縄文人の謎を紐解く 岩宿遺跡と群馬県の縄文遺跡
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界遺産に認定されたこともあり、最近では縄文土器をはじめとする縄文文化に関心を寄せる方が増えているようです。しかし、地上にみえる城郭や古墳に対して縄文時代の集落跡などは大半が地下に埋もれており、身近には感じにくいかもしれません。
世界文化遺産に登録されたことで北東北の縄文遺跡は知られるようになりましたが、北関東の群馬県や栃木県にも数多くの遺跡が存在しますので、いくつかの代表的遺跡をご紹介します。中でも群馬県の岩宿遺跡の発見は「赤土の中にヒトは住めない」という当時の常識を覆す考古学上の貴重な出来事でした。
また、群馬県の茅野遺跡から出土した600点近くの多種多様な土製耳飾りは一見の価値があります。身を飾る行為は、人として誰もが意識する美への欲求ですが、縄文人も現在の私たちと同様に自分をより魅力的に見せる意識をもっていたのでしょう。考古学の世界では、こうした身を飾る行為が性別や年齢、出自や所属、既婚と未婚などを表すとされますが、私には縄文人にとっての装身は、単なるおしゃれではなく、もっと重要な精神世界を示すもののように感じます。
〔岩宿遺跡 みどり市岩宿博物館〕 群馬県みどり市笠懸町阿左美1790−1
岩宿遺跡は、1946年(昭和21年)に発見された旧石器時代の遺跡ですが、当時は日本に旧石器時代は存在しないというのが一般的な学説でした。しかし、アマチュア考古学研究家の相沢忠洋(あいざわただひろ)が、小さな黒曜石の石器を発見したことにより、長年の学説が覆ったのです。
岩宿遺跡は、群馬県みどり市笠懸町阿左美地内の琴平山・稲荷山という小さな丘陵が接する部分に位置し、現在は国史跡として指定されています。岩宿遺跡の切り通しの道となっていた部分に露出していた赤土(関東ローム層)から相沢忠洋により石器が採取され、その後の発掘へとつながりました。旧石器時代の石器の多くは、火山灰が堆積したローム層の中から発見され、火山活動が活発だったことが分かってきました。
岩宿遺跡は赤城山の南東、渡良瀬川右岸地域の小残丘に立地しており、丘陵の北部は「稲荷山」、南部は「山寺山」および「金比羅山」(琴平山とも)と呼ばれています。稲荷山と山寺山の境をなす低い鞍部には町道が通っていましたが、相沢忠洋によれば、初めてローム層の中で打製石器を発見したのは、この道路の切通だったそうです。
1949年(昭和24年)、杉原荘介教授の主導による明治大学の調査で、切通の北側がA区、南側がB区と命名、また稲荷山南斜面がC地点とされて、あわせて3か所が発掘されました。その結果、A・B地点の岩宿層と呼ばれた赤土の二層から石器が出土し、C地点では黒土の中から最古級の縄文土器が出土しました。岩宿の下層旧石器について杉原教授は当時、局部磨製石斧をハンドアックス(握り槌)として、10万年より古い石器として報告しています。
この岩宿遺跡発見は、遺跡は専門家だけのものではなく、また、遺跡について考えたり学ぶことは学者だけの特権ではないことを教えてくれます。そして私たちに常識とされるものを常に疑う思考法の重要性も示唆していると感じました。
日本列島の人類史を書き替えた岩宿遺跡ですが、隣接する岩宿博物館では、約4万から約1.5万年前の昔に日本列島に展開された人類の生活を、その時代に生息していたオオツノシカの頭骨やナウマンゾウの骨格展示等を通して再現しています。旧石器時代は氷河期であったため、移動しながら森に生息するナウマンゾウ、オオツノジカなどの大型動物を狩って食糧としていました。
〔矢瀬遺跡〕 群馬県利根郡みなかみ町月夜野2936
矢瀬遺跡は群馬県利根郡みなかみ町月夜野にある縄文時代後期から晩期の集落跡で、利根川右岸の河岸段丘の最下段にあり、3000年ほど前にあった驚きのムラの全体像が、墓地、祭祀跡、水場などから判明しています。
縄文人は井戸を掘ることをしなかったので、水場はもともとある湧水地を掘り下げて造られていました。周辺に河原石を張り付けて池状にし、石組みの排水用溝や立石列を造って石皿などを配置した作業場が設けられており、池状遺構の底からはトチノキやクルミなどの種子が出土しています。
縄文時代の重要な食料の加工法のひとつに、トチノミなどを流れる水の中に浸すことで渋みをとる「アク抜き」がありますが、この水場はこのような食料加工の場であったと考えられます。
復元住居そばの保存館内には、「四隅袖付炉」と呼ばれる四隅に「目の字状」にモチーフされた突出部が付いた石組み炉を供えた住居があり、遺跡の解説をしてくれる映像施設も備わっています。
墓地は100基以上の配石墓群で、集落跡には22棟の竪穴住居跡があり、大型の1号住居跡を中心に南北に分かれて構成されています。住居と墓が一体の集落は縄文時代の特徴かと思われます。
現在は死体は不浄という観念から居住域と墓地は隔離されていますが、縄文時代には「死しても集落の構成員」という祖霊思想があったと考えられます。死体は集落の中に葬られ、肉体は土に戻り、魂は天空に昇っていつまでも集落を見守るという祖先崇拝で、生きる者と死者の共存は、永続を望む縄文時代の社会観だったのでしょう。
祭祀跡は水場に近接した祭壇状の石組み遺構を中心にし、径80cmの巨大木柱遺構や丸材でつくられた木柱列、方形木柱列などがあり、木材はほとんどがクリ材です。
出土遺物は膨大な量にのぼり、なかでも装身具と祭祀関係の遺物が大量に出土しています。また住居内で見つかった目の字の石組みに似た「目」の字を貼り付けた土器や、アスファルトをつけた石鏃(せきぞく)、ベンガラを入れたミニチュア土器、弓矢をもつ人物を描いた円礫、径1cmの石棒など、他に見られないものが多く出土しています。
土器は食料保存の重要な生活道具であり、そこに描かれた文様は「命をつなぐ」信仰のたまものでした。食料加工の場であった炉に土器文様の「目」の字のモチーフを写しとった行為は、共に暮らす一族の生をつなぐ団結の証だったのかもしれません。
一帯は道の駅「矢瀬親水公園」となっていますが、復元された矢瀬一帯の縄文ムラ遺跡公園にたたずむと、千年以上の長い間、この地で暮らした縄文人の生活の様子が浮かび上がってきます。
〔榛東村(しんとうむら)茅野遺跡 耳飾り館〕 群馬県北群馬郡榛東村山子田1912
茅野遺跡は群馬県北群馬郡榛東村長岡にある縄文時代後期から晩期にかけての集落跡で、榛名山の外輪山の一つである相馬山の東南麓に立地します。
1989年(平成1)から翌年にかけて行われた発掘調査で、保存状態の良好な縄文時代の竪穴住居や多数の土製耳飾りなどが出土し、竪穴住居、墓、水場などで構成される縄文時代後期後半から晩期前半にかけての大規模な集落であることが判明しました。
特に注目されるのは、577点の土製耳飾りと200点を超す岩版で、土製耳飾りは滑車形のものが多く、表面に赤や黒の彩色が施され、岩版は東北地方を原産地とする白色凝灰岩を板状に成形したもので、未完成のものや原石も多数出土しています。
当時の他地域との交流を考えるうえで重要とされ、出土品1950点は1992年(平成4)に国の重要文化財に、遺跡は2000年(平成12)に国の史跡に指定されました。
榛東村耳飾り館には茅野遺跡から出土した重要文化財の耳飾りを中心に世界各国の耳飾り等が展示されており、館内には、耳飾りグッズを揃えたミュージアムショップもあります。
〔譲原石器時代住居跡〕 群馬県藤岡市譲原1087
譲原遺跡は群馬県藤岡市譲原にある住居跡で、群馬県と埼玉県の県境を流れる神流(かんな)川の流れが東から北に変わる左岸に臨む段丘地帯にあります。
縄文時代の竪穴住居は大きく分けて円形と方形の2つのタイプがありますが、譲原遺跡で見つかった住居跡は縄文時代後期後半の方形タイプです。
遺物は1933年(昭和8)から採集されていましたが、1937年(昭和12)に遺構が発見され、1946年(昭和21)からの発掘調査で、岩塊をほぼ長方形に敷き、その周囲4.3m×3.6mの範囲に小さな石礫(せきれき)が残存していることが判明しました。
中央には結晶片岩による長方形の石囲い炉跡があり、住居跡内から石鏃(せきぞく)、石斧(せきふ)、石錐(せきすい)が検出され、付近の集落跡からは縄文土器をはじめ土偶や石器が出土しています。
出土した土器や土偶から、縄文時代早期から晩期にかけての遺跡と考えられ、敷き石住居跡としては比較的規模も小さくも、奥深い山峡地域にある例として稀有なことなどから、1948年(昭和23)に国の史跡に指定されました。
遺跡は道の駅「上州おにし」のそばにあり、かつての「美原尋常高等小学校譲原分教場」の敷地内の一角です。現在は住居跡に覆屋を兼ねた体験学習館内に保存されています。
また、道の駅「上州おにし」の中には「三波石のふるさと」という展示室があり、縄文時代に石皿や石t棒の材料によく使われた緑泥片岩をはじめ、この地域特産の15種類の変成岩がつぶさに観察できます。
縄文人の謎を紐解く 代表的な栃木県の縄文遺跡
〔うつのみや遺跡の広場 根古谷台遺跡〕 栃木県宇都宮市上欠町字根古谷台
根古谷台遺跡は縄文時代前期の大規模な集落跡で、広場の中心に墓域があり、周辺に特殊な建物群を配置し、頻繁に建て替えています。また遺物全体には遺物の種類と量が少なく、竪穴住居跡の多くからはクルミ・クリなどの堅果類が出土するという特色をもち、日常の生活の場ではなかったことを示しています。
縄文時代の社会構造・精神生活を探る上できわめて重要な遺跡で、現在は「うつのみや遺跡の広場」として整備され、資料館や4棟の復元建物が置かれています。
姿川の右岸段丘上にあり、元は墓地(聖山公園)の建設予定地でしたが、1982年から1988年にかけて発掘調査が行われ、300基以上の土壙(墓壙)を囲むように竪穴式住居27軒や方形建物11軒、掘立柱建物18軒の遺構が出土し、土壙からの出土品のうち石製の美しい玦状(けつじょう)耳飾・管玉・石鏃・石匙などが一括して1990年に重要文化財に指定されました。
最も大きな第一号建物は全長23m、幅9.8mで、同じつくりで復元された三内丸山遺跡の大型建物(全長32m)に次ぐ大きさです。
生活の跡を窺わせる遺物よりも祭祀関連の遺物が多いことから、主として血縁・地縁による集団が葬祭などの祭祀儀礼を行った場と推定されています。
〔寺野東遺跡〕 栃木県小山市簗
寺野東遺跡は、栃木県小山市の東部に広がる段丘縁辺部にあり、旧石器時代から平安時代までの長期間にわたる複合遺跡である。その中でも縄文時代の環状盛土遺構は、南北直径約165mの巨大なドーナツのような形に盛られた遺構です。
盛土に使われた土は内側をけずった土で、最も高いところで約2mの高さまで盛られて、盛土は現在、4つの部分が残っており、4つとも真っ赤な焼土層と盛り土が交互に層になっています。
これは、多年にわたって火を焚く行事が繰り返し行われた結果形成されたものと考えられています。遺物として、土製の耳飾りや土偶など非日常的遺物が多いことと併せて考えると、縄文時代の呪術的祭祀の場であったと推測されます。
また、環状盛土遺構の内側の中心から少し北には石敷台状遺構と呼ばれる長軸22m、短軸17mの石を敷いた楕円形の高まりがあり、この遺構からの出土物は少ないですが、石が敷かれたことなどから、環状盛土遺構の中でも重要な場所であったのでしょう。
縄文時代の中期前半からは集落が営まれはじめ、遺跡の中央を北から南に流れる谷の下流を挟んで東西の台地上に、地床炉をもつ五メートルほどの隅丸方形や円形の竪穴住居跡の分布が検出され、中期後半になると集落は大規模になり、谷の東側平坦地上に密集して環状に竪穴住居跡と土坑が分布しています。
竪穴住居は、石囲い炉をもちほとんど円形から長楕円形で、四から五メートルのものが多く、中期末から後期初頭にかけては、遺跡の北部の谷にかかる斜面に竪穴住居跡、台地平坦面上に土坑が散在し、その南に埋設土器が分布する小規模な集落となりました。
集落の南外れの谷の東側斜面にいわゆる水場が形成され、水場遺構と木組み遺構が残っていますが、水場遺構は小支谷の流れを利用した遺構であり、川の底に板状の木を正方形に組み合わせた建築物です。全部で14基見つかっていますが堅果類(トチノキ)のアク抜きのための施設だと考えられています。
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日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されたことを記念して、私はみちのくを旅した芭蕉の研究本『松尾芭蕉の旅に学ぶ』と共に『縄文人からのメッセージ』というタイトルで縄文文化を語り、平成芭蕉の『令和の旅指南』シリーズ(Kindle電子本)として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。
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③『松尾芭蕉の旅に学ぶ 令和の旅指南Ⅲ』:芭蕉に学ぶテーマ旅 「奥の深い細道」の旅
④『生まれ変わりの一人旅 令和の旅指南Ⅳ』: 感動を味わう一人旅のススメ
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私は平成芭蕉、自分の足と自分の五感を駆使して旅しています。
平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。
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