サイトアイコン 【黒田尚嗣】平成芭蕉の旅物語

平成芭蕉の旅語録~中山道の追分と宿場町は日本人の心の故郷

旧街道を歩く旅で人気の中山道

街道講師と共に旧街道を歩く旅

私の今の主要な仕事の一つに旧街道を歩いて案内する街道講師の育成事業があります。

慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの後、天下を握った徳川家康が、まず手掛けた事業は街道の整備でした。

すなわち、翌年の慶長6(1601)年には、東海道53次を定め、同7年には中山道、引き続いて奥州道中、甲州道中、日光道中の5街道を幕府の直轄地としましたが、この5街道や脇街道を中心とした旧街道を道中案内しながら、忠実に先頭を歩くのが街道講師の役目です。

中山道贄川関所跡

よって、ツアー催行前に、案内していただく先生と共に、教育委員会が編纂した「歴史の道調査報告書」、江戸時代の「分間延絵図」と現代の「2万5千分の1地図」、さらには当時の宿場町のことを記した「宿村大概帳」などを参考にしながら、実際に旧街道を歩いて下見調査をするのが私の仕事です。

最近ではスマホで検索しながら、旧東海道を歩く人が増えていますが、中山道や脇街道ともなれば、スマホの情報だけでは不正確で、「歴史の道調査報告書」や「岐蘇路安見絵図」をもとに、山や川の位置から当時の街道を推測し、地元の人への聞き込み調査も必要となります。

中山道の追分と宿場町

中山道の追分

私は数ある街道の中でも中山道が大好きで、暑い日には陣中見舞いを兼ね、お客様を案内されている講師の先生を励ますという名目で、軽井沢の先にある追分宿や木曽路の贄川(にえかわ)宿等で待機し、お客様や先生に冷たい麦茶やスイカを提供していました。

追分とは宿場町の名前でもありますが、信越本線の信濃追分駅に近い「分去(わかさ)れ追分」は地名ではなく場所としての追分で、中山道と北國街道との分岐点です。

実は中山道は江戸時代に初めて制定された街道ではなく、その前身を「東山道」と呼ぶ古代から西国と東国を結ぶ重要な官道で、追分に立つ「道しるべ石」には「さらしなは右、みよしのは左にて、月と花とを追分の宿」と有名な歌が彫られています。

このような「道しるべ」がある追分では道を間違えることはありませんが、旧街道を歩いていると、追分以外に標識のない分岐点が現れ、下見をしていても迷うことが多々あります。

すなわち、人生の選択のような気分で先生には決断が求められるのです。

このときに大切なことは、過去の経験に基づく直感で「旧街道のにおい」を感じた方を選べるかどうかがポイントです。

旧街道には旅人の無事を祈った道祖神や一里塚古い宿駅の面影が残されており、道幅や微妙なカーブから「旧街道のにおい」があるのです。

講師同行の街道歩き旅で「旅行+知恵=人生のときめき」を体感

中山道を歩くツアーは、東京の日本橋から京都の三条大橋まで毎月約12㎞ずつ歩いて3年近くかかります。

その間、先生は先頭を歩きながら、分岐点では選択と決断を迫られるので、街道講師の仕事はまさしく人生そのものです。

しかし、この講師の解説があってこそ街道歩きもより楽しくなり、「旅行+知恵=人生のときめき」が体感できるのです。

日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!

「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はこのたび『縄文人からのメッセージ』というタイトルで令和の旅を語り、Amazonの電子本として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。

★平成芭蕉ブックス
 ①『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
 ②『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
 『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅 

平成芭蕉ブックス『令和の旅指南』

★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」

私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。

平成芭蕉の旅語録

平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。

「令和の旅」へ挑む平成芭蕉

*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照

モバイルバージョンを終了