日本遺産の地を旅する~国宝「通潤橋」など、八代を創造(たがや)した石工たちの軌跡
八代平野の干拓に貢献した石工
熊本県八代市では阿蘇山の噴火活動によって堆積した凝灰岩や良質な石灰岩を利用し、八代城の石垣やめがね橋など、古くから石工による町づくりが行われており、令和2年6月には「八代を創造(たがや)した石工たちの軌跡~石工の郷に息づく石造りのレガシー~」という物語が日本遺産に認定されました。

八代城の石垣
そこで、私は令和8年2月21日、八代市日本遺産活用協議会が主催する、日本遺産の認知度向上や日本遺産のストーリーを郷土学習へ活用していくことを目的とした「八代市日本遺産ガイド講習会」に講師として招かれ、「日本遺産の魅力と日本遺産ガイドのおもてなし」について講演させていただきました。

八代市日本遺産ガイド講習会
石工たちが良質な石灰岩を採掘した島は、「水島」と呼ばれる、八代海に面した球磨川の河口に位置する小島です。この島は石灰岩質の島本体と周囲に点在する大小の岩石群からなり、不知火海(八代海)と天草の島々とを背景に優れた景観をなしており、石材を切り出す際にできた矢穴を見ることができますが、景勝地としても有名で、古くは『万葉集』にも詠われています。

万葉集にも詠まれた「水島」
八代市内には今も江戸時代から昭和初期にかけて造られた石造建築が数多く残っており、また、石工たちが創造(たがや)した広大な干拓地は、日本一の生産量を誇る「い草」や、巨大な柑橘「晩白柚(ばんぺいゆ)」の産地となっています。
しかし、現在では熊本県内有数の農業地帯となっているこの緑豊かな八代平野も、以前は「お国一の貧地」と呼ばれるほど、平野部が狭く、農業には向かない湿地と干潟が広がる地域でした。
そのため、この地では農地開拓のために、江戸時代から昭和初期にかけて大規模な「干拓事業」が幾度となく行われました。その際、巨石を用いて築かれた「大鞘樋門(おざやひもん)」に代表される干拓樋門や干拓地を潤す「用水路」そして橋の建設などに大きく貢献したのは、岩永三五郎を中心とした石橋の先端技術集団でした。

大鞘樋門(おざやひもん)
干拓とは水面を堤防で囲って排水し、海底の肥沃な土地を農地として利用することですが、古くは戦国時代の加藤清正に始まり、肥後藩主の細川氏が文政元(1818)年から本格的に着手しました。細川氏は備前藩(現岡山県)が児島湾の干拓で農地を増やしたことを知り、備前藩主の池田氏に干拓技術の伝授を持ち掛け、一方の池田氏は肥後の「石橋の技術」伝授を交換条件として話がまとまったのです。
備前の石工が伝えた干拓技術
早速、備前石工の高野貞七一行を迎えて、鏡町両出から千丁町にまたがる四百町新地の干拓を開始、潮止用堤防造りに着手しました。肥後の庄屋・鹿子木量平(かなこぎりょうへい)が行った測量に基づき、区画整理が行われ、掘り上げられた低地を潮遊地とし、石積みの強固な潮止用樋門が完成します。量平は天保12(1841)年に亡くなりましたが、地元の人々は量平の偉業をたたえるために、没後70年にあたる明治43(1910)年、彼の墓の脇に文政神社を建て、量平を祭神としてまつり、現在でも地域住民は感謝の心を伝えています。

鹿子木量平を祀る「文政神社」
この樋門には、1日2回の潮の干満時の水圧を利用して扉が自動的に開閉するといった合理的で、高度な技術が用いられています。備前から伝えられたこの高度な干拓技術は、肥後の石工である岩永三五郎に引き継がれ、三五郎は八代郡中石工共惣引廻役(取締役)として多くの石工を率い、樋門、用水路、橋の建設に大きく貢献、八代の干拓地は次々と広がっていきました。

岩永三五郎像と墓
石工同士の技術交流
一方、干拓技術を伝え終えた備前石工の勘五郎と茂吉は、殿様同士の約束である技術交流のために菊池に残り、架橋の技術を鏡町に残る「鑑内橋」などを架けた三五郎より学んだと伝えられています。すなわち、八代の肥沃な干拓地は、備前の干拓技術と肥後石橋架橋の技術者の交流によって生まれました。

鏡町内に残る唯一のめがね橋「艦内橋」
現在、名石工・岩永三五郎は干拓地の七百町新地の東端に祀られ、明治から昭和にかけても続けられた干拓事業を見守りました。鑑内橋は、1830年頃、肥後の名石工、岩永三五郎がつくったとされ、現在、鏡町内に残っている唯一のめがね橋です。
名石工・岩永三五郎と「種山石工」の祖と呼ばれる林七
八代の石工は、岩永三五郎に代表される氷川下流域の野津の集団と氷川中流域の種山の集団に分かれていましたが、双方の石工衆の技術交流は行われていました。中でも有名な「種山石工」の祖は、岩永三五郎の義父にあたる藤原林七という元長崎奉行所の武士です。林七は長崎に架けられていた眼鏡橋を見て、アーチの中に支柱がない橋の建造技術に関心を持ち、出島に滞在していたオランダ人と接触、石橋の建造技術に必要な円周率の計算方法を学びました。
しかし、鎖国中の当時は無断で異国人と接することは禁じられており、国禁を犯した罪で身の危険を感じた林七は、長崎から逃れて肥後藩種山村(現熊本県八代市)に移住、藤原姓を捨て種子山姓を名乗り、農業に従事する一方、独自のアーチ理論を編み出して文化元(1804)年、現在の八代市東陽町に石橋3基(鍛冶屋上・中・下橋)を建造しました。

東陽町の石橋(鍛冶屋下橋)
これが「種山石工」の始まりとされ、この瞬間から“石を積上げる”だけの技術しか持たなかった種山の石工は、“石を架け渡す”技術を身に付けて、後世まで讃えられる『種山石工』となりました。
「技術の侍」八代の石工が残した名橋
東陽町には1世紀以上の風雪に耐えて、今も当時の石橋が数多く残っていますが、この先人の知恵と技が息づく石の文化を伝え、新しい地域文化を創造する目的で「東陽石匠館」が設立されました。その建物は、世界的建築家・木島安史氏の設計で、地元でとれる凝灰岩を利用しており、「種山石工」の歴史が紹介され、全国の石橋の資料も多数展示されています。

「東陽石匠館」
「種山石工」は「先人の残した技術と心意気を絶やさない」という信念を持っており、それは己の技を磨き、人々や故郷のために丈夫な橋を架けるといった「義」の精神でした。実際、林七の孫にあたる名工、橋本勘五郎(丈八)は、東陽町を代表する「笠松橋」や国宝に指定された山都町に架かる「通潤橋」などの架設を成功に導き、全国に名声を轟かせるまでに至りました。

国宝に指定された「通潤橋」
笠松橋は、明治2年(1869年)橋本丈八(橋本勘五郎)によって架橋され、農道、参詣道、商いの道として使われました。アーチ中央の要石、石の大きさの変化、石の継ぎ目、橋脚の形を見ると、石工の技術が分かります。平成12年に周囲が公園となり、トイレやベンチも整備され、夜間にはライトアップされ、石橋の美しい曲線が浮かびあがります。

東陽町の笠松橋
「種山石工」は、剣を持つ武士ではありませんでしたが、石の技術をもって人々の命を守る「橋」を築くことで、武士道精神に共通する「信頼」「誇り」「奉仕」を体現した「技術の侍」であったと言えます。
八代を創造(たがや)した石工たちの軌跡~石工の郷に息づく石造りのレガシー~
日本遺産のストーリー 所在自治体〔熊本県:八代市〕
かつて全国で築かれた「めがね橋」を今も多く見ることができる熊本。それらの多くは八代で生まれ育った石工たちによって手掛けられたと伝わっています。彼らの卓越した手腕は日本各地で必要とされ、「神田筋違眼鏡橋(万世橋)」や「通潤橋」などの架設を成功に導き、全国に名声を轟かせるまでに至りました。それ故に、八代は多くの「名石工」を輩出した「石工の郷」と呼ばれています。
石工たちは、八代に広大な平野と豊かな実りをもたらした「干拓事業」や、地域の交通を支えた「めがね橋」の架設などに携わり、八代の発展と人々の生活基盤づくりに長きにわたって貢献する中で、己の技を磨き上げ、名もなき石工から名石工へと成長していったのです。
彼らが築いた堅牢な干拓樋門、川面に美しいアーチを描くめがね橋、見事な棚田の石垣などの石造りのレガシーは百余年たった今も、まちの景観や人々の暮らしの中に生き続けており、訪れる人々を「石工の郷」へと誘ってくれます。
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一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定
私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。

私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。

平成芭蕉の日本遺産
この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。

「令和の旅」へ挑む平成芭蕉


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