日本遺産シンポジウム基調講演 中世荘園「日根荘遺跡」を活かした観光都市
あわら温泉での「令和と万葉集特別講演」を終えた後は683系の特別急行列車「サンダーバード」で関西に戻り、週末は河内長野と泉佐野で日本遺産に関する講演をさせていただきました。
河内長野は「中世に出逢えるまち~千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫~」、泉佐野は「旅引付と二枚の絵図が伝えるまちー中世日根荘の風景ー」がテーマで、ともに中世のストーリーです。
河内長野での講演は日本遺産ガイドの心得が中心でしたが、泉佐野では市の日本遺産日根荘推進協議会が主催する「日本遺産認定記念シンポジウム」における基調講演でした。
河内長野の日本遺産ガイド講演
私は第二部の『中世荘園「日根荘遺跡」を活かした観光都市 泉佐野』を担当し、第一部は歴史研究家の多摩大学客員教授 河合敦先生が担当され、『世界一わかりやすい中世荘園「日根荘遺跡』と旅引付の世界』についてお話しいただきました。
河合先生はFacebookの友達で、私の投稿にも目を通していただいており、そのため、今回の講演でも話が重複することはありませんでした。
泉佐野市日本遺産ポスター
日根荘と黒田荘に共通する荘園運営の鍵は「団結力」
河合先生から今回の主題である日根荘についてわかり易いご説明があったので、私は同じ荘園でも公家ではなく、東大寺が領主を務めた私の出身地、黒田荘(くろだのしょう)を例に荘園の魅力を語ってみました。
荘園とは、端的に言えば私有地であり、領主がいても実質上は地元住民の自治体で、その組織を守るためには厳格なルールが存在しました。
特に黒田荘の伊賀国では、東大寺の支配下にありながら、地侍が独立勢力を持ち、家を守るためには情報網を持たねばならず、そこで情報収集術に優れた伊賀流忍者が生まれました。
すなわち、真の忍者とは、怪しまれずに生きた情報を集めるコミュミケーションの達人だったのです。
そして国主を持たずに一族で掟を決めて土地を守るという、中世における惣村の荘園運営には、「団結力」が何よりも重要とされました。
中世以来の荘園風景
そのため、「日根荘の魅力とは何か」と問われれば、私は中世から残る風景もさることながら、土地の人々にこの荘園特有の団結という「和」の文化が息づいていることだと思います。
実際、この日根荘の風景は黒田荘によく似ており、犬鳴山七宝瀧寺の滝は赤目四十八滝を、日根荘を流れる樫井川は黒田荘を流れる名張川を連想させ、荘園内の水利も日本の荘園におけるセオリー通りで、高い所から低い所に流れ落ちる水路を作り、上から順に田んぼに水を引き入れています。
さらに、東大寺二月堂の修二会(お水取り)行事に必要な松明木を納める名張の松明調進は、黒田荘近くの極楽寺が所有する松明山の檜が用いられるのですが、何とこの泉佐野にも極楽寺という同名の寺があり、私にとっては驚きです。
シンポジウムは午後からでしたので、午前中は九条政基が滞在中に綴った日記『政基公旅引付』の舞台にある大木地区の火走神社(ひばしりじんじゃ)と原始の森で修験道の霊場でもある犬鳴山七宝瀧寺にお参りしてきました。
日根荘入山田村の総社「火走神社」
九条政基は3年近くこの地に下向して滞在していたのですが、その日記には「旅」というタイトルがついており、私は都の貴族のプライドを感じました。
犬鳴山七宝瀧寺の「犬鳴」伝説と愛犬「泉三郎」の教え
犬鳴山七宝瀧寺の「犬鳴」とは、宇多天皇(889〜898)の寛平二年(890年)三月、紀伊の猟師が犬を連れて、この寺の行場で一匹の鹿を追っていた際の出来事に由来します。
葛城修験信仰を伝える七宝瀧寺
猟師の傍には大蛇がいて、猟師を狙っていましたが、猟師はそれに気づかず弓をつがえ、鹿に狙いを定めて射ようとしたそのとき、愛犬が吠えて鹿を逃がしてしまい、猟師は怒って腰の山刀で吠え続ける愛犬の首に切りつけました。犬は切られながらも大蛇めがけて 飛び上がり、大蛇の頭に噛みついて、猟師を助けて大蛇と共に倒れました。
七宝瀧寺の義犬伝説
事の次第を知った猟師は、自分の命を救ってくれた愛犬の骸をねんごろに葬り、弓を折って卒塔婆とし、その後七宝瀧寺に入って僧となり、永く愛犬の菩提を弔いつつ、安らかに余生を過ごしたという伝説です。
犬鳴山伝説の義犬塚
後にこの話を聞いた宇多天皇は「報恩の義犬よ」とこの義犬を称え、「一乗鈴杵ヶ岳」という名称を改めて「犬鳴山」と勅号を与えたのです。
私にも幼少の頃から約10年近く、「泉三郎」(通称「サリー」)という名の秋田犬がパートナーとして私をサポートしてくれていましたので、この義犬の話には深く感銘を受けます。
なぜなら、この私の愛犬「泉三郎」は、最後まで源義経を守り、勇義忠孝の士とされた奥州藤原氏の藤原秀衡三男、藤原忠衡(和泉三郎)からとった名前で、
「人よく道を勤め、義を守るべし、名もまたこれに従ふ」
和泉三郎が塩竃神社に寄進した神灯
という和泉三郎の生き様を私に教えるべく、亡父が命名し、私に買い与えた義犬だったからです。
私は今回の日本遺産シンポジウムを通じて、本格的なAIの時代を迎える今こそ、多くの人にこの「義」と「和」の団結という荘園文化が生きる泉佐野を訪ねていただきたいと思いました。
日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はこのたび『縄文人からのメッセージ』というタイトルで令和の旅を語り、Amazonの電子本として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。
★平成芭蕉ブックス
①『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
②『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
③『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
平成芭蕉ブックス『令和の旅指南』
★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
平成芭蕉の旅語録
平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。
「令和の旅」へ挑む平成芭蕉
*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照
関連
令和の「平成芭蕉」
令和の「平成芭蕉」
平成芭蕉の旅語録
平成芭蕉の旅語録〜泉佐野日本遺産シンポジウム 中世荘園「日根荘遺跡」
更新日:
日本遺産シンポジウム基調講演 中世荘園「日根荘遺跡」を活かした観光都市
あわら温泉での「令和と万葉集特別講演」を終えた後は683系の特別急行列車「サンダーバード」で関西に戻り、週末は河内長野と泉佐野で日本遺産に関する講演をさせていただきました。
河内長野は「中世に出逢えるまち~千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫~」、泉佐野は「旅引付と二枚の絵図が伝えるまちー中世日根荘の風景ー」がテーマで、ともに中世のストーリーです。
河内長野での講演は日本遺産ガイドの心得が中心でしたが、泉佐野では市の日本遺産日根荘推進協議会が主催する「日本遺産認定記念シンポジウム」における基調講演でした。
河内長野の日本遺産ガイド講演
私は第二部の『中世荘園「日根荘遺跡」を活かした観光都市 泉佐野』を担当し、第一部は歴史研究家の多摩大学客員教授 河合敦先生が担当され、『世界一わかりやすい中世荘園「日根荘遺跡』と旅引付の世界』についてお話しいただきました。
河合先生はFacebookの友達で、私の投稿にも目を通していただいており、そのため、今回の講演でも話が重複することはありませんでした。
泉佐野市日本遺産ポスター
日根荘と黒田荘に共通する荘園運営の鍵は「団結力」
河合先生から今回の主題である日根荘についてわかり易いご説明があったので、私は同じ荘園でも公家ではなく、東大寺が領主を務めた私の出身地、黒田荘(くろだのしょう)を例に荘園の魅力を語ってみました。
荘園とは、端的に言えば私有地であり、領主がいても実質上は地元住民の自治体で、その組織を守るためには厳格なルールが存在しました。
特に黒田荘の伊賀国では、東大寺の支配下にありながら、地侍が独立勢力を持ち、家を守るためには情報網を持たねばならず、そこで情報収集術に優れた伊賀流忍者が生まれました。
すなわち、真の忍者とは、怪しまれずに生きた情報を集めるコミュミケーションの達人だったのです。
そして国主を持たずに一族で掟を決めて土地を守るという、中世における惣村の荘園運営には、「団結力」が何よりも重要とされました。
中世以来の荘園風景
そのため、「日根荘の魅力とは何か」と問われれば、私は中世から残る風景もさることながら、土地の人々にこの荘園特有の団結という「和」の文化が息づいていることだと思います。
実際、この日根荘の風景は黒田荘によく似ており、犬鳴山七宝瀧寺の滝は赤目四十八滝を、日根荘を流れる樫井川は黒田荘を流れる名張川を連想させ、荘園内の水利も日本の荘園におけるセオリー通りで、高い所から低い所に流れ落ちる水路を作り、上から順に田んぼに水を引き入れています。
さらに、東大寺二月堂の修二会(お水取り)行事に必要な松明木を納める名張の松明調進は、黒田荘近くの極楽寺が所有する松明山の檜が用いられるのですが、何とこの泉佐野にも極楽寺という同名の寺があり、私にとっては驚きです。
シンポジウムは午後からでしたので、午前中は九条政基が滞在中に綴った日記『政基公旅引付』の舞台にある大木地区の火走神社(ひばしりじんじゃ)と原始の森で修験道の霊場でもある犬鳴山七宝瀧寺にお参りしてきました。
日根荘入山田村の総社「火走神社」
九条政基は3年近くこの地に下向して滞在していたのですが、その日記には「旅」というタイトルがついており、私は都の貴族のプライドを感じました。
犬鳴山七宝瀧寺の「犬鳴」伝説と愛犬「泉三郎」の教え
犬鳴山七宝瀧寺の「犬鳴」とは、宇多天皇(889〜898)の寛平二年(890年)三月、紀伊の猟師が犬を連れて、この寺の行場で一匹の鹿を追っていた際の出来事に由来します。
葛城修験信仰を伝える七宝瀧寺
猟師の傍には大蛇がいて、猟師を狙っていましたが、猟師はそれに気づかず弓をつがえ、鹿に狙いを定めて射ようとしたそのとき、愛犬が吠えて鹿を逃がしてしまい、猟師は怒って腰の山刀で吠え続ける愛犬の首に切りつけました。犬は切られながらも大蛇めがけて 飛び上がり、大蛇の頭に噛みついて、猟師を助けて大蛇と共に倒れました。
七宝瀧寺の義犬伝説
事の次第を知った猟師は、自分の命を救ってくれた愛犬の骸をねんごろに葬り、弓を折って卒塔婆とし、その後七宝瀧寺に入って僧となり、永く愛犬の菩提を弔いつつ、安らかに余生を過ごしたという伝説です。
犬鳴山伝説の義犬塚
後にこの話を聞いた宇多天皇は「報恩の義犬よ」とこの義犬を称え、「一乗鈴杵ヶ岳」という名称を改めて「犬鳴山」と勅号を与えたのです。
私にも幼少の頃から約10年近く、「泉三郎」(通称「サリー」)という名の秋田犬がパートナーとして私をサポートしてくれていましたので、この義犬の話には深く感銘を受けます。
なぜなら、この私の愛犬「泉三郎」は、最後まで源義経を守り、勇義忠孝の士とされた奥州藤原氏の藤原秀衡三男、藤原忠衡(和泉三郎)からとった名前で、
「人よく道を勤め、義を守るべし、名もまたこれに従ふ」
和泉三郎が塩竃神社に寄進した神灯
という和泉三郎の生き様を私に教えるべく、亡父が命名し、私に買い与えた義犬だったからです。
私は今回の日本遺産シンポジウムを通じて、本格的なAIの時代を迎える今こそ、多くの人にこの「義」と「和」の団結という荘園文化が生きる泉佐野を訪ねていただきたいと思いました。
日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はこのたび『縄文人からのメッセージ』というタイトルで令和の旅を語り、Amazonの電子本として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。
★平成芭蕉ブックス
①『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
②『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
③『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
平成芭蕉ブックス『令和の旅指南』
★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
平成芭蕉の旅語録
平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。
「令和の旅」へ挑む平成芭蕉
*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照
関連
令和の「平成芭蕉」
令和の「平成芭蕉」
-平成芭蕉の旅語録