日本遺産の地を旅する~伊賀忍者の「黒田荘の悪党」と甲賀忍者
私は俳聖松尾芭蕉の生家の向かいの三重県伊賀市上野農人町に生まれ、隣町の名張(隠)市で幼少期を過ごしましたが、嬉しいことに、平成29年、私の生まれ故郷の伊賀市が甲賀市と共に申請した「忍びの里 伊賀・甲賀―リアル忍者を求めて」というストーリーが日本遺産に認定されました。
膳所藩士、寒川辰清(1697~1739)の『近江輿地志略』には、「伊賀甲賀と号し忍者という」と記されており、忍者と言えば伊賀と甲賀が代表ですが、「伊賀忍者」は現在の三重県伊賀市と名張(なばり隠)市に拠点があった忍者の流派で「甲賀忍者」は現在の滋賀県甲賀(こうか)市と湖南市に拠点があった忍者の流派です。
そして、私は名張市に点在した東大寺の荘園や杣(そま)を拠点とした、伊賀流忍者のルーツとも言われている「黒田荘の悪党」の血を引いていますので、今回の日本遺産ストーリーの「リアル忍者を求めて」というタイトルがとても気にいっています。
なぜなら、私の祖先は東大寺に反抗し、「悪党」(強者の意)と呼ばれるも、お互いに連携し、地域の平和を守り抜いた強者「リアル忍者」だったからです。
今日、「忍者Ninja」はメディアを通じて世界中の人々に知られていますが、その本当の姿はあまり知られていません。
しかし、17世紀にはイエズス会編纂の『日葡辞書』にXinobi(しのび)の記載があり、「戦争の際、状況を探るために、夜またはこっそりと隠れて城内によじ登ったり、陣営内に入ったりする間諜」として紹介されています。
なぜ伊賀と甲賀に忍者や忍術が生まれたか
そこで、私は伊賀衆の軍議が行われた平楽寺跡(上野城)や伊賀者の屋敷のあった忍町(しのびちょう)の赤井家住宅付近を散策しながら、私なりになぜこの地に忍者が生まれたかを考察し、その忍者の真の姿に迫ってみました。
上野城は筒井時代には大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、藤堂時代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立場をとった城で、城内には藤堂高虎の高さ約30mの石垣が残っています。
今日の天守台にある3層3階の天守閣は、昭和初期に地元の名士、川崎克氏が私財を投じて再建した純木造の模擬天守です。「攻防作戦の城は亡ふる時あるも、産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」との理念から伊賀文化産業城と命名されました。
平楽寺は現在の上野公園にあった寺院で、城の機能も兼ね備え、織田信長の侵攻時には伊賀衆が結集して軍議が行われた場で今も多くの五輪塔や石仏が残っています。
また、忍町は伊賀上野城の城下町である三筋町南一帯に広がる武家屋敷地で、江戸時代には藤堂藩の伊賀者屋敷があり、赤井家住宅は中之立町通りの西側に位置しています。赤井氏は丹波国黒井(現在の兵庫県丹波市)の城主でしたが、落ちぶれて京都に蟄居していた際、藤堂高虎に千石の禄高で召し抱えられて足軽大将に任じられ、この地に居を構えました。
寛永年間(1624~1644)の上野城下町絵図によると、丸之内の西にある鉄砲場に赤井悪右衛門、明治初期の絵図では現在と同じ忍町に肝煎目付役赤井餘三郎の名前が記されていいます。
なぜこの地に忍者が生まれたかと言えば、まず、都のあった京都・奈良に近く、軍事的要衝であったことが挙げられます。
次に特有の地理的環境で、この伊賀・甲賀の地域はどこも同じような里山風景が続き、ナビがない時代には道に迷い、方向感覚を失うことが度々でした。
しかし、旧東海道をはじめとする数多くの街道が京都や奈良、伊勢方面に続いており、情報が入りやすい地でもありました。
そして、300万年前の古琵琶湖層という複雑な地形から、守りやすく、攻め難かったため、大きな権力が生まれませんでした。
そこで小領主が地侍として「伊賀惣国一揆」、「甲賀郡中惣」といった自治組織を創り、地侍どうしが結束して「掟」を作成、諸事談合して物事を決定していました。
また、突出した権力がなかったので、特別に大きな城はなく、甲賀の和田城館群のように同じ大きさ、同じ形の城館が数多く建てられました。
この丘陵に囲まれた小領主の城館は、主に15世紀から16世紀に築城され、50m四方の土塁と堀で囲まれた方形単郭で、その数は伊賀、甲賀地域だけでも800ヵ所にものぼります。
また、この地に忍術が発生した理由としては、良材を産する東大寺の杣山や、飯道山・岩尾山・庚申山といった宗教的な霊山があり、さらに甲賀では天台密教の拠点であったことも影響し、薬学や卜占に通じた山伏がこれらの山々の行場で修練を積んで忍術が生まれたと考えられます。
ちなみに上野西日南町にある松本院は、忍者のイメージの一つとなった修験道の寺院として建立され、藤堂高虎が眼病を患った際、病気平癒の祈祷を命じたのは、この松本院の前身である地福院です。
松尾芭蕉の忍者説と伊賀流忍者
この松本院の近くには芭蕉さんが少年時代に仕えた藤堂新七郎家の良忠(蝉吟)が眠る山渓禅寺もあります。
この藤堂良忠(蝉吟)の影響で芭蕉さんは俳諧の世界に入ったのですが、芭蕉さんが忍者であったという説は、やはり芭蕉さんの母の出自からくるものです。
上野城の城代であった藤堂采女(うねめ)が家臣の川口竹人に命じて調査させた松尾芭蕉の公式の伝記『蕉翁全伝』によれば、芭蕉さんの母は伊予国宇和島に生まれ、伊賀国名張に来て、柘植の松尾家に嫁いだ百地家の娘であると伝えているのです。
すなわち、徳川家康の依頼で宇和島城の受け取りに出向いた藤堂良勝(藤堂高虎の従兄弟で初代新七郎家当主)が、1年余り単身で赴任していた伊予国宇和島城で夜伽(よとぎ)にあがった女がいて、そこで生まれて子が芭蕉さんの母であり、百地家の娘と言われているのです。
この百地家は私の祖先「黒田荘の悪党」を含む「伊賀惣国一揆」を指導し、織田信長に抵抗した百地丹波を輩出したことで知られています。
伊賀流忍者は共同体によって運営されており、意思決定はこの芭蕉さんの母の百地家、服部家、藤林家の「上忍三家」の意向が大きく反映されていました。
服部家は百地丹波(一説に百地三太夫と同一視)と並んで有名な服部半蔵を輩出した家系で、本能寺の変の後、堺にいた徳川家康はこの服部半蔵に守られて三河国(みかわのくに)に戻ったのです。
そしてこの功績により、伊賀忍者は徳川家に仕えていくことになりますが、柘植にある徳永寺(柘植善光寺)には「神君伊賀越え」の際に徳川家康が立ち寄ったとの伝承が残り、そのお礼として寺領が寄進され、葵紋の使用も許されました。
藤林家は忍術秘伝書『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』を著した藤林左武次保武や火術を得意とした藤林長門守(ふじばやしながとのかみ)を輩出しました。
『萬川集海』は「万の川を集めて海にする」という意味から、伊賀・甲賀の忍術諸流派を集大成した秘伝書で、忍者の心構えや天文学、火薬を使った武器などが詳しく紹介されています。
すなわち、忍術の使い方の精神を説いた「正心」、どのような忍者を使えばよいかといった大将の知恵「将知」、姿を現して忍術を使う「陽忍」、そして一般的な忍者のイメージである影で忍術を使う「陰忍」、これらに「天時」と「忍器」が加わって「忍術」が完成し、「忍道」となったと記されています。
藤林長門守は武田信玄の軍師であった山本勘助に忍術を教えたことで知られ、氏子として伊賀市東湯舟の「手力神社」に火筒や狼煙を奉納していますが、この手力神社は「湯船の手力さん」の愛称で崇敬され、手や力の神様、延壽の神様として霊験あらたかな神社です。
また、火術、火筒、狼煙(のろし)を得意とした藤林長門守一族の火薬の技術は、今日でも地域に継承されており、狼煙は奉納煙火(花火)と結びついて、毎年10月17日の秋季大祭では約250発の奉納花火が夜空をかざります。
境内には神明造りの本殿、神楽殿、参籠舎と二頭の狛犬、大鳥居が整然と建ち並び、拝殿の中央には祈りの鐘の緒が下がっています。この鐘の緒は、これまでの奉納者の願いが重なり、周囲4m、高さ3m、重さ2tと言われる大変めずらしいもので、お参りするとご祭神である「天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)」の健勝、心願成就のご神徳が得られます。
なお、この伊賀忍者の藤林一族の墓所は菩提寺の正覚寺にあり、中央の「本覚深誓信士」と刻まれた墓碑が初代・藤林長門守の墓石と言われています。
伊賀忍者の得意技の1つとして、敵に追われている時などに火薬玉を使って自身の姿を隠す火遁の術があげられますが、これはまさしく藤林長門守の発明だと考えられます。
また、伊賀忍者は両手で印を結んで精神統一を行う「九字護身法(くじごしんぼう)」などを用いたり、催眠術や手品を含む呪術なども得意でした。
九字護身法とは、「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の九字の呪文と九種類の印によって除災戦勝等を祈る作法で、道教では縦横法と称し、修験道等では俗に「九字を切る」と呼びます。
総じて、伊賀忍者は依頼があれば複数の大名に仕えましたが、依頼主と金銭以上の関係になることはなく、傭兵に似た立ち位置でした。
甲賀(こうか)忍者と「郡中惣」
伊賀忍者と甲賀忍者の違いを一言で言えば、甲賀忍者は一人の主君に仕えたのに対して、伊賀忍者は複数の依頼人を相手にしていた点です。
すなわち甲賀忍者は依頼主を特定の家にしぼり、特定の主君に仕えていたのです。
しかし、特定の主君と運命を共にすることはなく、もともと仕えていた佐々木六角氏が没落すると、織田氏、豊臣氏、徳川氏の順番で主君を変えていきました。
甲賀忍者は「惣(そう)」と呼ばれる共同体を作り、そこに参加する人の立場は対等で、意思決定を行う時も、「郡中惣」と呼ばれる合議制により意思決定を行っていました。
その甲賀郡中惣遺跡群の中には、甲賀忍者が崇敬した油日大明神を祀り、軍神と崇めた聖徳太子の化身を表した「摩利支天」の懸仏などが伝わる油日(あぶらひ)神社、甲賀衆の活動の中心であった新宮神社などがあります。
甲賀53家の一つで甲賀流忍術の中心であった大原氏の氏神は大鳥神社で、毎年「大原祇園」で賑わい、今日においても各地の大原氏が神前に集まる大原同苗講が行われています。
なお、伊賀忍者は火薬でしたが、甲賀忍者は医療や薬に精通しており、普段の生活ではお守りや薬を売り歩くことで諜報活動を行っていました。
この売薬業は飯道山の山伏が諸国に配札に訪れた際の土産が起源とされ、「甲賀市くすり学習館」には「飢渇丸(きかつがん)」や「兵糧丸」、薬草に関する資料などが展示されています。
ちなみに、甲賀忍者が得意だったのは毒薬を使った術と、手妻(てづま)であったと言われていますが、手妻とは、手品のようにすばやく手を動かして人心をまどわす術です。
リアル忍者Real Ninjaとは「刃(やいば)の心」を持つ精神的強者
一般的に伊賀忍者と甲賀忍者は対立関係にあったと考えている人が多いようですが、これは甲賀忍者が秀吉に仕えていた時代、家康を監視する任務を与えられていたため、家康配下の伊賀忍者と敵対したからです。
秀吉が亡くなってからは、伊賀と甲賀は基本的には友好な関係を保ったようですが、甲賀衆は天正13年、秀吉によって改易処分となっています。
その影響もあって、甲賀忍者は江戸時代になると不遇な扱いを受けるようになり、武士身分を獲得する嘆願を行ったりしましたが、認められることはありませんでした。
そのため、幕末になると新政府軍に加わり、戊辰戦争における庄内藩との戦いなどで戦果をあげています。
このように、忍者は「時代の流れ」を読んで生き抜いたしぶとい集団でした。
しかし、私は親から「忍びの心」とは「やましい心を刃(やいば)で断ち切って生きる心」と教わって育ったので、『萬川集海』にある「正心」こそがリアル忍者の神髄だと考えます。
すなわち、私にとってリアル忍者とは、「自分の良心で判断して正しいと思ったことを行え」と説く神道の基本的な教えに通じた「刃の心」を持つ精神的強者なのです。
忍びの里 伊賀・甲賀ーリアル忍者を求めてー
所在自治体〔三重県:伊賀市 滋賀県:甲賀市〕
忍者は今やテレビやアニメを通じて海外にまで広く知れ渡り、奇抜なアクションで人々を魅了している。
忍者の名は広く知られていても、真の姿を知る人は少ない。
伊賀・甲賀は忍者の発祥地として知られ、その代表格とされてきた。
複雑な地形を利用して数多くの城館を築き、互いに連携し自らの地を治め、地域の平和を守り抜いた集団であり、伊賀・甲賀流忍術は、豊かな宗教文化や多彩な生活の中から育まれた。
忍びの里に残る数々の足跡を訪ねれば、リアルな忍者の姿が浮かび上がる。
伊賀・甲賀、そこには、戦乱の時代を駆け抜けた忍者の伝統が今も息づいている。
一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定
私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。