは望郷の思いが伝わってきましたが、船は前へ前へですが、一行の心は後ろへ後ろへと引かれていた思いが感じられました。
今日、万葉公園の眼下には玄界灘や遣新羅使一行が入港した印通寺港、雪連宅満の墓地のある石田野の丘、弥生時代の環濠集落跡である原の辻遺跡などが展望できます。
しかし、この丘から玄界灘を眺めると、壱岐に着いた彼らは「新羅まで行きたくないが、苦労して渡ってきた玄界灘を戻るのも大変だ」と悩んだことでしょう。
犬養孝先生はその著書『万葉の人びと』の中で、「自分が歌人だという意識が全くない遣新羅使人の歌は、わが日本の歌の伝統として大切です」と記していらっしゃいましたが、私も今回のイベントでそのことがよく理解できました。
この万葉公園開園50周年記念イベントに参加した心境は、まさしく歌詠みコンテストで最優秀賞を受賞された郷ノ浦町の柳澤幸子さんの歌
「秋風の さやかな中に たたずみて 古しのぶ 万葉の丘」
そのものでした。
しかし、国境の島、壱峻島に来て心打たれる歌は、やはり外国の来襲に備え、九州沿岸で防備、農耕にあたった「防人」の妻子との別れ難い感情や家族を思いやる気持ちを詠んだ歌です。
「万葉の旅人」岡本三千代館長の歌がたり「筑紫に遣はさるる諸国の防人が歌 父母草」は、平成芭蕉にとって「時の流れの忘れ物」として記憶に残りました。
『父母草』
時々の 花は咲けども 何すれそ 母とふ花の 咲き出来ずけむ
橘の 美袁利の里に 父を置きて 道の長道は 行きかてぬかも
父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる
父母も 花にもがもや 草枕 旅は行くとも 捧ごて行かむ
父母が 殿の後の 百代草 百代いでませ 我が来るまで
(四季おりおりの花は咲くのに なんでまあ母という花は咲きださなかったのかなあ
橘の美袁利の里に父を残して長い旅路は行きにくいことよ
父母が頭を撫でで、達者でいろやと言った言葉が忘れられないよ
父母が花ででもあればよいのに。草枕の旅をしていても捧げ持っていこうに
父ちゃん母ちゃんの住いの「ももよ草」の名のように百代もお達者で、私が帰ってくるまで)
この実りの島壱岐での万葉イベントを通じて、『万葉集』の巻15の「遣新羅使人の歌」の理解と令和ゆかりの「国境の島」壱岐に対する関心が深まることを祈念します。
日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はこのたび『縄文人からのメッセージ』というタイトルで令和の旅を語り、Amazonの電子本として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。
★平成芭蕉ブックス
①『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
②『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
③『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。