旧北陸本線 長浜〜敦賀〜今庄の「海を超えた鉄道遺産」
2021年2月、福井県敦賀市のニューサンピア敦賀において、長浜市・敦賀市・南越前町の2市1町にまたがる日本遺産「海を越えた鉄道〜世界へつながる鉄路のキセキ」のガイド養成講座が開催されました。
私はその席上で「日本遺産ストーリーの語り方」について講演させていただきましたが、私自身もこの鉄道遺産に関心があり、3月11日には観光ボランティアガイドつるがの増田会長の案内で構成資産を巡ってきました。
長浜鉄道スクエアから旧北陸本線に沿って中之郷駅跡、柳ヶ瀬トンネルを経由して小刀根トンネル、旧疋田駅跡、敦賀鉄道資料館、ランプ小屋、そして敦賀から今庄に至る樫曲トンネルをはじめとする旧北陸本線トンネル群と山中信号場を見学し、最後は越前屈指の宿場町として栄えた今庄宿の散策でした。
人類にとって偉大な進歩は、磨製石器の「道具革命」、蒸気機関の「動力革命」、電話の「通信革命」、そしてノイマン型コンピューターの「情報革命」によるとされていますが、日本の鉄道の夜明けは動力革命であった陸蒸気の汽笛によってもたらされました。
長浜鉄道スクエアから柳ヶ瀬トンネルへ
長浜鉄道スクエアに保存されている現存最古の駅舎に入ると、当時の出札の様子が再現されており、陸蒸気が運んだ文明開化の声が聞こえてくる感じがしました。
当時の日本では陸蒸気は「煙を吐く怪物」として敬遠されていましたが、長浜商人は鉄道の将来性を見込んで「駅」の誘致に取り組んだと言われています。この先見の明によって長浜は敦賀までの鉄道と大津への鉄道連絡船の駅として賑わい、鉄道のまちとして発展していったのです。
長浜〜敦賀間の鉄道建設は日本人だけの手によって進められ、明治15年、私の誕生日である3月10日に工事中の柳ヶ瀬トンネルを挟んで、長浜〜柳ヶ瀬間と柳ヶ瀬トンネル西口〜金ヶ崎間が開通しています。
柳ヶ瀬トンネルは明治13年に工事が始まりましたが、この土地は湧き水が多く、地盤が軟弱のため工事は難航し、完成までに4年の歳月を要して明治17年にようやく開通しました。そして、トンネル完成時には、当時の工部卿(建設大臣)伊東博文が「この鉄道が長く世のためになる事を頼む」という気持ちを込めて揮毫した「萬世永頼(ばんせいえいらい)」という石額がトンネル入り口に掲げられました。
しかし、柳ヶ瀬トンネルはレンガ造アーチ型の狭い構造で、列車を苦しめる25パーミル(水平距離1000mに対して25mの垂直距離)の勾配があったために、その急勾配は機関士を悩ませ、また機関車が吐き出す煙も問題でした。
実際、昭和3年には、上りの貨物列車が柳ヶ瀬トンネル内の25m手前で空転、停止してしまい、救出作業の間に煙を吸った乗務員や救護員が窒息死するという事故がおきています。その後、事故対策としてトンネル内には排煙装置が設けられ、列車の中にも集煙装置が設置されました。
そのため、柳ヶ瀬トンネルは「魔のトンネル」と恐れられもしましたが、難工事を経て、鉄道に様々な進化をもたらした物語は、私たちに多くの教訓を与えてくれています。
柳ヶ瀬トンネルから小刀根トンネル経由で敦賀港駅へ
柳ヶ瀬トンネルに近い「中之郷駅」は、滋賀県伊香郡余呉(よご)町にあり、敦賀市の「疋田(ひきだ)駅」同様、プラットホームの一部が残るのみですが、当時は急勾配の柳ケ瀬を越えるための補機(押し出す機関車)を付け替えるための転車台も備えた重要な駅でした。
そして、次に向かったのは、今回の視察のハイライトとも言える「日本最古の鉄道トンネル」小刀根トンネルです。
柳ヶ瀬トンネルは自動車専用のトンネルですが、今回の視察のハイライトとも言える「日本最古の鉄道トンネル」小刀根トンネルは、「トンネル歩き」が楽しめます。
私は旧街道歩きの下見の際、旧道のトンネルを歩く機会が多かったので、古びた「隧道(すいどう)」と呼ばれるトンネルに関心を抱くようになりました。これらの中には小刀根トンネルのような建築土木遺産もあれば、ひっそりと朽ちるのを待つような廃道に近いトンネルもあります。いずれも車や列車で通過するのではなく、一人で歩いて通行すると何とも言えない冒険心が生まれてくるのです。
幅が狭く、レンガ造りの暗いトンネルの中は、ヨーロッパの城塞の中を探検しているような雰囲気を感じるのです。つまり私にとって、旧道のトンネルは通過するだけの建造物ではないのです。
14年に貫通した総延長56mのこのトンネルは、レンガ造りの馬蹄型構造で、内部に一部岩盤の露出部分も残っていて、当時の建築技術を間近に感じることのできる貴重な鉄道遺産です。
同じ時代に作られたトンネルは複数ありますが、柳ヶ瀬トンネルや逢坂山トンネルも車道としての転用時に改修工事が施されており、当時と全く同じ姿ではありません。
しかし、この小刀根トンネルは、煙で黒くなったレンガなど、建設当時の姿を今に伝えており、有名な蒸気機関車D51「デゴイチ」の規格サイズも、このトンネルを通過できるかどうかが基準となったと言われています。
小刀根トンネルの見学後は疋田宿に立ち寄り、敦賀の日本海さかな街で昼食をとった後、「敦賀鉄道資料館」を訪ねました。
人道の港に建つ「敦賀鉄道資料館」には、そのD51の1号車の写真が展示されていますが、この高性能な機関車D51の1号(D511)、2号(D512)が敦賀の機関区に配備されたのも小刀根トンネルの存在が関係していたと思われます。
この敦賀鉄道資料館も平成21年の私の誕生日である3月10日に開館しており、建物の旧敦賀港驛舎はかつて金ヶ崎の鉄道桟橋にあった駅舎を模したものです。
そのため、旧敦賀港驛の鉄道遺産「ランプ小屋」も金ヶ崎の金前寺前に残っています。ランプ小屋とは、列車の灯火に使用されるカンテラの燃料を保管する油庫ですが、丁寧に積まれたレンガには郷愁を覚えます。
また、平成の芭蕉を自称する私にとっては、金前寺境内に建つ芭蕉さんの鐘塚「月いつこ鐘は沈るうみのそこ」も馴染みの記念碑でした。やはり敦賀は旅を住処とする者にとって、今も昔も魅力ある町かと思います。
敦賀市内の鉄道遺産には、他に列車が田園の水路を通過するためにかけられた「眼鏡橋」が残っており、これは強度を保つためのレンガ造りアーチ型の二つ構造で作られています。
敦賀・今庄間に残るレトロな「旧北陸トンネル群」
午後に訪れた「旧北陸トンネル群」とは、難所の木の芽峠を越えるために作られた鉄道隧道で、敦賀市から今庄にかけて、13のトンネルが築かれていました。廃線後は道路のトンネルに転用され、現在も10のトンネルが連続して残っていますが、活用されながら原型を残しているのはすごいことだと思いました。
敦賀から1番目の「樫曲(かしまがり)トンネル」は、現在は歩道となっているため、小刀根トンネル同様に歩いて通ることができ、レトロな雰囲気を楽しむことができます。
入り口で増田会長から説明がありましたが、このトンネルはレンガ造りで下部がイギリス積み、アーチ部分からは長手積みで組まれています。
スイッチバックのあった新保駅跡を過ぎると2番目の「葉原トンネル」(976m)ですが、このトンネルは下部は石造り、上部はレンガ造りとなっていました。
葉原トンネルには当時の総理大臣、黒田清隆が揮毫した石額が掲げられ、敦賀側入り口に「與国咸休(よこくかんきゅう)」(鉄道建設が盛んになるようにという意味)、杉津(すいず)側入り口に「永世無窮(えいせいむきゅう)」(鉄道がいつまでも永久に続くようにという意味)と記されていました。いずれの石額も現物は、長浜鉄道スクエアに展示されています。
そして現存3番目はトンネル群の中では最短の「鮒ケ谷(ふながや)トンネル」(64m)、現存4番目は「曽路地谷(そろじだに)トンネル」(401m)ですが、共に下部が石造り、上部はレンガ造りになっています。
豪雨により被害を受けた「河野谷(こうのだに)トンネル」跡を過ぎると、海水浴客が乗降した杉津(すいず)駅の跡地があり、これは現在の北陸高速道の杉津の上り線PA付近ですが、このあたりは夕日が美しく、「夕日100選」にも選ばれています。
続く現存5番目の「第一観音寺トンネル」(82m)と6番目の「第二観音寺トンネル」(310m)ですが、以前のトンネル名称は大小などで分けていましたが、観音寺トンネルでは第一、第二で呼び分けるようになり、トンネルの名称付与方法が変わったことを示しています。
現存7番目の「曲谷トンネル」(260m)は、「マツコの知らない世界」で“日本のバック・トゥ・ザ・フューチャー”と名付けられ、トンネル探求家の花田欣也さんが先のトンネルが2つ直線で見通せることから「トンネルinトンネルinトンネル」という珍しい写真スポットとして紹介されていましたが、私もとても印象に残りました。
現存8番目の「芦谷(あしだに)トンネル」(223m)の側面は全面が頑丈なイギリス積みで丁寧に作られており、現存9番目の「衣良谷(いらだに)トンネル」(467m)もレンガ造りですが、こちらは坑門の意匠部分に切石が用いられていました。
「山中ロックシェッド」と北陸の玄関口「今庄駅」
そして、最後の現存10番目の「山中トンネル」(1170m)は、山中峠の下を貫いており、敦賀側には、このトンネル建設工事の事故で犠牲となった方の慰霊碑が立てられていました。
そしてこのトンネルにも黒田清隆揮毫の石額が掲げられ、敦賀側入り口には「功加干時(こうかうじ)」(鉄道事業の完成は時代の要請に適している)、今庄側入り口には「得垂後裔(とくすいこうえい)」(鉄道を完成させた得は、子々孫々まで残る)と記され、こちらも共にオリジナルは長浜鉄道スクエアに展示されています。
そしてこの「山中トンネル」の今庄側には「 山中信号場 」スイッチバック、待避線と引込線跡地も残っていました。
当時1000t輸送と呼ばれていましたが、列車でたくさんの荷物を運ぶためには、車両をたくさんつなぐ必要があり、山中のスイッチバックの折り返しだけでは線路が短いために、折り返し目的で引込線や待避線に続く約50mの行き止まりトンネルも設けられたのです。
この元本線であった車道を今庄方面に進むと、落石などから電車を守るために設けられた貴重な遺構「山中ロックシェッド」が残っています。これは国内でも最初期のプレストコンクリート建造物であり、力学的特性を考慮したコンクリートの柱でしっかりとコンクリート製の屋根を支えています。山側にもロックシェッドが見えますが、こちらは、待避線用のロックシェッド跡です。
そして、山中ロックシェッドを越えてしばらく走るとこの線で活躍したD51の動輪モニュメントが設置された「大桐駅」跡が現れました。この駅はもともとスイッチバックの拠点としての信号所でしたが、地元民の要望で停車場となり、旅客駅として活躍しました。本線電化の近代化で、昭和37年に廃線となり、上り線のホーム跡だけが残されています。
そして、最終的に北国街道の宿場町にある現在の今庄駅に到着しました。現在の駅舎は2017年にリニューアルされたものですが、その際に併設された「今庄まちなみ情報館」では、今庄宿の歴史資料だけでなく、1955年ごろの今庄駅がジオラマで再現されており、鉄道ファンにとっては興味深い展示内容です。
この今庄駅も敦賀駅と同様に、補機の連結や燃料の補給などの役割を担った重要な駅で、停車時間を利用して誕生したのが弁当や飲み物などの販売をする「立ち売り」です。そして、ホームに開設された立ち食いそば「今庄そば」は、立ち食いの先がけで、昭和初期には全国的に知られる名物でした。
今回は今庄宿のガイドさんに昭和会館や明治天皇の行在所であった本陣跡なども案内していただきましたが、私は江戸時代の街道歩き旅から明治時代の鉄道の旅へと時代が移りゆく歴史を感じました。
木の芽峠などの険しい難所に鉄道を敷くためにいろんな工夫をこらし、トンネル掘って新たな鉄路を開いて日本の鉄道の歴史に偉大な足跡を残した北陸線の開発物語は、やはり頭で理解するだけでなく、現地を訪れて五感で感じていただきたいと思います。
日本遺産「海を越えた鉄道〜世界へつながる鉄路のキセキ」では、この物語を肌で感じて初めて先人への有り難さを感じることができるのです。
海を越えた鉄道 ~世界へつながる 鉄路のキセキ~
所在自治体〔福井県:南越前町、敦賀市 滋賀県:長浜市〕
ここに1枚の切符がある。今から約100年前に運行されていた欧亜国際連絡列車は、この切符で東京からベルリンまでの渡航が可能であった。シベリア鉄道の発着地であるウラジオストクと敦賀を結ぶ鉄道連絡船の就航により、鉄道は海を越え欧州へとつながった。
なぜ敦賀駅に国際列車が発着していたのか?それは、長浜市・敦賀市・南越前町の明治時代の鉄道の歴史と密接な関係がある。
物語は、トンネルで日本海と琵琶湖を繋いだことから始まる。
一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定
私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。
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