日本遺産「今に生きる月見の名所」長野県千曲市 武水別神社と姨捨山
長野県上田市を東西に流れる千曲川は、新潟県および長野県を流れる清流で、長野県域では千曲川と呼びますが、新潟県域では信濃川と呼ばれています。
そして信濃川流域は縄文遺跡が多く、岡本太郎が「なんだ,コレは!」と叫んだ「火焔型土器と雪国の文化のストーリー」が日本遺産に認定されています。一方、千曲川は島崎藤村の「千曲川旅情の歌」、高野辰之の「故郷」や「朧月夜」、そして演歌歌手の五木ひろしが歌った名曲「千曲川」など、流域の郷愁を誘う風景が歌となり、令和2年には月の都の物語として日本遺産認定されました。
千曲市にある武水別神社は、千曲川の治水と善行寺平の五穀豊穣を祈念し、武水別神(たけみずわけのおおかみ)という水を司る神を祀っています。安和年間(968~970)に京都・石清水八幡宮より、八幡宮が勧請されて以来、一帯は本八幡村(ほんやわたむら)と称され、地元では「やわたの八幡(はちまん)さま」として親しまれている川中島地方随一の大社です。
川中島の善光寺平は別名、長野盆地と呼ばれ、さまざまな歴史の表舞台となった場所ですが、特に有名なのは、川中島の戦いです。5度にわたる武田信玄と上杉謙信の戦いの舞台は、現在、八幡原史跡公園として整備され、信玄・謙信の一騎打ちの像や首塚などがあります。
1553(天文22)年に川中島に出陣した上杉謙信は、八幡周辺で初めて武田軍と交戦し、村上義清らの所領を一時回復させ、同年9月にも再び武田勢を破っています。そして1557(弘治3)年と1564(永禄7)年には、武水別神社境内から冠着山(かむりきやま)に照る月を鑑賞し、川中島での戦勝を同社(更級郡八幡宮)に祈願したと言われています。
神社に隣接して戦国時代の館跡が残っていますが、これは代々八幡神領の管理を命じられていた神主の松田家の館で、現在は史跡に指定されています。明治時代の神仏分離による廃仏毀釈で神宮寺は消滅しましたが、一部、庫裡などの建物も今に残っています。
謙信が観た月が昇る冠着山は、姨捨山(おばすてやま)とも呼ばれ、いにしえより姨をこの山に捨てたという伝説が「大和物語」や「今昔物語集」などにも紹介されています。
平安時代の「姨捨伝説」によると、このあたりに住むひとりの男が年老いた母親を山に捨てたのですが、姥捨山の名月の澄んだ美しさに心が洗われて、母を連れ帰ったというのです。姨捨から臨む名月が、人の心を変えるほど「美しい月」で、清い月の光に心を改めて母を連れ戻したとされています。
この地では、さらに連れ帰って隠していた姨の知恵によって、殿様の出す難題を解決したことから、その後、年老いた親を大切にしたとも伝えられています。そのため、1961(昭和36)年、冠着山の麓の羽尾地区郷嶺山(ごうれいやま)に建立された姨捨孝子観音には、「親の大切さ」・「親が子を思う無償の愛情」がメッセージとして込められているのです。
姨捨四十八枚田の「田毎の月」と「日本鉄道三大車窓風景」で知られる姨捨駅
平安時代の頃から観月の名所として知られた姨捨ですが、江戸時代から明治にかけて開田が進むと、小さな棚田に映りこむ月影が一層注目されるようになり、歌川広重の浮世絵『信濃更科田毎鏡台山』にも描かれ、斜面に並ぶ不揃いな形の水田それぞれに月が移りゆくことを「田毎の月」と言い表すようになりました。
月をこよなく愛した松尾芭蕉も1688(貞享5)年の秋、「更科の里、姨捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて」と『更科紀行』に記し、名月を鑑賞するためにこの地を訪れています。
姨捨山の麓には芭蕉が訪ねた長楽寺という古寺と「田毎の月」で知られる名勝指定された姨捨棚田があり、眼下には千曲川の流れや善光寺平の広がりが展望できてとてもすばらしい眺めです。
長楽寺から下へ少し下ると、左に「四十八枚田」の看板がありますが、この名称は西行法師が阿弥陀の四十八願にちなんで名づけたと伝えられ、48枚に分けた棚田に水が張ると、その1枚1枚に月が映る美しい光景が広がり、「田毎の月」と呼ばれたのです。
棚田の間の小高い丘に休憩ができる「あずまや」がありますが、この「あずまや」から上に登り、JR篠ノ井線の踏切を渡ると、雰囲気のある木造の姨捨駅舎が現れます。姨捨駅は、急勾配のため支線になっていて、駅で止まった後にバックして本線に入るスイッチバック式の駅です。
姨捨駅から見下ろす眺望は、「日本鉄道三大車窓風景」として有名ですが、ホームからは、姨捨の棚田がつくる摩訶不思議な月景色が鑑賞でき、まさに名月鑑賞のための駅かと思います。
この千曲川を挟んで対岸に聳える鏡台山から昇る月は、とても美しく、『古今和歌集』には
「わが心慰めかねつ更級や 姨捨山に照る月を見て」
と詠まれ、平安時代から京の都の人たちのあこがれの対象でした。
名月鑑賞の地「姨捨」を全国に知らしめた芭蕉の『更科紀行』
この古代からの歌詠み人にとってのあこがれの地を全国に知らしめたのが、芭蕉の来訪とそれを文章に残した『更科紀行』でした。
長楽寺の月見堂下の門脇にはおもかげ塚(芭蕉翁面影塚)が立っており、
「俤(おもかげ)や 姨(おば)ひとり泣く 月の友」
と芭蕉の句が刻まれています。姨捨山に中秋の名月が東の空に光を放ち始めると、芭蕉は伊賀上野の故郷における「月待」の行事も思い出し、感慨深い気持ちになったことでしょう。芭蕉の心に、山に捨てられて一人泣いている老婆の面影が浮かび上がったのです。
いわゆる棄老伝説ですが、この句を詠んだ背景には、芭蕉が同郷の能楽大成者、世阿弥の謡曲「姨捨」に親しんでいた影響もあると思います。すなわち、世阿弥と芭蕉にとっては、この姨捨山での「中秋の名月観賞」が特別な意味を持っていたことがうかがえます。
芭蕉は謡曲「姨捨」の物語と5年前に母親を亡くしていることに想いを馳せ、「姨捨山」・「月」・「更級の里」についてのイメージを大きく膨らませた可能性があります。
また、「月待」とは文字通り月の出を待つことであり、月が出る前を忌みの時間として過ごす習わしで、月信仰を土台とした行事ですが、更科の里に来て、芭蕉は月待の間、亡き母のことを思い出していたのでしょう。
私には「姨ひとり泣く」が「姨ひとり亡(な)く」にもとれるのです。なぜなら、芭蕉の若い頃の俳号は「桃青」ですが、この「桃」は母が名張(隠なばり)の百(桃)地家の血を引くことから命名したもので、それだけ母親への思いが強かったのです。
芭蕉が姨捨山に着いたのは1688年8月15日、「三(み)よさの月」もしくは「三夜の月」とも言いますが、中秋の名月を初日にしてなんと三夜連続で月見を行っています。
私も芭蕉と同郷ですから、名月鑑賞は大好きですが、さすがに三日間も月見をする風流というか精神的ゆとりはありません。せいぜい「名月必ずしも満月ならず」と望(満月)、朔(新月)を問わず、月を意識するのが精いっぱいです。
そこで、芭蕉がこれほど月に夢中になれたもうひとつの理由は、深い「禅」の心得と、月を心の鏡とみなす仏教的な精神性を持ち合わせていたからだと思います。「禅」とは、精神を統一して真理を追究するという意味のサンスクリット語を音訳した「禅那」(ぜんな)の略で、坐禅修行をする禅宗をさす言葉です。
そして「禅」の心得を一言で言えば、「自分自身の存在の真実を探すために自らを律し、万物に感謝し、無駄を省き、生き方を見つめ直すこと」です。芭蕉は仏頂和尚からこの仏道・禅の手ほどきを受けていますが、そこから学んだものは「一所不住」であり、「捨てる」ことであり、「執着しない」ことだったのです。
そしてこの思想が「蕉風開眼」に繋がったのですが、私には三日間も月見ができる無我の境地こそが「かるみ」の神髄のように感じます。そして、芭蕉は放浪の子として母親に心配をかけたことから、「子が親を捨てなければ生きていけない」という伝説が迫真性を与え、名月を鑑賞する場所としては千曲市更科の姨捨山は最高の舞台と考えたのでしょう。
この月を消化した「更科紀行」という木曽路の旅は、翌年に迫った「おくのほそ道」へのリハーサルとして、芭蕉にとって大きな転機を与えた旅だったのです。私たちも芭蕉にならって古人の遊び心と日本人の美意識を表す「月見」をしながら、「親孝行の里」とも言える「さらしなの里」で、親子の絆や家族のありがたさを考えてみてはいかがでしょうか。
月の都 千曲 ~ 姨捨の棚田がつくる摩訶不思議な月景色「田毎の月」~
日本遺産ストーリー〔長野県:千曲市〕
日本人の美意識を表す「月見」。中でも、歴史的に文学や絵画の題材となってきた「更級さらしなの姨捨山おばすてやまに照る月」「田毎たごとの月」は、日本を代表する月見の名所です。
歌川広重は、すべての棚田に映る月影を一枚の浮世絵に表した摩訶不思議な「田毎の月」を描きました。また、姨捨は地名の響きから、棄老伝説きろうでんせつを語り伝えてきました。
それらは月見にちなむ文芸への遊び心を鼓舞する一方、棚田での耕作や伝統行事を通じて古老の知恵と地域の絆を大切にする教えを育んできました。
さあ、そんな「古来の月見」や、「月の都 千曲」が奏でる「新しい月見」にでかけましょう。
祝!日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産登録
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はみちのくを旅した芭蕉の研究本『松尾芭蕉の旅に学ぶ』と共に『縄文人からのメッセージ』というタイトルで縄文文化を語り、平成芭蕉の『令和の旅指南』シリーズ(Kindle電子本)として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。
★平成芭蕉ブックス
①『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
②『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
③『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
④『松尾芭蕉の旅に学ぶ 令和の旅指南Ⅲ』:芭蕉に学ぶテーマ旅 「奥の深い細道」の旅
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。
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