令和の「平成芭蕉」

令和の「平成芭蕉」

平成芭蕉の日本遺産

平成芭蕉の日本遺産 「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜

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日本遺産の地を旅する~戦国城下町・岐阜のおもてなし文化

岐阜の自然景観「地上の楽園」で行われた信長公のおもてなし

戦国武将の織田信長が形作った町並みや鵜飼文化が残る岐阜市の城下町は、平成27年に「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜として、文化庁の日本遺産第一号に選ばれました。

「ホスピタリティ」という言葉は日本語では「おもてなし」と訳されますが、厳密に言えば意味は少し異なります。ホスピタリティの語源は、異国から訪れた人を教会等の施設が保護したことから、客人を保護するといった異人歓待がベースとなっています。一方、「おもてなし」は諸説ありますが、聖徳太子が制定した憲法十七条の第1条「和を以て尊しと成す」の「以て、成す」というところから「もてなす」になったと言われています。

2020年の東京オリンピック決定に際して滝川クリステルさんが「お・も・て・な・し」と紹介して以来、日本語の「おもてなし」は国際語となり、すっかり有名になりました。人が人をもてなす際には、一方的にもてなされる側が受益者になるのではなく、もてなす側も“もてなす喜び”を共有することができるのです。すなわち「おもてなし」とは、「もてなす人」と「もてなされる人」との関係性の間にある文化です。

鵜飼による「おもてなし」

そしてこの「おもてなし」を最も効果的に行った歴史上の人物は織田信長です。意外かもしれませんが、織田信長が自身の領地である岐阜城下で行ったのは、戦いではなく、文化の力で有力者たちを迎える、物心両面からの手厚い「おもてなし」だったのです。戦国時代、城は戦のための軍事施設でしたが、信長は自身の城である岐阜城をもてなしにも生かしました。

岐阜城

すなわち信長は、金華山などの自然と城下町が一体となった素晴らしい自然景観や鵜飼文化にその価値を見出し、軍事施設の城に「魅せる」という独創性を加え、自然景観を背景に行われた饗応のおもてなし文化を作ったのです。

日本遺産第1号「信長公のおもてなし」

岐阜城と長良川鵜飼でのおもてなし

戦国時代、織田信長の義父にあたる斎藤道三井口(いのくち)と呼ばれる城と町を築きましたが、信長はこの地を岐阜と名付け、「天下布武」を掲げて天下取りの夢に邁進しました。

領内の道や川を整備し、一部の商人が独占していた市場への参加の制限や税金を配する「楽市」を実施して、誰もが自由に商売のできる場として開放したため、岐阜の町には多くの商人が集まり、商業も盛んになりました。また、美濃の特産品である和紙を使った提灯や和傘を製造する工業も発展し、寺や神社も増えて、今に伝わる岐阜まつりなどの祭も盛大に行われました。

岐阜の提灯と岐阜まつり

また、戦国時代を代表する武将の織田信長は、冷徹非道、戦上手、改革者、破壊者等のイメージですが、岐阜城やその城下で行ったのは戦いではなく、意外にも手厚いおもてなしでした。

信長は軍事の力で征服するだけでなく、文化の力で公家、商人、有力大名等の有力者をもてなすことで、仲間を増やしていったのです。武田信玄の使者「秋山伯耆守」、京都の公家「山科言継」、堺の茶人「津田宗及」、そしてイエズス会宣教師の「ルイス・フロイス」など、多くの有力者が信長公からのおもてなしを受けています。

津田宗及は裕福な商人であり、茶道の名人でもありましたが、信長の「おもてなし」を細かく記録し、特別な食事は岐阜の名物「干し柿」のデザートでしめくくられたと書いています。

日本遺産認定第1号

私は特に信長がフロイスとの別れ際に言ったとされる「美濃へは何度でも訪れよ」という言葉が心に響きますが、実際、巨大庭園を持つ迎賓館「山麓居館」や山上の岐阜城、そして金華山や長良川の美しい自然環境と眺望を活かした岐阜の各所で、信長公は自ら案内や給仕をしたと伝わっています。信長は金華山の西側の山麓「槻谷(けやきだに)」を段々の地形にして、建物と庭園もつくったのです。広い庭には、金華山の自然の岩を取り入れ、招かれた人は立派な建物や美しい景色に息をのんだことでしょう。

信長公の居館

しかし、城下町での一番のおもてなしといえば、今日でも人気の高い長良川「鵜飼(うかい)」でした。鵜飼は鵜という水鳥に魚を捕らせるユニークな漁で、夜にかがり火をたいた船上から、鵜匠がたくみに鵜を操って鮎などの魚をつかまえます。信長は武田信玄に気を遣い、獲れた鮎を自ら確認して甲府に届けさる一方、鵜飼を岐阜のエンターテイメントとしておもてなしに活用したのです。そしてお客をもてなす様々な技術や文化を育成するために鵜を扱う漁師に「鵜匠」の名称を与え、禄米十俵を給して保護したと伝えられています。

鵜を飼いならす鵜匠の山下さん

鵜匠の家には鳥屋があり、そこで鵜を育てていますが、鵜飼漁では1艘につき、最大12羽の鵜をあやつります。

鵜飼文化に魅せられた松尾芭蕉

「鵜匠」と呼ばれる漁師が鵜を操って魚をとらせるといった鵜飼文化は、日本独自のものであり、現代まで途切れることなく受け継がれているものは長良川の鵜飼のみです。

十八楼の鵜飼講演と壁には「十八桜の記」

松尾芭蕉も1688年(貞享5年)岐阜滞在中、長良川を臨む水楼に招かれ、美しい自然と幽玄な鵜飼、そして街の風情に感銘を受け、有名な『十八楼の記』を記したと言われています。『十八楼の記』には「かの有名な中国の瀟湘八つの景色と、西湖の十の地も、すがすがしいこの景色の中にあるように思われる。私のいるこの建物(水楼)に名前を付けるなら、十八楼とでもに言いたい。」と書かれており、次の句を詠んでいます。
 「このあたり目に見ゆるものは皆涼し」

長良川温泉「十八桜」

そこで、私は岐阜の街中に在りながらも、懐かしくゆったりとした時間が過ごせる長良川温泉「十八桜」に宿泊し、現代版の「信長公おもてなし文化」を体感してきました。

長良川温泉「十八楼」の食事

松尾芭蕉は、『笈の小文』(俳諧紀行)の中で、旅の喜びを「只一日の願ひ二つのみ。こよひよき宿からん。‥‥もし、わづかに風雅の人に出会あひたる、よろこびかぎりなし」と述べていますが、私、平成芭蕉も全く同感です。

「十八楼」は川原町界隈に位置する長良川温泉の老舗旅館ですが、屋号は松尾芭蕉の『十八楼の記』に由来するのです。

「十八楼」前の松尾芭蕉像

私は「十八桜」個室の温泉から長良川を眺め、鮎尽くしの料理を堪能し、翌日は楽市楽座の空気が残る古い町並み『川原町』を散策した後、斎藤道三・織田信長居城であった岐阜城、籠細工の仕組みで建立された『日本三大仏』の一つ正法寺の岐阜大仏伊奈波(いなば)神社等を巡りました。

「十八楼」からの長良川の眺め

「十八楼」付近の川原町は、かつて長良川の水運を利用した川港として栄え、昔ながらの日本家屋が軒を連ねており、現在でも、伝統工芸品の「岐阜うちわ」を製造販売しているお店や、岐阜銘菓「鮎菓子」で知られる和菓子店などがレトロな店構えで営業しています。

川原町界隈

特に岐阜長良川畔にたたずむ、町家造りの雰囲気あるカフェ「川原町屋」は、岐阜市重要指定文化財で最高のおもてなし空間を現出しており、おすすめの場所です。

「信長公のおもてなし」が行われた岐阜の名所

岐阜城は金華山(きんかざん)山頂に位置し、戦国時代には小説「国盗り物語」の主人公である斎藤道三の居城でしたが、その後、織田信長がこの城の城主となり、地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたといわれています。

現在の城は昭和31年に復興されたもので、城内は史料展示室、楼上は展望台となっていますが、最上階からは、眼下に鵜飼で有名な清流長良川が市内を貫流し、濃尾平野が豊かに開け、木曽の流れが悠然と伊勢湾に注いでいるさまが一望できます。

岐阜城からの眺め

昼食には長良川右岸の「鵜飼の里」の近く、鵜匠が経営する鵜の庵「鵜」で名物の鮎ぞうすいを食べました。ここは鵜匠を務めた山下純司さん宅の一部で、実際に鵜飼で働く鵜を見学することができます。

鵜の庵 鵜

午後に訪れた日本三大仏の一つに数えられる正法寺の岐阜大仏は、乾漆仏としては日本一の大きさを誇り、胎内には薬師如来がまつられていますが、微笑みかけてくるようなやさしい表情と荘厳さには心身ともに癒されます。

正法寺の岐阜大仏

1900年以上の歴史を持つ古社の伊奈波神社は、岐阜市の総氏神ですが、斎藤道三が金華山から現在地に移したとされ、 4 月の第 1 土曜日に行われている岐阜まつりで有名です。江戸時代の史料には 27 台の山車が描かれるなど町を挙げての祭で、市内を練り歩いた山車や神輿は次々に伊奈波神社に集まってきます。

伊奈波神社

また、伊奈波神社の近くの善光寺には、信長の嫡子信忠により信州の善光寺如来が移されていた時期もあり、京都の公家である山科言継も滞在中に2度お参りに訪れています。

善光寺

その山科言継は金華山山頂からの風景をみて「嶮難の風景、言語に説くべからず」といっています。言葉にできないほどすばらしいということですが、それは景色だけでなく、信長公の「おもてなし」があっての感想だと思います。

ホスピタリティは、国によってその方法は異なるものの、もてなす心には普遍性があり、今回の旅を通じて岐阜には信長公の「おもてなし文化」が今なお息づいていることが実感できました。

「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜

所在自治体〔岐阜県:岐阜市〕地域型

戦国時代、岐阜城を拠点に天下統一を目指した織田信長。

彼は戦いを進める一方、城内に「地上の楽園」と称される宮殿を建設、軍事施設である城に「魅せる」という独創性を加え、城下一帯を最高のおもてなし空間としてまとめあげる。

自然景観を活かした城内外の眺望や長良川での鵜飼観覧による接待。

冷徹なイメージを覆すような信長のおもてなしは、宣教師ルイス・フロイスら世界の賓客をも魅了した。

信長が形作った城・町・川文化は城としての役割を終えた後も受け継がれ、現在の岐阜の町に息づいている。

〔主な構成文化財〕

岐阜城跡、岐阜城復興天守、長良川の鵜飼漁の技術、船上の遊宴文化、川原町のまちなみ、鵜匠家に伝承する鮎酢(あゆずし)製造技術、長良川中流域における岐阜の文化的景観、正法寺(岐阜大仏)、伊奈波神社、法華寺、岐阜提灯、岐阜和傘など

一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定

私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会

平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える

「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。

そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。

私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。

平成芭蕉の日本遺産

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この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。

「令和の旅」へ挑む平成芭蕉

*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照

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