日本遺産の地を旅する~巨大な木太刀を担いで「大山詣り」
伊勢原市の大山は「石尊信仰」の霊地
日本遺産のまち伊勢原にある大山は、神奈川県の西部、丹沢山地の東麓に位置しており、標高 1,252mで関東一円から山容を望むことができ、古くから山岳信仰の地として崇められています。
大山は、山頂の石を神として敬う「石尊信仰」に仏教の「不動尊信仰」が加わった霊地で、4~5世紀には大陸から平塚や大磯に渡来した人々が、眼前の威厳ある大山を見て「アーブリ、アーブリ(我が祖先の霊魂の鎮座する聖なる山よ)」と呪文を唱え、聖なる霊峰として崇めるようになっていました。
そこへ755年、奈良東大寺の別当、良弁僧正が聖武天皇の勅許を得て、山腹に雨降山大山寺(うこうざんだいせんじ)を建立、大山寺では平安時代末の木造不動明王坐像を祀り、鎌倉時代作の鉄造不動明王像を本尊とし、山頂には阿夫利神社が建てられ、神仏を共に信仰する山岳宗教の聖地となりました。
特に鎌倉幕府を開いた源頼朝は、石尊大権現及び不動尊を深く信仰し、「武運長久」を祈願して太刀を奉納したのですが、これが後の「納太刀(おさめたち)」の起源です。
戦国時代には小田原北条氏が大山の僧兵と組んで豊臣秀吉の小田原攻めに対抗するも、敗北して家康の軍門に降り、そして職を失った僧兵が後の大山講の先導師となりました。
大山寺は明治の神仏分離までは現在の大山阿夫利神社の下社がある位置にあり、江戸時代には徳川家康、家光ら幕府の後ろ盾で、本堂をはじめとする大規模な建物群が造営されていました。
文化庁が日本遺産に認定したストーリー『江戸庶民の信仰と行楽の地~巨大な木太刀を担いで「大山詣で」~』は、主として江戸時代に行われた農民の五穀豊穣や雨降り祈願、漁民の豊漁や航海安全祈願を中心とした庶民参拝で、当時の様子は歌舞伎や浮世絵としても取り上げられています。
江戸時代の大山詣りでは、大山山内に数箇所ある滝で滝垢離を行い、身を清めた後に登拝することがならわしで、現在も、当時、滝垢離で使われた元滝や良弁滝などが残されています。参拝者たちの中には粋な職人たちが多く、滝垢離は、互いに彫りものを披露し合う大山詣りならではの舞台でもあったと思われます。
大山阿夫利神社・大山寺と国学者「権田直助」の改革
しかし、現在の大山は参詣というより、観光や登山客のほうが多いようです。さらには多くの人が大山と言えば阿夫利神社と思っているようにも見受けられますが、実際は奈良時代に良弁が大山寺を開創して以来、明治までの1112年間は仏教が大山を支配しており、本来は神仏両詣の信仰の山なので、神だけとか仏だけではなく、大山阿夫利神社と大山寺の両方を詣でるべきだと思います。
私は大山詣りに先立ち、大山阿夫利神社の社務所で権禰宜の目黒久仁彦さんより能楽堂に案内していただき、阿夫利神社の由緒や火祭り薪能の話をしていただきました。
大山阿夫利神社は、山頂に鎮座する本社(奥社・前社含む)と中腹に鎮座する下社があり、下社まではこま参道を歩き、大山ケーブルカーでアクセスが可能です。
「こま参道」には、大山の木地師により製作された金回りが良くなるという縁起物のコマの土産店や各地の大山講中から寄進された大豆と大山の清水で作られた名物の豆腐料理店が軒を並べています。
大山寺は明治の神仏分離により廃寺となり、大きなダメージを受けましたが、国学者権田直助とそれに従った先導師(御師)たちの努力によって、ようやく江戸時代から続く大山信仰の存続を図ることができたのです。
また、権田直介は読みにくかった日本語表記における句読点の必要性を説き、1887年に『国文句読考』を出版するも、同年に風邪をこじらせ、自らの出版物を見ることなく、この世を去っています。
今日、句読点を活用して日本語を読みやすくしてくれた恩人でもあり、大山信仰を再興した功績からも、権田直介のストーリーも心に留めていただきたいと思います。
大山山頂奥の院と大山寺参拝
そこで、私は本筋の大山詣りである山頂の石尊大権現を拝するために、阿夫利神社下社登拝門より本坂の28丁目の頂上を目指しましたが、標高1252mの頂上からは江の島だけでなく富士山も見ることができました。
早速、大山山頂奥の院に鎮座する本社の祭神である大山祇神、摂社の奥宮の大雷神、前社の高龗神(水を司る)を参拝しましたが、本社の下には磐座があり、これが石尊のご神体で青い石と言われています。
帰りはもちろん大山寺にも参拝しましたが、大山寺は明治の神仏分離までは現在の大山阿夫利神社の下社がある位置にあり、大山詣りで納め太刀を奉納した寺です。鎌倉時代に願行上人により造られた本尊の鉄造不動明王は、大山詣りの目的の一つで二童子像とともに国の重要文化財に指定されています。
この大山寺は本堂の彫刻も見事で、向拝(ごはい)前面の彫り物は、源頼朝に挙兵を促した反骨の僧「文覚(もんがく)上人像」で、熊野の滝に打たれて苦行をしている姿と言われています。また、向拝の左右の彫り物は中国の故事にちなんだもので、高価な壺に落ちた幼児を助けるために壺を割ろうとしている姿と割った壺の中から幼児を迎える姿が彫られており、人命の尊さを教えています。
大山講お宿坊「おおすみ山荘」での先導師、佐藤大住さんお講話
大山詣りの後は伝統ある宿坊の一つ「おおすみ山荘」のご主人であり、大山詣りを今に伝承する先導師でもある佐藤大住さんからお話しをおうかがいしました。
佐藤さんからは御師(おし)と呼ばれた先導師の話や「大山詣りは信仰2割、娯楽が8割で、江戸っ子たちにとっては一種のステータスであり、大山詣りに一緒に出掛けて初めて講の一員、すなわち共同体の一員と認められた」といった大山詣りの歴史を語っていただきました。
また、宿坊内の祭壇には納め太刀が飾られており、一般的な神殿とは異なる雰囲気で、宿坊と講との深い関係が理解できました。「おおすみ山荘」は大山講の客が中心で、私は一般観光客向けの個室を備えた宿坊「あさだ旅館」で宿泊、大山の清水で育まれた豆腐料理を堪能し、露天風呂で季節の移ろいを感じさせていただきました。
歴史ある伊勢原の日向地区「日向薬師」と比々多地区「比々多神社」
大山詣りは一般的には阿夫利神社や大山寺のある大山地区が中心ですが、日本遺産の構成文化財は伊勢原市の日向地区、比々多地区にも点在していたので、私は伊勢原歴史文化遺産活用促進ファムトリップに参加し、日向・比々多地区も巡って来ました。
行基菩薩が開創した日向薬師と高麗王若光
最初に訪れた日向薬師は正式名を日向山霊山寺(現・宝城坊)と呼び、716年に行基菩薩が開創した古刹です。最盛期には13坊あったそうですが、明治の廃仏毀釈で破壊され、今は宝城坊のみが残り、これが日向薬師宝城坊、通称「日向薬師」として知られています。
境内には天然記念物の二本杉の隣に南北朝時代の梵鐘がありますが、鐘楼は4隅に3本ずつの柱があって、12神将を表すという珍しいものです。
本尊は鉈(なた)彫りで有名な薬師三尊像で、これは厨子の中にあって見ることはできませんでしたが、他にも薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像、四天王立像、十二神将立像など日向薬師の重要文化財は数多くあって見ごたえがあります。
日向薬師縁起では、行基は白鬚明神と熊野権現から授けられた香木で薬師如来を彫ったと伝わりますが、その2神は現在、日向神社(かつては白鬚神社)に合祀されています。ご神体は熊野権現と白鬚明神の木像ですが、白鬚明神の木像は朝鮮半島にあった高句麗の王若光の姿と言われています。
高麗王若光は日本に亡命し、大磯に上陸、高度な文化を伝えたと言われていますが、この若光が行基に香木を与えたとしても不思議なことではないと思います。ちなみに大磯は「オッソソ」と発音され、これは朝鮮語で「いらっしやい」を意味するそうです。
雨降山石雲寺と壬申の乱で敗れた大友皇子の伝説
次に訪れた雨降山石雲寺は、諸国を行脚していた華厳妙瑞という法師が、「壬申の乱」で敗れた大友皇子の菩提を弔うために開創した寺で、開基は真崇明覚大法王(大友皇子)となっています。また、この寺の本堂前には大山の雨乞い信仰のご神体と思われる「雨降石」も祀られています。
『日本書紀』には、大友皇子は天智天皇が崩御した後、叔父の大海人皇子と皇位継承を争って敗れ、山前というところに身を隠して自害し、首実検されたと書かれています。
しかし、一説には自殺したと見せかけ、こっそりこの日向の山中に逃れ、木こりの慈愛にもてなされて余生を送って、この地で亡くなったとも伝わっています。実際、近くの「御所の入森のコテージ」の「御所の入」などの字は、この言い伝えを証明しているかのようにも思えます。
また『君津郡誌』には、大友皇子は相模からさらに上総に渡って、君津市俵田付近に御所を築いたとの記述が残っているそうで、その御所のあとに建ったのが田原神社で、現在の白山神社と言われています。こちらにも「馬来田(まぐた)」といった伝説を裏付けるような地名が残っています。
現在、大友皇子を祀る日向渕ノ上(ひなたふちのかみ)石造五層塔(通称「大友皇子の墓」)は雨降山石雲寺(清水義仙住職)に移設されています。歴史はロマンですので、大友皇子の陵と伝わる伊勢原の日向を訪れてみてはいかがでしょうか。
比々多地区の聖峰不動尊と三之宮比々多神社
比々多地区の聖峰不動尊は初日の出を拝むパワースポットで知る人ぞ知る穴場ですが、九十九曲でなく、女坂を登るのもなかなか大変で、山城の視察に来ているように感じました。
しかし、標高375mの頂からの眺めは素晴らしく、不動明王を祀った祠堂もあって、案内板によれば、平安時代に紀州の僧・子の聖が修行の場として建立したと書いてあり、歴史のある場所でもあります。
聖峰不動尊にお参りした後は、三之宮比々多神社に参拝し、禰宜の永井さんには丘の上にある元宮にもご一緒していただきました。
比々多神社は平安時代の延喜式の記録に残る古社で、霊山大山をご神体に仰ぎ、はるか縄文時代の昔からパワースポットでした。その証拠に境内からは縄文時代の土器や古墳時代の勾玉などが出土しており、元宮に向かう境内に流れる空気には癒しの力を感じました。
大山は、関東一円どこからもその神秘的な容姿を望むことができ、江戸方面からは「大山道」と呼ばれる街道を歩きながら、道中で富士山とともに眺めることができます。江戸時代には、富士講による富士山詣りも人気がありましたが、富士山へ行くには箱根の関所を通る手形が必要で、一方、大山詣りは、関所も通らず、帰りがけに江ノ島や金沢八景を経由できたことからとても人気を博したようです。
この大山詣りは今でも宿坊の先導師の方々により、その伝統が脈々と受け継がれているので、古くから伝わる様々な伝統を学ぶことができ、また、参道沿いに軒を連ねる宿坊や土産物店では豆腐料理を楽しみ、地元の食材も手に入れることができます。
禅の教義に不立文字(ふりゅうもんじ)という「文字や言葉ではなく体験によって伝えるものこそ神髄である」という教えがありますが、この大山詣りのストーリーはまさに不立文字の世界で、私も文字や言葉だけではとても感動を十分に伝えることはできません。
しかし、第8回”おおやまみち”まちづくりサミットin伊勢原では、基調講演で日本遺産「大山詣り」の魅力についてご紹介させていただきました。
江戸庶民の信仰と行楽の地~巨大な木太刀を担いで「大山詣り」
所在自治体〔神奈川県:伊勢原市〕地域型
大山詣りは、鳶などの職人たちが巨大な木太刀を江戸から担いで運び、滝で身を清めてから奉納と山頂を目指すといった、他に例をみない庶民参拝である。
そうした姿は歌舞伎や浮世絵に取り上げられ、また手形が不要な小旅行であったことから人々の興味関心を呼び起こし、江戸の人口が100万人の頃、年間20万人もの参拝者が訪れた。
大山詣りは、今も先導師たちにより脈々と引き継がれている。首都近郊に残る豊かな自然とふれあいながら歴史を巡り、山頂から眼下に広がる景色を目にしたとき、大山にあこがれた先人の思いと満足を体感できる。
一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定
私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。