平成芭蕉の旅語録

Contents

「旅行+知恵=人生のときめき」

旅のコンセプトは「共感」

このカテゴリーでは旅先でのお勧めレストランや土産品等の旅行情報をお届けする予定でしたが、今の何でも検索できる時代においては、情報よりもむしろ私が体験した感動や旅のコンセプトをお伝えした方が良いと考え、

平成芭蕉を自称する私が「旅行+知恵=人生のときめき」をテーマにお話をしたいと思います。

平成芭蕉の「平成」という言葉は、中国の歴史書からの引用で

『内(内平らかに外成る)』、『地(地平らかに天成る)』

という「平穏で周囲と仲良くする」といった想いが込められています。

そこで、私の旅のコンセプトは一にも二にも旅行中に“ラポール(フランス語で「共感する関係」)”を築くことです。

すなわち旅仲間や現地で出会った人と良い関係を築き、同じ時間を過ごすことによって、感動を共有することです。

もちろん、名所・旧跡からも多くの気付きや学びがありますが、私の場合はまずは「人との出会い」を旅の思い出の第一と考えています。

なぜなら旅の究極の楽しみは、時を共有した人との「再会」だからです。

旅には人に感動を与える「知恵」が必要

旅行中の忘れ物は良くありませんが、旅先に「時の流れの忘れ物」を残すのは「良き想い出」に変わるのでお勧めです。

芭蕉さんも旅先で門人と再会したり、句会を設けて「時の流れの忘れ物」を『おくの細道』をはじめとする紀行文として残しています。

よって、旅を楽しむコツは現地の人との交流による想い出作りであり、そのためには人に感動を与える「知恵」が必要なのです。

すなわち、「旅行+知恵=人生のときめき」です。

by 【平成芭蕉

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健康のための"五浴“

旅に出る目的のひとつに気分転換や療養があります。

すなわち、旅は心身の健康にも効果的で、私はかねてより、旅の「健康五浴」を提唱しています。

それは「観たい」、「食べたい」等の欲望の“欲”ではなく、次の5つの“浴”です。

  • 日光浴…太陽のエネルギーから新陳代謝の促進
  • 森林浴…新鮮な酸素と森のフィトンによるリラクゼーション効果
  • 温泉浴…日本人の大好きな大地のエネルギーから温泉療養
  • 海水浴(潮風浴)…体液に近い海水による塩分補給
  • イオン浴…水しぶきによるマイナスイオン効果、裸足で地面に触れてもよい

お賽銭と五円玉

お賽銭としていくら納めればよいのかと問われて、「神様とご縁が結ばれ、願いが通じる穴があることから五円がおすすめです」と言いたいところですが、この五円玉にはもっと深い隠された秘密があり、それは

稲穂は日本の主力産業であった農業

・下部の複数の線は波、水面を表しており漁業

・穴の周りのギザギザは歯車で工業

・裏の双葉の木はこれからの国の繁栄を祈願すると同時に林業

・アラビア数字の記載がなく五円と大書されるのは商業

の5つの産業の繁栄祈願です。

この五円玉は戦争が終わって、戦後の日本を豊かにしようという願いが込められているのです。

 

旅と修学旅行

日本語の「旅」を英語で表現すると
・Travel
・Tour
・Trip
・Journey
・Excursion
のように区分されます。

一般的な旅行はトラベルTravelで、旅行会社もTravel Agencyと表記されます。
Tourは、その旅行会社が企画するGroup Tourのような団体旅行に使います。
TripはBusiness Tripのような個人出張で乗り物を使う個人旅が主です。
芭蕉さんのように「人生は旅」という場合にはJourneyで、通常、長旅を意味します。

私たちは子供の頃の修学旅行で旅のイメージを植え付けられますが、これはExcursionという遠足であったり、教育的指導の制約されたGroup Tour団体旅行で、本来の「旅」ではありません。

「忍城」城主の末裔阿部正靖氏の講演

「生類憐みの令」という法律は江戸時代の第5代将軍徳川綱吉によって制定され、鷹の餌になる犬の保護を中心に「生類を憐れむ」ことを趣旨とし、捨て子や病人、動物保護のための法令ですが、これは1回で出されたものではなく、複数回に分けて発布された諸法令でした。

しかし、「江戸に多いもの、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と落語でネタにされるほど、犬の糞が放置される原因にもなった誤解の多い法令です。

すなわち、第8代将軍の吉宗が「鷹狩りの邪魔になる犬を遠くへ捨てなさい」とお触れを出すまで犬が増え続けたと言われています。

しかし、阿部正弘の末裔、阿部正靖さんも講演でお話されていましたが、この法令のおかげで、以前は刀を買った武士が試し切りと称して、辻切りをしていた習慣がなくなり、命が軽んじられていた世の中の倫理観が変わったのです。

伊勢の「朔日(ついたち)参り」

「明けましておめでとうございます」とはお正月だけではありません。

無事にひと月を過ごせたことを神様に感謝して、新しく始まる月もどうか健康で満ち足りた日々を過ごせますように、と手を合わせるのが神社への「朔日参り」です。

今回の朔日参りは、神宮の早朝参拝で、毎月1日と15日に行われる「神馬見参」の儀に参列し、今年1月に内宮の新しい神馬となった「草新号」にご挨拶するのが目的でした。

「神馬見参」の「草新号」は、まだ慣れない素振りがあるかと思いきや、威風堂々と神職の礼に合わせて首を垂れていた姿にはとても感動しました。

パスポートのいらない英国「ブリティッシュ・ヒルズ」

私は若い頃、シャーロックホーロックホームズクラブ会員となり、英国のベーカー街やホームズゆかりの地を旅行していました。

「シャーロックホームズ」という言葉から
コナンドイル→英国→ブリティッシュ・ヒルズ(パスポートのいらない英国)

まで、検索できれば福島県の羽鳥高原のブリティッシュ・ヒルズで英国に行かなくてもシャーロックホームズの気分が味わえます。

福澤諭吉の出身地、中津の日本遺産「耶馬渓」

先日、わが母校の創立者、福澤諭吉先生の出身地である大分県中津に行ってきました。聞くところによると今年は福澤諭吉先生が一万円札の肖像になって30周年だそうです。

しかし、今回の中津訪問は昨年、日本遺産に認定された「耶馬渓」の現地案内人さんを対象とした講演が目的です。

その日本遺産は、中津市と玖珠町にまたがる景勝地の歴史や文化を語る
「やばけい遊覧~大地に描いた山水絵巻の道をゆく~」というストーリーです。

そして今年は頼山陽が「耶馬渓」と命名してからちょうど200年にあたる記念すべき年なのです。

北海道の命名者「松浦武四郎」

松浦武四郎は幕末の偉大な探検家であり、科学者でもあり、「北海道」という地名の命名者で伊能忠敬以上に日本全国を歩きつくした「旅の達人」です。
今年は松浦武四郎の生誕200年であると同時に『大日本沿海輿地全図』を完成させた伊能忠敬の没後200年にもあたります。
また、来春NHKスペシャルドラマ「永遠のニシパ~北海道と名付けた男松浦武四郎~」(北海道で先行放送後、全国放送)も放映が予定されています。

この機会に偉大なる先人の足跡を訪ねる旅に出てみてはいかがでしょうか。

遠藤周作『沈黙』の舞台「外海から五島列島」

五島家当主とツアー企画担当者

外海は昨年、公開された遠藤周作の映画『沈黙』の舞台になったところで、この地には信仰が自由になってからも潜伏時代からの信仰を守り続ける「かくれキリシタン」がいます。
昨年、私が現地でお世話になった外海観光ボランティアガイドの松川隆治会長は、黒崎地区のかくれキリシタンで、外海に伝わる伝説を分かり易く解説してくれました。

また、外海から五島に渡ったキリシタンについては、五島列島の五島家第35代五島典昭当主が、当時の大村藩との関係を踏まえて興味深い話を聞かせてくれました。

『奥の細道』のハイライト

私の好きな芭蕉さんの句に 「五月雨を集めて 早し 最上川」 があります。

この句は元禄2(1689)年5月29日(新暦では7月中旬)に山形県大石田の俳諧をたしなむ人たちと句会(36句の歌仙一巻)を開いたときに詠まれたものです。

彼らの代表は船宿の主人、高野一栄という人で、芭蕉さんはその高野一栄の亭に招かれたのですが、そこは最上川の川っぺりにある涼しい場所だったのです。

そして、芭蕉さんは『奥の細道』に「このたびの風流、ここに至れり」と書いており、みちのくの旅が最上川でピークに達したと自ら言っているのです。

幕末外交を陰で支えた長崎通詞「森山栄之助」

今年は幕末150年で大河ドラマの西郷隆盛や大久保利通が明治維新のヒーローとして話題を呼んでいます。

しかし、1853年の日本開国以降、幕末の外交を陰で支えた人物の存在も話題にすべきかと思います。その人物は1820年に長崎のオランダ通詞の家に生まれた森山栄之助(太吉郎)です。

彼はオランダ語に加えて独学で英語も勉強していましたが、ちょうど彼が23歳の時、アメリカインディアンの血を引くラナルド・マクドナルドが漂流民を装って北海道に上陸、捕らえられて長崎に送られてきた際、彼に対する奉行の尋問を通訳する機会に恵まれました。

遠藤周作『沈黙』の舞台、外海の潜伏キリシタン

遠藤周作『沈黙』の舞台である外海の潜伏キリシタン関連教会を巡ってきました。

今回も外海ボランティアガイド協会の松川隆治会長にご案内いただき、黒崎教会、出津教会、大野教会と巡り、この地に伝わるバスチャン信仰についても解説していただきました。

バスチャンとは外海地区で活動した伝道師で、黒崎教会の資料館にはその「バスチャンの日繰り」と呼ばれる教会暦が展示されており、これは「御帳」と呼ばれる組織のリーダーが管理した教会暦のことです。

もとはフランシスコ・ザビエルが1550年の教会暦を鹿児島の信徒に与えたもので、バスチャンの「日繰り」もこれにならって1634年の教会暦(グレゴリオ暦)を当時の太陰暦に改編したものと言われています。

外海の世界遺産はド・ロ神父からの贈り物

『沈黙』の舞台である外海を旅して、私は、信じること、守ること、伝えること、そして愛することという人間が生きていく上で大切なことを学んだ気がします。

特に「外海の太陽」として今日まで語り継がれているド・ロ神父の献身的な功績には感動します。

おぼつかない日本語については、神父の良きパートナーであった黒崎村出身の伝道師中村金蔵がサポートし、外海の人々に生きる力を与え、自立することを教えたド・ロ神父の強さと真の愛情はこれからも永遠に語り継がれことと思います。

世界に誇る五島の潜伏キリシタン教会群

今回の世界遺産では旧五輪、江上、頭ケ島、青砂ケ浦教会堂といった建物ではなく、集落や集落跡が登録対象となっていますが、これらの教会堂は長い潜伏期間を乗り越え、どんなに過酷な迫害に遭っても、決してその信仰を捨てなかった信者たちが渇望した「神の家」です。

厳しい生活の中から少しづつ資金を捻出し、自分たちの生活よりも神の家を建てることを優先した信徒たち。

私はつつましく、まじめに生きた五島の潜伏キリシタンから、決して諦めないサバイバル精神を学んだ気がします。

ユーミンの歌で有名な長崎県五島の奈留島と野茂投手

私は兵庫県立鳴尾高等学校、通称「鳴高」の出身で、五島の奈留島を訪れた際、同じ発音の「奈留高」生に親近感を覚え、その奈留高生にお願いして有名な奈留高生の愛唱歌、すなわちユーミン(松任谷由実)の『瞳を閉じて』を歌ってもらいました。

この曲はまだ、分校だった奈留高の一人の女生徒が、ユーミンがDJをつとめる深夜のラジオ番組『オールナイトニッポン』に「分校には校歌がないので作って欲しい」と書き送った結果、ユーミンから贈られた曲です。

1988年には同高卒業生の寄付でユーミン直筆の歌詞を刻んだ歌碑が校内に建立され、除幕式にはユーミン本人も訪れました。

日本で最後に沈む五島の夕陽と空海の足跡

長崎県の五島は今話題の世界遺産だけでなく、「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋」というストーリーで日本遺産にも認定されています。

これらの島に残る史跡や文化財で構成される物語は、朝鮮半島や中国大陸との交流や交易によって作られた「国境の島」特有の文化が伝わり、特に五島では奈良・平安時代に大海原へ漕ぎだした遣唐使たちに想いを馳せることができます。

関西の新名所「宝塚北SA」と手塚治虫

先日、今話題の兵庫県宝塚市にある新名神高速道路の「宝塚北サービスエリア」に行ってきました。

この施設は宝塚市の「花のみち」周辺の南欧風景観をイメージした建物とパティオ、そしてお洒落なお店に加えて宝塚ならではの宝塚歌劇OGによるイベントが定期的に行われていることが特徴です。

また、メイントイレは高級会員制ゴルフ倶楽部のロッカールームを思わせるほど素晴らしく、ぜひとも利用してみて下さい。

しかし、私にとって最も興味深かったのは、宝塚が生んだ偉大な漫画家、手塚治虫の特設コーナーがあって、サファイア姫(王子)像や鉄腕アトムのトピアリーが設置されていることです。

マサイ族の子供とアフリカの動物

私は動物が大好きで、以前は毎年アフリカのマサイマラセレンゲティ国立公園ンゴロンゴロ自然保護区に行き、心の洗濯をしていましたが、今も当時の動画を見ながら気分転換をはかっています。

特に「セレンゲティ国立公園」では、アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロ山の裾野に広がる広大なサバンナでサファリを満喫することができ、地平線に動物の群れを眺めながら夕陽鑑賞というぜいたくな時間を過ごすこともできます。

都会の生活に疲れて、いろいろな悩みをかかえている方にはアフリカの国立公園がお勧めです。自然に対して謙虚になれると同時に価値観も変わり、感謝の気持ちと新しいマインドセットが生まれます

美しいペリト・モレノ氷河とLos Notros Hotel

「地球に優しい」という標語がありますが、私はむしろ人類はこれまで「地球に優しくされてきた」のではないかと思っています。

その氷河崩落の場所は、南米のアルゼンチンにある、その名も「氷河」を意味するロス・グラシアレス国立公園です。

氷河はその広がりによって氷床(大陸氷河)山岳氷河に分けられますが、ロス・グラシアレス国立公園の氷河は南極やグリーンランドの氷床とは異なる山岳氷河です。

そしてこの山岳氷河の地域では、真冬でもさほど気温が下がらないので、氷河は溶けては凍る再氷結を繰り返しながら、速い速度で移動しているのが特徴です。

中でもアルヘンティーノ湖に流れ込むペリト・モレノ氷河は、中央部で1日に約2mも移動するので「生きている氷河」と呼ばれ、気温が上がる夏には、ビルほどの高さの氷河が大きな轟音とともに一気に崩落するシーンが見られるのです。

奄美の景勝地「あやまる岬」と奄美を愛した田中一村

田中一村は明治41(1908)年、栃木県に生まれ、今年は生誕110周年ということで佐川美術館において「生誕110年特別企画展」が開催されています。

また、箱根の岡田美術館でも「奄美を愛した孤高の画家」田中一村特別展が開催されており、8月24日から1か月間、田中一村の最高傑作と名高い『アダンの海辺』(個人蔵)が特別公開されます。

田中一村は、昭和33年50歳で奄美大島に移住し、紬工場で染色工として働きながら、奄美大島の自然を描き続け、独自の世界を作り上げた孤高の画家です。

奄美大島の自然をこよなく愛し、大島に生息する亜熱帯植物や鳥を鋭い観察で力強くも繊細な花鳥画に描き、南を目指したことから「日本のゴーギャン」とも呼ばれています。

日本人の心の故里、中山道の追分と宿場町

私は数ある街道の中でも中山道が大好きで、暑い日には陣中見舞いを兼ね、お客様を案内されている講師の先生を励ますという名目で、軽井沢の先にある追分宿や木曽路の贄川(にえかわ)宿等で待機し、お客様や先生に冷たい麦茶やスイカを提供していました。

追分とは宿場町の名前でもありますが、信越本線の信濃追分駅に近い「分去(わかさ)れ追分」は地名ではなく場所としての追分で、中山道と北國街道との分岐点です。

実は中山道は江戸時代に初めて制定された街道ではなく、その前身を「東山道」と呼ぶ古代から西国と東国を結ぶ重要な官道で、追分に立つ「道しるべ石」には「さらしなは右、みよしのは左にて、月と花とを追分の宿」と有名な歌が彫られています。

本州最西端の万葉故地「毘沙ノ鼻」

私は学生時代に「犬養節」で知られる犬養孝先生の講座を聞いて、万葉集に関心を抱くようになったのですが、万葉集の歌は「心の音楽」だと思います。

しかし、関西圏以外の万葉故地は、今、訪れるとなると結構不便なところが多いのですが、感動的な歌は案外、僻地で詠まれているのです。

その代表が本州最西端にあたる「毘沙ノ鼻」です。ここは山口県西部の海岸にあり、沖には蓋井(ふたおい)島が浮かんでいますが、あとは遮るものはなく、どこまでも大海原が広がる最果ての地です。
その「本州最西端の地」の記念碑の横には

『長門なる 沖つ借島 奥まへて 吾が思ふ君は 千歳にもがも』

の万葉歌碑が立っています。この歌は天平10(738)年、この地を治めていた長門守の巨曽倍対馬(こそべのつしま) が都で催された橘諸兄(たちばなのもろえ) に詠んだ歌です。

豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号とカジノ

最近ではダイヤモンド・プリンセス号のチャーター企画で船内講座を担当し、昨年まで毎年乗船していましたが、今年はその企画はありません。
しかし、来年の10月にはまた台湾に向けて同船のチャータークルーズ企画があり、私はまたセミナー講師として乗船する予定です。

そして今週末にその船内クルーズの魅力を語る講座を設けることになりましたので、この機会に未公開の写真を披露することにしました。

それは、今では保安上、一般客が立ち入ることのできない、船橋と呼ばれる操舵室ブリッジでキャップテン自らが操縦している写真です。

「げに一刻も千金」のヘリコプタークルージング

エクセル航空のヘリコプターによる「東京ナイトクルージング」を満喫してきました。

台風が接近しつつある状況で運行が危ぶまれましたが、幸い風もなければ雲もなく、美しい夕焼けを鑑賞した後、浦安ヘリポートより約15分間、極上の時間を体験することができました。

私は世界各地を巡って多くの人を見てきましたが、「日本人は分単位で時間を節約しながら仕事をして、年単位で時間を損している」ように感じます。

すなわち、毎日一生懸命働いていても、1年を振り返ると鮮明な想い出が少ないのではないか、ということです。
今日も通常ならば、仕事をしている時間ですが、そのわずか15分を利用して大都会東京の夜景を鑑賞すると、一生忘れることのできない想い出となります。

日本刀と日本を代表する現代の刀匠、藤安将平氏

平成芭蕉は現代の刀匠藤安将平氏に、日本刀についてのお話をお伺いするべく、福島県の鍛錬所「将平鍛刀場」を訪ねました。

藤安刀匠は人間国宝・宮入行平刀匠のもとに弟子入りして修行されました。

正確に言えば、師匠となる宮入刀匠の奥さんの「家事」手伝いをしながら刀鍛冶の技術を伝授されたそうです。すなわち、師匠の奥さんに支援されて今日があるとのことです。

現在、国宝として指定を受けている名刀は約120点ばかりあり、それらは平安末期から鎌倉、南北朝時代にかけて作られたものです。
そこで藤安刀匠は「古名刀とまではいかなくとも、古刀のような条件を備えた刀を作りたい」と鍛錬されてこられました。

倉敷・備前「日本遺産を訪ねて」

岡山県では平成27年度の旧閑谷学校「近世日本の教育遺産群~学ぶ心・礼節の本源~」に引き続き、平成29年には

備前市の「きっと恋する六古窯~日本生まれ日本育ちのやきもの産地~」

倉敷市の「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」

という2つのストーリーが文化庁の日本遺産に登録されました。

六古窯とは日本古来の陶磁器窯のうち、現在まで生産が続けられている代表的な6つの窯(備前、瀬戸、越前、常滑、信楽、丹波)の総称で、日本の技術、伝統を古くから継承している日本独自の焼き物で、備前焼もその一つです。

また、倉敷の日本遺産は県内で初めて単一の自治体で完結する「繊維のまち」のストーリーです。

さらに、岡山県では平成30年に岡山市、倉敷市、総社市、赤磐市が申請した「『桃太郎伝説』の生まれたまち おかやま ~古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語~」も日本遺産に認定されました。

「四ケ村の棚田」と肘折温泉郷の砂防堰堤(ダム)

日本棚田百選のひとつ「四ケ村の棚田」は、霊峰月山葉山の懐に抱かれ、それらの山々を源とする銅山川と赤松川が村を貫き、山村としては珍しい広々とした台地が各所に広がっています。

また、近くには数度にわたる爆発を繰り返した、肘折火山のカルデラに位置する肘折温泉郷もあります。

そして、肘折温泉の南には大規模なブナ林が広がっていますが、今回は冬には行けなかった地蔵倉洞窟の散策コースを巡ってきました。

地蔵倉は、この肘折温泉を発見したと伝えられる豊後の国(大分県)から来た源翁が、地蔵菩薩に出会った場所です。

地蔵菩薩は、この崖から落ち、「肘を折って痛かったが、岩の間から湧き出る温泉で傷が治ったので、このお湯のことを皆に知らせて欲しい」と源翁に語ったのです。
そこで、源翁はその洞窟を「地蔵倉」、温泉を「肘折温泉」と名付けて、守り続けたと言われています。

立谷沢川の『黙而雄』と「疎水百選」の北楯大堰

立谷沢川上流は、地質がもろく、大規模な土砂崩壊が発生していたので、今日では龍神・水神様を参拝する代わりに六淵ダムや瀬場ダムのような砂防堰堤が地元民の家や命を守っており、『現代の龍神石碑』ということで壁面に龍が描かれています。

私は国土交通省の新庄河川事務所の方から、この立谷沢川流域の歴史や史跡、そして砂防事業との関わり等について詳しい説明を受けました。

その中で瀬場堰堤工事に尽力された当時の工務課長、倉上靖氏の『黙而雄(もくしてゆう)』という言葉を刻んだ石碑が印象に残りました。

最近の異常気象で洪水や土砂災害がニュースで報じられるケースが増えてきましたが、この『黙而雄』の碑は長きにわたる「土砂災害との闘いの歴史」を風化させずに後世に伝え、さらには地域の魅力再発見にもつながるモニュメントかと思います。

バオバブが群生する不思議な島「マダガスカル」

マダガスカル島は日本の約1.6倍で、グリーンランド、ニューギニア、カリマンタンに次ぐ世界で4番目に大きい島で、1億年以上も昔にアフリカ大陸と分離したと考えられ、島に棲息する動植物の3分の2が固有種です。

植物ではサン・テグジュペリの「星の王子さま」に登場するバオバブ、動物では横っ飛びが特徴的なシファカキツネザルが有名です。

そのバオバブは植物分類学上では「木」ではなく「草」ですが、樹齢は500年以上と言われ、死者の魂が戻る場所と考えられているためか生命力を感じます。

私はマダガスカルを訪れた際には、「モロンダバのバオバブ並木」はもちろんですが、「ベレンティの森」にも宿泊し、ベローシファカの横っ跳びやワオキツネザルの動きをじっくりと観察していました。

青の都サマルカンドとウルゲンチの仲間たち

ウズベキスタンで出会った女子学生にウルゲンチを案内してもたった際には、初めて訪れたにもかかわらず、すでに来たことがあるような既視感(デジャヴ)に遭遇しました。

私はアジアを旅行していると時々このデジャヴュに遭遇します。

静かで不思議な感動を伝える信仰や土着民族の風習、懐かしいと感じる風景など、五感に新鮮な驚きが溢れ、肌ににじんだ汗が地元の空気に馴染む頃、このデジャヴュがやってくるのです。

ウズベキスタンの古都サマルカンドはサンスクリット語のSamaryaに由来し、「人々が出会う場所」という意味がありますが、まさにこの国は人種のるつぼです。

日本人そっくりの蒙古系から先住民族のソグド系民族にいたるまで、様々に着飾った民族が一堂に会する光景は飽きることがありません。

奥飛騨温泉郷福地温泉「湯元長座」での至上のひととき

今日は甲州街道を経由して奥飛騨の福地温泉「湯本長座」にやって来ました。

この宿は昔ながらの飛騨造りによる古民家を移築しており、木の香り、囲炉裏のぬくもりなど、懐かしいい日本の情緒を味わえるお薦めの温泉宿です。

玄関から続く廊下にも趣があって、重厚な柱や梁、そして柔らかく差し込む光が都会の喧騒を忘れさせてくれます。

お風呂も豊富な源泉を使った趣のある露天風呂や家族風呂もあって、心身ともにくつろげます。

また、食事も囲炉裏端の部屋で、飛騨牛をはじめ、奥飛騨の山の幸にこだわった「ごっつを」を堪能することができます。

飛騨に伝わる口碑と位山の「天の岩戸」伝説

「飛騨の口碑」によると、この飛騨王朝第15代淡上方(あわのうわかた)様が、飛騨の地がしだいに寒冷化してきたため、都を淡山の麓から雪の少ない宮村(現高山市一之宮町付近)に移し、その近くにそびえる位山を祭祀場として、位山の山頂から淡山を遥拝したと言われているからで。

そして偉大なる神通力者であった淡上方様は、宮村で崩御された後、位山の大岩の横に埋葬され、以後、皇統一族は亡くなると位山の巨岩「天の岩戸」のそばに埋葬されるようになったと言われています。

そのため、皇統命(スメラミコト)が新たに即位するときには、歴代の先祖が眠るこの位山のイチイの木の板(位板)が辞令として謹製されるようになったと飛騨の一宮である水無(みなし)神社にも伝わっています。

松阪商人の活躍と伊勢街道

私が『価値ある旅行のゴールデンルール』というテーマで講演させていただく際には「魅力ある街にはシンボルとなる建造物があり、主要な街道が通っています」と説明しています。

私は来る8月20日に三重県松阪市で「旅行会社が地域に望むこと」というタイトルで講演させていただく予定ですが、この松阪市こそ実は価値ある旅行のゴールデンルール上からも魅力ある街の筆頭なのです。

今年はその松阪出身の北海道命名者、松浦武四郎が生誕200周年を迎えるということもあり、私はこの機会に松阪の魅力を一人でも多くの人に知っていただきたいと思っています。

松阪と言えばまずは松阪牛、そして蒲生氏郷の美意識の高さを感じさせてくれる松阪城、さらには「松阪の一夜」で有名な本居宣長を連想しますが、忘れてはならないのは三井家、長谷川家、小津家で代表される松阪商人の存在です。

ディオクレティアヌス宮殿跡に誕生した港町スプリット

20世紀の歴史学者アーノルド・トインビー博士「人間とは歴史に学ばない生き物である」と名言を残していますが、このスプリットの街を見れば本当にこの言葉が実感されます。

すなわち、古代ローマの時代には上下水道も完備し、ディオクレティアヌス邸も現代に通用する立派な建造物だったと思われます。

しかし、この地に来たゲルマン民族やヴェネツィア人は、街の歴史を無視し、古代ローマ人の造った施設の意味も理解せずに自分勝手な破壊活動を行った結果、ローマ時代には下水道も完備して清潔だった街にペストが流行したり、余計な争いが増える原因を作ったのです。

因みに下水道設備は壊されましたが、上水道は古代ローマ時代のものが現在でも利用されています。

クロアチアの旅を通じて私は、日本においても古代ローマ同様に古代の人の作った遺跡は、今一度その意味を精査すべきだと思いました。

クロアチアの古都トロギールのLiberty精神

スプリットから海岸道路を西へ約25km走った場所に、世界遺産にも登録された美しい中世の面影を残す古都トロギールがあり、私はこの小さな町の象徴である聖ロヴロ大聖堂の門のレリーフを正確に読み解く目的で再度この地を訪ねました。

トロギールは紀元前2~3世紀にギリシャ人が建設した殖民都市で、そのギリシャ人が「トラグリオン」と名づけたのが町の起源ですが、実際はクロアチアの先住民イリュリア人が独自の文化を育んでいたと言われています。

トロギールはその後ローマ人に引き継がれ、ローマ軍が去った後はラテン人の町として発展し、7世紀にトロギールとスプリットの間にあるローマ人の町サロナがスラヴ人に攻撃された際、町はサロナからの避難民を受け入れてさらに拡大したのです。

しかし、トロギールはダルマチア文化の中心地としてLiberty精神を大切にし、「異民族支配からの自由」より、Libertyという「信仰への自由」を求め、その象徴が聖ロヴロ大聖堂です。

平和な日本ではあまり意識しないことですが、生きる上においては「何らかの束縛からの自由より、自分の信念に従って積極的に行動せよ」ということでしょうか。

このトロギール市民のLiberty精神こそが真の世界遺産だと感じました。

ドゥブロヴニクの隠れた魅力

イギリスの劇作家、バーナード・ショー「この世の天国を見たければ、ドゥブロブニクに行かれよ」という言葉を残しており、今回の私の最終目的地もこの「アドリア海の真珠」と呼ばれたドゥブロヴニクでした。

ドゥブロヴニクとはスラヴ語の名称で、ラテン語ではラグーサと言い、ナポレオン侵攻まではラグーサ共和国と呼ばれる海洋都市国家でした。イタリアのヴェネツィアと同様に地中海貿易で栄え、ハンガリー、オスマン・トルコと次々に宗主国が変わる中、巧みな外交術と堅牢な城塞によって都市国家としての自由と自治を守り続けたのです。

紺碧の海と空を背景に、茜色の屋根瓦を載せた象牙色の家々がびっしりと軒を連ねる旧市街には頑強な城壁がぐるりと取り囲んでいます。

ロープウェイでスルジ山に登り、展望台から見た城塞都市ドゥブロヴニクは、真っ青なアドリア海に向かって挑むように張り出し、溢れる陽光に輝いており、まさしく「アドリア海の真珠」という表現がふさわしい街です。

旧市街入り口のピレ門に近いロヴリィエナッツ要塞の砦には、ラテン語で「どんな黄金との引き換えであっても、自由を売り渡してはならない」と書かれています。軍隊もろくに持たない小国ながら、自由を得るためには敵に黄金を差し出すことさえいとわなかったドゥヴロヴニク市民の強い意志が伝わってきます。

森羅万象に神々が宿るパワースポット壱岐島

長崎県の壱岐島は、古事記の国生み神話で大八島と言われる日本の国土を生んだ伊邪那岐神・伊邪那美神が5番目に造った島とされ、そこに光の柱が降臨したのでまたの名を「天比登都柱(アメヒトツバシラ)」とも呼ばれています。

神道においては「柱」は神様が宿るものとして信仰され、天地を結ぶ交通路とも考えられているので、古代の世界観では「壱岐からは天上の世界へいくことができる」という観念があったと推測されます。

そして私の干支にも関連する猿田彦命を祀る男嶽(おんだけ)神社は、その「天比登都柱」が降臨した場所と伝えられ、拝殿裏にあるご神体の岩は男嶽大明神のパワースポットとしても注目されています。

今回は吉野理(ただし)宮司に境内をご案内いただきましたが、奉納された多くの石猿や鬱蒼とした参道にはパワーを感じました。

嬬恋村鎌原の歴史と浅間山の天明大噴火

ダイヤモンド浅間を撮影する国土交通省管轄の片蓋川第二砂防堰堤の近くには、溶岩の芸術と呼ばれる「鬼押出し園」がありますが、この溶岩は天明3(1783)年8月5日(旧暦では7月8日)に起きた浅間山噴火の際、最後に流出した溶岩流が固まったものです。

今年に入って草津白根火山の噴火がニュースになりましたが、キャベツ畑の「愛妻の丘」で有名な嬬恋村の鎌原(かんばら)にある嬬恋郷土資料館には、当時の浅間山噴火に起因する「土石なだれ」によって埋没した鎌原村からの発掘品や噴火当時の絵図が展示されています。

今回のダイヤモンド浅間撮影場所となる砂防堰堤は、このような「土石なだれ」や火砕流から住民の生活を守るために建設されており、八ッ場ダムのような建造物は話題になってもこのような砂防堰堤は知る人ぞ知る防災設備なのかもしれません。

私は11月10日(土)に嬬恋会館ホールにて、「吾妻川上流域の防災・減災と活力のある地域づくりを考える会」実行委員会が主催する講演会で『地域の魅力を活力につなぐ』をテーマに講演をさせていただく予定ですが、奇跡的な復興をとげた鎌原地域については是非とも多くの人に知っていただきたいと考えています。

安来節と尼子氏の山城で有名な「はがねの町」安来

第25回山城サミット安来大会の主役である月山富田城は、戦国大名の尼子氏が拠点とした山城ですが、山陰地方の鉄生産の中心地であった奥出雲地域を支配下においたことから、「鉄づくり千年が生んだ物語」の一つとして日本遺産の構成文化財となっています。

現在では当時の建築物は残っていませんが、登山道の整備はなされており、山中御殿から七曲りを経て本丸まで登ると、眼下には鉄の流通路であった安来平野から島根半島を見渡すことができます。

しかし、私の関心は私の姓と同じ安来市広瀬町にある黒田の奥非田(比田)の森の桂の木に降り立たれたと伝わる、たたらの神「金屋子神」でした。かつて西宮青年会議所のメンバーであった際、おなじ兵庫県内の宍粟市千種町も金屋子神ゆかりの地であると聞いていたからです。

たたらの女神「金屋子神」を祀る金屋子神社の総本社を参拝した私は、境内の参道や黒田川に製鉄の副産物を発見し、良質の砂鉄と豊富な森林資源、そして黒田川の清らかな水という製鉄に必要な条件がそろっていたことも理解できました。

近くにある金屋子神話民俗館の展示資料によると、金屋子神は高天原から最初に天降下った場所が播磨国志相郡(兵庫県宍粟市)で、その後、「私は西方を司どる神である」と言って白鷺に乗り、この出雲国の黒田に来たと解説してありました。しかし、一説には、途中、備中国吉備の中山を経由したとも言われています。

安来の平和を発信する加納美術館と清水寺の精進料理

安来の美術館と言えば、足立美術館が有名ですが、平和を願い続けた加納莞蕾(辰夫)氏の思いを伝える展示で知られる加納美術館もお勧めです。

私は氏の娘さんで名誉館長の加納佳世子さんに館内を案内していただきましたが、私の好きな「奥の細道句抄絵」の作者小野竹喬さんの作品も展示されており、また、備前焼や名碗の展示も充実していて、茶室「如水庵」ではその名碗を手に取って愉しむこともできます。

しかし、この美術館の第一の魅力は、終戦後、フィリピン刑務所に収容されていた日本兵戦犯108名の釈放助命嘆願書キリノ大統領に送り、目的を達成させた従軍画家加納莞蕾氏の魂が宿っているところです。

キリノ大統領に宛てた嘆願書の中の

「許し難きを許す」という奇跡によってのみ人類に恒久の平和をもたらし、「目には目を」ということでは決して達成し得ないということを、これまで以上に強く感ずる次第であります。』

という加納莞蕾氏の言葉が、フィリピンのキリノ大統領に日本人戦犯の釈放減刑通告を促したのです。すなわち、この美術館は世界に平和をアピールする拠点でもあるのです。

乃木神社の管絃祭と正松神社

乃木神社境内に鎮座する正松神社は学問の神様で、乃木将軍が敬愛した吉田松陰を祀る神社です。

乃木将軍は師である玉木文之進より、吉田松陰直筆の「士気七則」を贈られて、その教えを大切に守っていたと言われていますが、その中に

「一つ、日本に生まれたのであれば、まず日本の偉大なるところをしるべきである」

との教えがあります。

その日本人の偉大なるところは、今日、乃木神社に奉納された雅楽や舞楽の深淵なる宇宙観を感じ、自然と調和する能力だと思います。

日向薬師と大友皇子開基の石雲寺

日向薬師は正式名を日向山霊山寺と呼び、716年に行基菩薩が開創した古刹です。

最盛期には13防あったそうですが、明治の廃仏毀釈で破壊され、今は宝城坊のみが残り、これが日向薬師宝城坊、通称「日向薬師」として知られています。

境内には天然記念物の二本杉の隣に南北朝時代の梵鐘がありますが、鐘楼は4隅に3本ずつの柱があって、12神将を表すという珍しいものです。

本尊は鉈(なた)彫りで有名な薬師三尊像で、これは厨子の中にあって見ることはできませんでしたが、他にも薬師如来坐像阿弥陀如来坐像四天王立像十二神将立像など日向薬師の重要文化財は数多くあって見ごたえがあります。

由緒ある神社仏閣が残る伊勢原比々多地区

聖峰不動尊は初日の出を拝むパワースポットで知る人ぞ知る穴場ですが、九十九曲でなく、女坂を登るのもなかなか大変で、山城の視察に来ているように感じました。

しかし、標高375mの頂からの眺めは素晴らしく、不動明王を祀った祠堂もあって、案内板によれば、平安時代に紀州の僧・子の聖が修行の場として建立したと書いてあり、歴史のある場所でもあります。

聖峰不動尊にお参りした後は、三之宮比々多神社に参拝し、禰宜の永井さんには丘の上にある元宮にもご一緒していただきました。

比々多神社は平安時代の延喜式の記録に残る古社で、霊山大山をご神体に仰ぎ、はるか縄文時代の昔からパワースポットでした。その証拠に境内からは縄文時代の土器や古墳時代の勾玉などが出土しており、元宮に向かう境内に流れる空気には癒しの力を感じました。

第35代五島家当主が所有する福江城と五島氏庭園

福江城の五島氏庭園は、第30代の盛成が家督を譲った後、城郭内に隠殿屋敷を建て、その東側に京都の僧、全正に作らせた庭です。全正は金閣寺の丸池を模倣し、福江島のシンボルである鬼岳(おんだけ)の溶岩を多用しています。

なお、盛成は亀を好んでいたので、中島などの随所に亀に似た石を据えており、池は心の字を形どって「心字が池」と呼ばれています。

隠殿屋敷の玄関の間には、その「心字が池」庭園を設計した全正の辞世の句が書かれた屏風が立てられています。

盛成はこの邸宅完成後は、戒律を破って京都から逃れてきた全正を友とし、風月を愛したと言われていますが、邸宅から見る庭園には樹齢800年以上のクスノキや南方系の樹木も配されており、私は江戸時代にワープしたような感動を覚えました。

また、この隠殿は盛成というご隠居さんの住居ですが、亀の釘隠しや透かし欄干など、様々な趣向が取り入れられており、落ち着いた雰囲気の中にご隠居さんの茶目っ気を感じました。

五島は今、世界遺産登録によって教会が注目されていますが、この福江城(石田城)や見ごたえのある日本庭園「心字が池」も世界にアピールすべきだと思います。

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