平成芭蕉の日本遺産 朝鮮通信使の玄関口となった「国境の島」対馬 | 【黒田尚嗣】平成芭蕉の旅物語

令和の「平成芭蕉」

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平成芭蕉の日本遺産

平成芭蕉の日本遺産 朝鮮通信使の玄関口となった「国境の島」対馬

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私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。

平成芭蕉の日本遺産

平成芭蕉の日本遺産

この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリーに対する私自身の所見を述べた記録です。

雄大な自然に恵まれ、悠久の歴史を誇る「国境の島」対馬

沖縄本島と北方領土を除き、日本の離島としては佐渡島、奄美大島に次いで3番目に大きい対馬は、韓国までわずか約50㎞に位置することから、対馬は朝鮮半島を臨む、壱岐島、五島と共に「国境の島~古代からの架け橋」として日本遺産に登録されています。

「国境の島~古代からの架け橋」

「国境の島~古代からの架け橋」

島の中央部には、対馬の空の玄関口「対馬やまねこ空港」浅茅(あそう)湾が広がり、南部には海の玄関口「厳原(いずはら)港」がありますが、豊かな自然に恵まれたこの島は、『魏志倭人伝』や『古事記』、『日本書記』、『万葉集』などの古典にも登場するなど、悠久の歴史を誇る島なのです。ただ、その歴史は奥が深く、難しい印象があるため、対馬を敬遠している人が多いのも事実です。

私は2017年、日本城郭協会によって「続日本百名城」に認定された対馬の金田城を視察する目的で対馬を訪ねましたが、対馬の古代史や朝鮮通信使にも関心があったので、和多都美神社対馬宗氏ゆかりの金石城、万松院も巡ってみました。

金石城櫓門と朝鮮通信使之碑

金石城櫓門と朝鮮通信使之碑

古代の対馬に緊張状態をもたらしたのは、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いです。当時の朝鮮半島には高句麗・新羅・百済の三国が分立していましたが、日本と同盟関係にあった百済が唐・新羅の連合軍により滅ぼされ、日本は百済再興のために援軍を送るも白村江で大敗してしまったのです。

そのため大和朝廷は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされ、倭国側の当事者であった中大兄皇子(後の天智天皇)は、唐・新羅の侵攻に備え、664年に筑紫・壱岐・対馬に防人(さきもり)烽火(とぶひ)を設置し、667年、対馬に金田城(かねだのき)を築いたのです。

城には最大6.4mに達する高さの石塁を用いた城壁が築かれ、『日本書紀』にも記載があって、その築城方法には百済の影響が強く見られます。

朝鮮式山城の金田城

朝鮮式山城の金田城

この対馬の金田城は、「続日本百名城」に認定されましたが、日本最古級の朝鮮式山城の遺構がよく残っており、国の特別史跡にも指定されています。現在、金田城には登山道が整備され、山頂からは古代の防人たちも見たであろう朝鮮半島方面の水平線を臨むことができ、古代へのロマンに思いを馳せることができるトレッキングコースとして人気です。

金田城からの眺め

金田城からの眺め

金田城は、対馬の中央に位置する浅茅(あそう)湾の南にあり、周囲には厳原の城下町を中心に、清水山城金石城桟原(さじきばら)城と、対馬を代表するお城が集まっています。
すなわち、この地は国境の島として外的を迎え撃つ最前線の基地であったことを示しているのです。

清水山城は厳原港の北に聳える標高219mの清水山に天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命により、文禄・慶長の役の際、肥前名護屋から朝鮮半島への重要拠点として築かれました。金田城は古代に防衛の砦として築かれましたが、清水山城は逆に攻撃の前線基地として築かれたのです。
清水山城では山頂の本丸から南東の尾根先へ二の丸、三の丸が配され、本丸から先端の三の丸までの尾根は石垣で固められているため、尾根を登る部分は登り石垣のようになっています。私は城のツアーを企画する担当者と同行講師と一緒に登りましたが、この城は本格的な山城で、一人で登ると迷子になる可能性もあるので注意が必要です。

清水山城の石垣

清水山城の石垣

清水山城の調査を終えてからは、ふもとにある金石城へ向かいましたが、金石城は、対馬藩主・宗(そう)家の拠点として整備された城館で、延宝6年(1678)に桟原(さじきばら)城が新しく完成するまでの間は宗家の居城として使われていました。

金石城は市街を挟んだ北東隣の桟原城とあわせて厳原城(いずはらじょう)とも呼ばれていますが、宗氏の居城だった金石屋形を、朝鮮通信使を迎えるために、近世城郭に改築したものです。すなわち金石城は、金田城のような防衛の砦や清水山城のような攻めの拠点としてではなく、平和になった江戸時代に朝鮮からの使節を迎える迎賓館として利用されたのです。

金石城の二層櫓

金石城の二層櫓

そのため、金石城には石垣や堀切は廻らされましたたが、天守は築かれず、1669年(寛文9年)に宗義真によって造られた大手口の櫓門を天守の代用としていました。しかし、1813年(文化10年)の火災でこの大手門櫓は焼失しましたが、今日では、万松院(ばんしょういん)宗家文庫に保存されていた模型を基に木造によって二層の櫓門が復元されています。

万松院(ばんしょういん)は対馬藩主である宗家の菩提寺で元和元年(1615年)に宗家20代義成(よしなり)が父義智の冥福を祈って建立した菩提寺で、国の史跡に指定されています。今の本堂は明治12年(1879年)に建造されたものですが、桃山式の正門と仁王像は焼失から免れ創建当時のままで対馬最古の建物です。

万松院の桃山式の正門

万松院の桃山式の正門

万松院(ばんしょういん)には132段の百雁木(ひゃくがんぎ)と言われる石段があり、この石段を上った場所に宗家10代~32代までの墓所である御霊屋(おたまや)巨大な墓がずらりと並んでいます。

万松院の132段の百雁木

万松院の132段の百雁木

また万松院には徳川歴代将軍の位牌(本物とまったく同じ複製)などもあります。この巨大な墓地や徳川歴代将軍の位牌などは、国境の島を任された宗家が、朝鮮国から軽く見られないための政策的な意味もあったのではないかと思われます。

対馬宗家の巨大墓地

対馬宗家の巨大墓地

また、墓所の手前に樹齢1200年と言われる万松院の大スギが3本あり、杉では対馬一の樹齢を誇っています。

対馬藩の表向きの石高は10万石でしたが、実際にはほとんど米はとれず「無高」で、藩財政のかなりの部分は日朝貿易に頼っていたようです。しかし地勢的に、外交・軍事上の要地であったため、幕府は政策上、意図的に石高を多めに表示し、 家格を上げたものと考えられます。

日本遺産「対馬藩お船江跡」

日本遺産「対馬藩お船江跡」

見どころのいっぱい対馬ですが、歴史ファンにはたまらない史跡として「対馬藩お船江(ふなえ)跡」があります。これは、厳原港から約2kmの場所にある久田川の河口に造られた人工の入り江で、対馬藩の所有する公用船を格納していた船渠です。突堤4基船渠5つが現存しており、多くの公用船を所有し、大阪や長崎、朝鮮半島との交易を行っていた、対馬藩の歴史を象徴する史跡です。

対馬藩お船江の船渠

対馬藩お船江の船渠

また、対馬のガイドブックにしばしば登場する、一の鳥居と二の鳥居が海中にそびえ、本殿に向かってまっすぐ5つの鳥居が並ぶ特徴的な和多都美神社も浅芽湾の入り江にあります。この和多都美神社は、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祭る海宮で、古くから竜宮伝説が残されており、古事記にある「海幸彦・山幸彦の伝承」は、この地から生まれたものと言われています。

鳥居が海中に立つ和多都美神社

鳥居が海中に立つ和多都美神社

対馬における日本遺産テーマは「国境の島」というストーリーですが、古代は防衛の砦、文禄・慶長の役では攻撃の前線基地、江戸時代には迎賓館など役割は変化しており、「物語」はたとえそれが伝説であっても設定された舞台があれば、現地を訪ねて想いに耽るのが旅の楽しみです。
対馬の旅では『古事記』・『日本書紀』の世界から秀吉の朝鮮出兵、江戸時代の朝鮮通信使など、本土だけでは見えてこない日本の歴史ストーリーが蘇ってきます。

国境の島 壱岐・対馬・五島 ~古代からの架け橋~

日本遺産ストーリー 〔長崎県:壱岐市、対馬市、五島市、上五島町〕

日本本土と大陸の中間に位置することから、長崎県の島は、古代よりこれらを結ぶ海上交通の要衝であり、交易・交流の拠点であった。
特に朝鮮との関わりは深く、壱岐は弥生時代、海上交易で王都を築き、対馬は中世以降、朝鮮との貿易と外交実務を独占し、中継貿易の拠点や迎賓地として栄えた。
その後、中継地の役割は希薄になったが、古代住居跡や城跡、庭園等は当時の興隆を物語り、焼酎や麺類等の特産品、民俗行事等にも交流の痕跡が窺える。
国境の島ならではの融和と衝突を繰り返しながらも、連綿と交流が続くこれらの島は、国と国、民と民の深い絆が感じられる稀有な地域である。

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by 【平成芭蕉こと黒田尚嗣】

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