「朝鮮通信使」の足跡をたどる風待ち・潮待ちの瀬戸内海港町巡り
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、日本人の海外渡航や海外からの訪日観光客が制限されている現状は、まるで江戸時代の鎖国に近いものがあります。
しかし、江戸時代には鎖国中でも朝鮮通信使と呼ばれる、新しい将軍が即位した際、朝鮮からお祝いを言いに来る使節がありました。
この朝鮮通信使の起源は、室町時代に当時の朝鮮半島を支配していた高麗から日本に倭寇の取り締まりを請願されたことが始まりと言われています。
一方、江戸時代の朝鮮通信使は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことから始まりました。しかし、本当の理由は、室町時代には勝手に朝鮮と貿易をして力を蓄えた大名がいたことから、徳川家康は先んじて、直接朝鮮と国交を回復し、他藩を牽制したのだと思います。
そしてこの朝鮮通信使の行列見物は、当時の一般庶民にとって大きな娯楽となりました。
漢城(ソウル)を出発した一行は、約2カ月かけて釜山まで行き、釜山の永嘉台(ヨンガデ)で航海の安全を祈る海神祭を行った後、6隻の通信使船で対馬の佐須灘港へと出発し、対馬から大阪までは、対馬藩主に案内されて、壱岐・相ノ島・赤間関・上関・蒲刈・鞆の浦・牛窓・室津・明石・兵庫に停泊しながらの船旅でした。
そしてこの行路は万葉集巻15に詠われる736年(天平8年)の阿倍継麻呂を大使とした遣新羅使一行のルートに近いものとされています。
私は令和元年にこの遣新羅使の瀬戸内海万葉故地を訪ねましたが、今年は緊急事態宣言が解除されれば、同じ瀬戸内の朝鮮通信使ゆかりの地を巡ってみたいと考え、3月16日出発の<歴史への旅>に同行して下関から瀬戸内海の風待ち・潮待ちの港町を訪ねることにしました。
『世界記憶遺産「朝鮮通信使」の足跡をたどる 風待ち・潮待ちの港町「鞆の浦・牛窓・室津」3日間』
朝鮮通信使は、正使以下500名にも及ぶ使節団で、1607年から1811年までの間に12回来日していますが、最後の回を除いた11回は、日本本土への最初の上陸地は下関でした。
下関と言えば、平家が滅亡して安徳天皇が入水した壇ノ浦の戦いを思い出しますが、その壇ノ浦に面した赤間神宮駐車場横にある阿弥陀寺公園には、「朝鮮通信使上陸淹留(えんりゅう)之地」碑が建てられています。
「淹留」とは「長く同じ場所に滞在する」という意味で、朝鮮通信使の下関での滞在は、現在の赤間神宮の前身である阿弥陀寺と、その近くにある引接寺(いんじょうじ)でした。
引接寺は、1560年(永禄3年)に豊前国の黒田村(現在の北九州市)より移創された浄土宗の寺院で、有名な名工・左甚五郎の作と言われている大きな龍の彫刻が彫られた三門で有名です。この三門には伝説があり、彫刻の龍が引接寺の前を通りかかった人を次々襲ったため、武士によって龍は胴体を切られて退治されたと言われています。
また、この寺は日清講和会議の際、清国全権李鴻章が滞在した場所でもあり、引接寺から春帆楼(しゅんぱんろう)に通じる小道は、李鴻章が講和会議に通った道として「李鴻章道」と名付けられています。
春帆楼は下関の迎賓館とも呼ばれ、朝鮮通信使の中官が宿泊した場所ですが、明治21年、ここでふぐ料理を食した伊藤博文が禁食令を解いて、ふぐ料理公許第一号となった老舗ふぐ料理店でもあります。
そしてこの春帆楼に隣接して建つ「日清講和記念館」は、この地で開かれた日清戦争の講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約の歴史的意義を後世に伝えるための施設で、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などを展示しています。
朝鮮通信使の船団は、長門の下関(赤馬関)、周防の上の関に進み、次に安芸の下蒲刈島・三之瀬に立ち寄りました。三之瀬港には「長雁木」と呼ばれる当時の船着き場が残っていますが、一行が上陸した下蒲刈町は、古くから瀬戸内海の海上交通の要衝として栄えてきた町で、三之瀬の海を背景に松を主樹とする自然を生かした庭園「松濤園」があります。
この庭園の中には、「蒲刈島御番所」や旧有川邸の伝統建築物を移築して作られた、朝鮮通信使資料館「御馳走壱番館」があります。
この名前は使節を案内した対馬藩主が、「安芸灘御馳走一番」と蒲刈の御馳走が一番だったと答えたことから命名されました。
御馳走壱番館には1/10の朝鮮通信使船の模型や使節が蒲刈にやって来た様子を表したジオラマが展示されており、島をあげて一行を歓待していた当時の様子が蘇ってくる気がします。
下蒲刈島での饗応は贅を尽くし、次の停泊地・備後の鞆までは六百余艘の船が伴走したと言われ、鞆の浦には当時の港町を象徴する立派な常夜灯が立っています。
朝鮮通信使の足跡は各地に残っていますが、その中でも鞆の浦の福禅寺は特に重要で、「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡にも指定されています。なぜなら、通信使一行は、迎賓館とされた福禅寺客殿「対潮楼」からの眺めを「日東第一形勝(朝鮮よりも東で一番美しい景勝地)」と賞賛するなど、ここからの瀬戸内海の景観を愛し、様々な書を残しているからです。
今も「対潮楼」からは仙酔島をはじめとする島々や、魚影を追う鳥の姿がまるで絵画のように広がっており、当時の朝鮮通信使一行の心情を察することができます。
通信使一行は、鞆を立つと備前の牛窓、播磨の室津、摂津の兵庫に港に寄港して大坂に上陸しました。
牛窓は、牛窓神社入り口に柿本人麿の歌碑が立つ万葉故地の1つで、蒲刈や鞆の浦同様に「風待ち・潮待ち」の港でしたが、今日では歴史的な港街というよりも地中海の明るい雰囲気が漂っています。
しかし、街には朝鮮通信使ゆかりの井戸や宿泊地となった本蓮寺「客殿」も残っており、本蓮寺の境内は鞆の浦の福禅寺と同様に「朝鮮通信使遺跡」に指定されています。
そして牛窓には10歳前後の男の子二人が、独特の衣装を着て踊る「唐子踊り」が伝わっていますが、これは朝鮮通信使の影響を受けたものです。
明治20年築の旧牛窓警察署本館を利用した「牛窓海遊文化館」には、「唐子踊り」の由来や挑戦通信使関連の資料が多く展示されています。
室津は今でこそさびれた魚村ですが、江戸時代には朝鮮通信使が立ち寄っただけでなく、海上と陸上交通の要衝として「室津千軒」と呼ばれるほど栄え、一行は姫路藩御茶屋に宿泊していました。
室津の「室津海駅館」は、近世から近代にかけて廻船問屋として活躍した豪商「嶋屋」の遺構で、切妻平入り本瓦葺き二階建てという室津の町家の特徴をよく残しており、館内では、室津の歴史を、「朝鮮通信使」だけでなく「廻船」「参勤交代」「江戸参府」の四つのテーマで紹介しています。
これらの朝鮮通信使が立ち寄った港町は、明治時代になると、海上交通に代る陸上交通の発達により、衰退の一途を辿っていきました。
しかし、外出自粛の後に瀬戸内海の太陽を浴びて、風と海を感じながら、歴史ロマンに身を浸してみるとポストコロナの生き方がみえてくる気がします。
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私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。