日本遺産の地を旅する~美林連なる造林発祥の地“吉野”の桜と森の暮らし
吉野山の桜と蔵王権現を祀る金峯山寺
吉野と言えば日本屈指の桜の名所として知られていますが、吉野山には約200種3万本の桜が密集しており、「下千本、中千本、上千本、奥千本」とそれぞれ標高によって開花時期がずれて順に開花します。
その中の一番奥にある、「奥千本」には、桜をこよなく愛し、多くの歌を吉野の桜に捧げた西行法師の庵があり、西行はこの庵に2年余り住んで、その間に吉野の桜を題材にした歌をいくつも残し、「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠み、願い叶って西行は春にあたる2月16日に亡くなりました。
吉野に佇む西行法師の庵
この吉野山に咲く桜はシロヤマザクラが中心で、ソメイヨシノと異なり、接ぎ木ではなく実生から育ち、寿命が長く大木になり、赤茶色の若葉と白色の花が混ざり合い、遠目から見ると鮮やかなピンク色に見えます。
吉野山の桜
一般の物見遊山の旅であれば、西行の歌を鑑賞しながら吉野山の花見だけでも十分ですが、私がこだわる日本遺産の旅となれば、金峯山寺など、山に生きた人々の信仰と森の資源を活かした生活文化などのストーリーを知り、造林発祥の地である吉野地域で、天然の森から深緑の絨毯の如き日本一の人口の森となった経緯を探ります。
吉野山の観光案内図
そこで吉野の歴史を調べると、吉野山の桜は、約1300年前、修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が山桜の木に御本尊・蔵王権現を刻んだことから、桜の木が御神木として崇められ、祈りを込めて植えられてきたようです。
吉野山にある金峯山寺は、役小角(えんのおづぬ)が吉野・大峯山中で修行中、金剛蔵王権現を感得して開創した修験道の総本山で、桜の木はどれもその御本尊である蔵王権現のために植樹されたものです。すなわち桜は蔵王権現のご神木となり、平安中期以降、参詣者らによって寄進され続けてきたのです。
吉野山の金峯山寺
そして蔵王権現は、吉野の大自然から生まれてその色を身につけているとされ、体が青いのは、吉野山の自然をそのまま表現しているためです。この金峯山寺は幾度かの火災にみまわれましたが、吉野の材木が利用され、現在の建物は1592年に完成したもので、柱には梨・つつじの天然の名木が使われており、蔵王堂にまつられた三体の蔵王権現は、中央が「釈迦如来」 (過去)、右が「千手観音菩薩」 (現在)、左が「弥勒菩薩」 (未来)を現しており、「過去」「現在」「未来」の三世にわたって、衆生を救ってくれる仏様です。
金峯山寺の蔵王権現
天然の森から人工の森へ
しかし戦国期に至って、この吉野地域の森と暮らしに大きな変化が訪れます。近畿各地で城郭や寺社の建築が増え、その用材として吉野の森林資源が注目されるようになり、これらの森林資源を効率的に運び出すために、蛇行する河川の岸壁を開削することで河川の流路改修が進められました。
筏が組まれた吉野川
浄土真宗の蓮如上人は1476年、石山本願寺等の大寺院建立の建築材として吉野の材木を利用するため、搬出の拠点であった吉野山の麓に本善寺を建立、浄土真宗が開発したこの筏流しのルートは、江戸時代の吉野材搬出ルートの原型となりました。
蓮如上人が建立した本善寺
また、蓮如上人が吉野地方の布教の拠点として建立した「下市御坊」と呼ばれる願行寺は、吉野林業の担い手であった杣人(そまびと)たちの心の拠り所であり、同寺の周辺には木材加工技術を持った人々が数多く暮らしていました。
「下市御坊」願行寺
林業にとってもっとも重要な作業は、倒した大木を人里まで運ぶことですが、激しい蛇行を繰り返す吉野川上流域では、岩場を開削した跡が随所に残っており、先人はノミとゲンノウだけで岩を削って水路を開削、川幅を広げ、大きな筏を組んで大量に木材を流せるようにし、このことにより吉野の森林資源の開発が加速したのです。
その結果、吉野の天然林は次々と伐採され、筏に組まれて運び出され、伐採可能な天然林が徐々に減少しましたが、天然林が伐採されたあとには、建築材としてより価値の高い杉や桧が植えられるようになりました
吉野杉を運んだ吉野川
しかし、吉野の人々は古代より山々を神仏と仰ぎ、その頂は神仏の頭、稜線伝いの道は神仏を巡る修行の道として、その周辺には植林をせずに自然の森を守り続けてきました。そのため山地の各地には、古くからこの地で生育した見事な天然林と、吉野林業により生育した人工美林が発達し、紅葉の季節には山頂と峯だけが紅葉し、それ以外は深い緑という美しいコントラストを望み見ることができます。
日本最古の人工林と吉野林業
吉野は全国に知られる多雨地帯で、海抜300m~800mという位置にあり、1年の平均気温は14℃で風は弱く、強風にさらされず、森林の土壌は保水性と透水性が良く、杉や桧の生育に適したところでした。
そこで初めて植林が行われたのは、この豊かな天然林が広がる吉野川上流の川上村で、ここで伐採された吉野の木材は、主に畿内に運ばれ、大きな建造物の用材として活用されました。
吉野川の上流地域
日本最古の人工林の一つとされる川上村の「下多古村有林」は、樹齢約250〜400 年の杉・桧が育てられていますが、一方、全長136kmの吉野川・紀の川源流となる川上村三之公(さんのこう)地区には、500年以上も前から手つかずの森が残されています。川上村はこの遺された自然と先人の意思をしっかりと受け継ぎ、未来へと手渡すため、この森の約740haを買い取り、「吉野川源流‐水源地の森」として守っています。
吉野川源流‐水源地の森
土倉庄三郎と吉野特有の植林方法
江戸中期になると、江戸などの大都市で灘や伊丹の酒の需要が高まり、その輸送用の樽の材料として吉野地方の木材の需要が増え、海上輸送をはじめとする長期の輸送にも耐えうる品質を求め、植林、育林方法に工夫がなされるようになりました。
一般的な植林法は、1ha当たり3千本から4千本の植え付けが普通でしたが、吉野地域では1ha当たり1万本の苗を植え付ける「超密植(みっしょく)」と「多間伐(たかんばつ)」と呼ばれる、成長が悪い木を除伐しながら、木の生長に合わせて間伐を何度も繰り返す作業が行われました。
土倉庄三郎の顕彰碑(大滝の岸壁)
この木の高さと強さをあわせ持つ良質な杉材を作り出す造林法は、吉野林業の中心地である川上村出身の土倉庄三郎(1840年〜1917年)によって考案されました。
屋敷跡に建つ土倉庄三郎像
土倉庄三郎は、この土倉式造林法の開発や吉野川の改修・道路の整備など吉野造林の発展に大きく寄与しただけでなく、私財を投じて小学校を川上村に開校させ、同志社大や日本女子大の設立にあたって多額の寄付を行うなど、様々な方面で社会に貢献しています。川上村の屋敷跡には彼の銅像が建立されていますが、庄三郎没後の1921年には、林業博士・本多静六氏の呼びかけにより、生まれ育った大滝の岩壁に顕彰碑も彫られています。
造林発祥の地「川上村」
また、一般的には40年から50年とされている最終伐期を、吉野では80年から100年以上に引き延ばす「長伐期(ちょうばつき)」施業という独自の技術を創造し、その結果、木の外回りが真ん丸に近い真円で、まっすぐに育った木々は年輪幅がほぼ一定で密であるために強度が強く、色艶や香りの良い、どの地域の材よりも美しい杉桧の「吉野材」を生み出すこととなりました。この優れた林業技術によって、川上村地域の山々には、等間隔に、且つ真っ直ぐに立ち並ぶ見事な人工の美林が作りあげられることとなったのです。
森の資源を活かした生活文化
森に囲まれた吉野周辺の集落での生活に必要な道具は、自ずと森の木々を利用した物が多く、下市町の三宝(さんぼう)などに代表される曲物(まげもの)が室町中期から作られたほか、江戸中期からは全国に先駆けて、黒滝村などでは樽丸(たるまる)という樽の側板材が盛んに生産され、全国生産量の殆どを明治期に至るまで吉野地方が担っていました。
黒滝村
黒滝村の樽丸制作技術は吉野林業を発展させた伝統的な技術で、吉野杉から酒樽の側板であるクレを作り、それをマルワと呼ばれる竹の輪に一定量詰め込むまでの技術で、樽丸とはこの一定量のクレを詰め込んだものをいいます。灘や伊丹などにおける酒造りで使われる酒樽の側板を供給するため、江戸時代中期にはじまり、最盛期には、樽丸に最適な木材を生産する事が目標とされ、吉野林業は樽丸林業とも呼ばれました。明治初期からは、樽丸生産や製材の過程ででる端材を利用した割箸作りが下市町で考案され、吉野町や下市町などで割箸が盛んに生産されるようになり、これもまた全国生産量の殆どを担いました。
旧吉野材木黒滝郷同業組合事務所
また、傾斜地や谷間に暮らすこの地域の人々は、米作に適さない土地柄であるが故に、森の恵みに食材を求め、あるいは環境に合う作物や加工食品をつくり、食生活を充たしてきました。保存効果や殺菌効果が高いとされる柿や朴(ほう)の葉などを利用した寿司を作る文化が形成されて、吉野川に沿った地域では柿の葉寿司、黒滝村・天川村・下市町などでは朴の葉寿司が今に伝わっています。
中でも柿の葉寿司は吉野川流域を代表する寿司で、柿の葉でひとくち大の鯖寿司を包んで押した夏祭りのごちそうです。塩鯖を三枚におろし、薄くそいだ切り身を一口大に握った酢飯にのせて、柿の葉で包んで押しをかけた寿司ですが、柿の葉は、タンニンが多く緑色があざやかな渋柿の葉が使われています。
吉野の名物「柿の葉すし」
吉野の「柿の葉寿司」は熊野から運ばれた塩鯖を用いており、口に入れると柿の葉の爽やかな香りが広がりますが、森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとその心はこの「柿の葉寿司」に凝縮されているような気がします。
森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとこころ~美林連なる造林発祥の地“吉野”~
日本遺産のストーリー 所在自治体〔奈良県:吉野町、下市町、黒滝村、天川村、下北山村、上北山村、川上村、東吉野村〕
我が国造林発祥の地である奈良県吉野地域には、約500年にわたり培われた造林技術により育まれた重厚な深緑の絨毯の如き日本一の人工の森と、森に暮らす人々が神仏坐す地として守り続ける野趣溢れる天然の森が、訪れる人々を圧倒する景観で迎えてくれる。
ここに暮らす人々が、それらの森を長きに亘って育み、育まれる中で作り上げた食や暮らしの文化が今に伝わり、訪れる者はそれを体感して楽しむことができる。
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一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定
私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
平成芭蕉の日本遺産
この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。
「令和の旅」へ挑む平成芭蕉