未来を拓いた「一本の水路」安積疏水(郡山・猪苗代) | 【黒田尚嗣】平成芭蕉の旅物語

令和の「平成芭蕉」

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平成芭蕉の日本遺産

未来を拓いた「一本の水路」安積疏水(郡山・猪苗代)

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私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。

平成芭蕉の日本遺産

平成芭蕉の日本遺産

この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリーに対する私自身の所見を述べた記録です。

*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照

福島県の日本遺産 未来を拓いた「一本の水路」安積疏水開拓者の軌跡

文化庁が認定した日本遺産のストーリーの中でも私が最も感動した物語の一つに、福島県の未来を拓いた「一本の水路」安積疏水(あさかそすい)の開拓物語があります。

磐梯熱海駅近くの安積疏水橋

磐梯熱海駅近くの安積疏水橋

私は三重県出身ということもあり、毎年欠かさず伊勢神宮に参拝していますが、平成芭蕉として「奥の細道」やみちのくを旅する際には、「東北のお伊勢さま」と呼ばれる郡山市の開成山大神宮にもお参りしていました。

開成山大神宮

開成山大神宮

そして、この開成山大神宮がなぜ「東北のお伊勢さま」と呼ばれるようになったかを調べてみると、その御由緒の中に安積疏水開拓の歴史が語られていたのです。

現在は安積疏水の恵みもあって「水と緑のきらめく未来都市」として躍進する郡山市ですが、江戸時代までは大槻原(おおつきはら)と呼ばれた荒れ果てた原野でした。

安積開拓事業に並々ならぬ想いを抱いた中條政恒と大久保利通

そしてこの原野の開拓に並々ならぬ想いを抱いた人物の代表が中條政恒大久保利通です。中條政恒はもと米沢藩士で明治5年に福島県に赴任し、県令の安場保和に「決して口を挟まず、私にすべてを委任していただきたい」と約束させて安積開拓事業に不屈の精神で挑んだのです。

中條は郡山村の豪商たちに開拓について説いて回るも、最初は「米沢キツネにだまされるな」と相手にされませんでしたが、資産家の阿部茂兵衛(あべもへえ)が、この開拓が地域に利益をもたらす事業であることを理解し、私財を投げうって開拓に尽力してくれることとなり、他の豪商たちも中條の熱意にほだされ、最終的に阿部を含めた25人が出資に応じてくれました。

開成社創立者

開成社創立者

そして、阿部茂兵衛を社長とする民間の開墾会社が設立され、開物成務(人々の知識を開発し、事業を完成させる)の気持ちを込めて社名は「開成社」と命名されました。

「安積開拓発祥の地」内に建つ3階建ての洋館風の建物こそ、当時の「開成社」の事務所であった「開成館」で、現在は安積開拓や安積疏水に関する資料が展示されています。

開成社の事務所「開成館」

開成社の事務所「開成館」

そしてこの開拓事業に熱い視線を向けた大物政治家が明治政府の内務卿大久保利通です。

大久保は明治4年に岩倉使節団の副使として欧米を視察し、政府の基本方針を「殖産興業(生産をふやし産業を盛んにすること)」による富国政策と定めましたが、中條の説得もあって拓地植民(荒野を開墾して人々を移住させる)士族授産(職を失った士族救済の政策)のためのモデル事業を、この安積の地で実施することを決断したのです。

大久保はこの民間の情熱と官の指導が結合した安積開拓事業にいたく心を動かされ、「わが国の富強の基はこの地にあり」と中條に安積疏水事業の完遂を約束するも、事業開始目前の明治11年5月14日、不平士族によって紀尾井町で暗殺されてしまいます。

郡山の大久保神社に建つ大久保利通顕彰碑

郡山の大久保神社に建つ大久保利通顕彰碑

彼は亡くなる直前まで当時の福島県令山吉盛典(やまよしもりのり)と会談し、開拓にかける想いを熱く語っていたと言われており、郡山市の大久保神社には彼の顕彰碑が建てられています。

開成社の安積開拓事業と入植者の心の拠り所となった「東北のお伊勢さま」

しかし、この開拓地域は郡山村・小原田村・大槻村・富田村に囲まれた入会地(共同の原野で、家畜の飼料となる草や燃料用の雑木を採集するところ)となっていて、その取り合いのために紛争の絶えない地域だったのです。実際、大槻原が開墾され入会地の秣場(まぐさ)が無くなることは、小原田・大槻・郡山村の農民にとっては大変重要な問題であったため、『安積事業誌』によると、首謀者である中條政恒の暗殺が企てられるほど、農民の反対があったと言われています。

また、士族授産によって旧日本松藩の士族たちが大槻原に入植しましたが、農民となった二本松藩の士族と、近隣農民との人心の融合も必要でした。

「開拓の父」中條政恒邸跡(郡山市開成緑地)

「開拓の父」中條政恒邸跡(郡山市開成緑地)

そのため、中條は人心の融和統一こそがこの事業を成功させるための最善の方策と考え、「敬神愛国の道」を説いたのです。そして明治6年、国民の祝祭日として4月3日が「神武天皇祭」、11月3日が「天長節」(天皇誕生日を祝う日)に制定されたこともあり、「離れ森」と呼ばれていた桑野村の丘を「開成山」と名付け、山上に神宮の遥拝所が設けられました。

これを契機として、開成山大神宮に皇祖神である天照大御神、養蚕業の守護神である豊受大神、そして日本国の基礎を築かれた神武天皇の御神霊が奉祀されることとなり、開成山大神宮は「東北のお伊勢さま」と呼ばれるようになったのです。

松山から入植した小山家住宅

松山から入植した小山家住宅

国営の安積開拓事業には、明治11年11月、久留米藩(率先百戸)を皮切りに、松山、高知、鳥取、米沢など全国9藩から旧士族とその家族約2,000人が刀を捨て、原野を開拓しようと入植して来ましたが、耕作技術の未熟さや土地が肥沃でないことなどの状況が重なり、収穫は驚くほど低く、移住士族は困窮を極めました。

このような過酷な環境で彼らの心の拠り所となったのが、故郷の神社の分霊と人心融和のために伊勢神宮から唯一の御分霊を許された「開成山大神宮」だったのです。

「開拓の父」中條政恒

「開拓の父」中條政恒

当時の入植者の暮らしぶりは、「安積開拓の父」と呼ばれた中條政恒を祖父とする宮本百合子『貧しき人々の群』に描かれていますが、当時の極貧生活と苦難が偲ばれます。

そして中條の想いが通じ、明治12年、この開成山大神宮で、かつてない大工事の安全と成功を祈願する起工式が行われたのです。

猪苗代湖の水位調整する十六橋水門

猪苗代湖の水位調整する十六橋水門

安積疏水事業に貢献したオランダ人技術者ファン・ドールン

まず着手したのは、安積疏水事業成功のカギを握り、会津盆地と安積原野の水の流れを調整する「十六橋水門」の建設でした。この設計にはオランダの土木技術者ファン・ドールンが加わり、彼の監修のもとで当時最先端の機器を導入し、実測データに基づいて科学的に検討するという画期的な手法が取り入れられました。

オランダ人長工師ファン・ドールン

オランダ人長工師ファン・ドールン

この検証により、猪苗代湖から安積原野へ水を流しても、西側へ流れる水量は減らないことが実証され、会津住民の不安を解消すると同時に水利という長年の大きな課題を解決に導いたのです。

猪苗代湖の取水口

猪苗代湖の取水口

水路工事の最大の難関は、田子沼の水抜き工事と奥羽山脈の沼上峠の貫通工事でした。特に沼上峠に約2700mの石組みの溝渠(こうきょ)で隧道(トンネル)を掘り抜く難工事には大分の石工たちの技術的貢献と外国の最新技術の導入がありました。

このように開拓者たちの不屈の精神と最新の技術を結集して、沼上峠の東面が開いた瞬間には、怒涛のように猪苗代湖の湖水が噴出し、そのすさまじさは「震天瀑(しんてんばく)」と呼ばれました。かくして、わずか3年1か月という短期間で安積疏水事業は完了しましたが、完成した水路は幹線と分水路を合わせて約130㎞にも及びました。

安積疏水事業を支えた挑戦者たちは、事業の成功と作業の安全を五百川沿いの「安積疏水神社」に祈願してから現場に向かったと言われていますが、明治15年10月1日の「通水奉告祭」は「東北のお伊勢さま」である開成山大神宮で挙行されました。

五百川沿いの安積疏水神社

五百川沿いの安積疏水神社

安積疏水の恵みと郡山市の発展

この安積疏水の恵みは非常に大きく、疏水が原野を潤すことにより、米の作付面積が増えただけでなく、鯉の養殖も盛んとなりました。

大和郡山の名産は金魚ですが、疏水の恩恵を受けた福島県郡山市の鯉は、今や全国一の生産量を誇り、鯉料理店『正月荘』では「鯉こく」料理など水の恵みを堪能することができます。

また、「震天瀑」の地には明治32年、沼上発電所が建設されましたが、郡山に向けたわが国初となる長距離高圧送電が行われ、紡績業の発展に大きく貢献しました。

高圧電力送電に成功した沼上発電所

高圧電力送電に成功した沼上発電所

かつて開成社が開拓を進める中で、植樹した桜の木は春になると開成山公園の土手一帯に花を咲かせます。また、近くの麓山(はやま)公園には、当時の安積疏水の最終地点に通水を記念して開成社の有志によって造られた「麓山の飛瀑(ひばく)」と呼ばれる人工の滝も流れています。

麗山公園内の疏水跡「麗山の飛瀑」

麗山公園内の疏水跡「麗山の飛瀑」

この滝は通水当時の疏水跡で、今も滞りなく流れており、私は先人たちの技術力の高さに感銘を受けました。

郡山(安積地方)から西の天空(標高514m)にあり、豊富な水を湛えて天を映し出す鏡のような美しい湖、「猪苗代湖」から安積原野へ水を通す構想は江戸時代から存在していました。

安積疏水を利用した丸守発電所

安積疏水を利用した丸守発電所

この安積疏水構想の先駆者であった川口半右衛門渡辺閑哉の魂を引き継いだ中條政恒、それを支援した大久保利通、そして技術的に多大な貢献を果たしたファン・ドールンの3人は、麗山公園の「開拓者の群像」としてモニュメントとなっています。

「開拓者の群像」の3人

「開拓者の群像」の3人

しかし、この未来を拓いた「一本の水路」安積疏水の日本遺産を理解するには、これらのモニュメントを見学するだけでなく、国営事業であった「安積開拓・安積疏水開削事業」の歴史とそこに集結した開拓者の不撓不屈の精神に想いを馳せることが大切だと思います。

第一分水路取り入れ口「熱海疏水橋」

第一分水路取り入れ口「熱海疏水橋」

私は「東北のお伊勢さま」を参拝するたびに、この地には日本人として調和共生する「和」の精神が生きており、「一本の水路」には全国から入植した開拓者の未来を思う心が込められているように感じます。

未来を拓いた「一本の水路」-大久保利通“最期の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代-

日本遺産ストーリー 〔福島県:郡山市・猪苗代町〕

明治維新後、武士の救済と、新産業による近代化を進めるため、安積地方の開拓に並々ならぬ想いを抱いていた大久保利通。
夢半ばで倒れた彼の想いは、郡山から西の天空にある猪苗代湖より水を引く「安積開拓・安積疏水開さく事業」で実現した。
奥羽山脈を突き抜ける「一本の水路」は、外国の最新技術の導入、そして、この地域と全国から人、モノ、技を結集し、苦難を乗り越え完成した。
この事業は、猪苗代湖の水を治め、米や鯉など食文化を一層豊かにし、さらには水力発電による紡績等の新たな産業の発展をもたらした。
未来を拓いた「一本の水路」は、多様性と調和し共生する風土と、開拓者の未来を想う心、その想いが込められた桜とともに、今なおこの地に受け継がれている。

未来を拓いた「1本の水路」

未来を拓いた「1本の水路」

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by 【平成芭蕉こと黒田尚嗣】

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