令和の「平成芭蕉」

令和の「平成芭蕉」

平成芭蕉の日本遺産

平成芭蕉の日本遺産 日本遺産を通して体験する「観光道」と武道の可能性

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日本遺産の地を旅する~武道の可能性を探る

「心技体 人を育てる総合誌」の月刊『武道』2024年3月号

2024年は私の敬愛する松尾芭蕉生誕380周年ということもあり、私は三重テラスなどで講演を行い、平成芭蕉の「観光道」について語ってきましたが、この度、公益財団法人日本武道館の「心技体 人を育てる総合誌」の月刊『武道』2024年3月号に私の記事が掲載されました。この記事の中では104ある日本遺産の中でも「武道の可能性を探る」上で参考になるストーリーを紹介しています。

私は、三重県伊賀市上野にある俳聖松尾芭蕉の生家の向いで生まれ、隣町の名張市黒田荘という伊賀流忍者発祥の地で育ったことから、芭蕉の生き方に倣って、自らを「平成芭蕉」と自称し、今日まで旅を住処とする旅行業に携わってきました。

伊賀と甲賀の忍者は、共に荘園制度に抵抗した住民が団結して「一揆」という自治組織を作ったのが始まりで、私の出身地である黒田荘では「悪党」と呼ばれたのです。そこで、私は祖先が「黒田の悪党」と呼ばれた伊賀流忍者であったということもあり、忍術伝書『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』から「見利の事」「見分の事」などの情報収集術と人間心理学等を学びましたが、その「正心」の巻では、忍術の倫理的側面が強調され、「仁義忠信を守る」ことが説かれていました。

悪党から忍者へ「黒田の悪党」

私は忍者の修行が「武道」に通じると考えていますが、実際、伊賀の菊岡如幻(きくおかにょげん)の「天正伊賀の乱」を伝えた『伊乱記』によれば、伊賀流忍者は「午前中は家業に精励し、午後には寺に集まって軍術、兵道の稽古をした」とあります。

文化庁が認定する日本遺産と「観光道」

世界遺産が遺跡、景観、自然など人類が共有すべき”顕著な普遍的価値”をもつ物件であるのに対し、日本遺産は地域の文化や伝統を物語る”ストーリー”であり、文化財を活用して日本の魅力を国内外に発信すると同時に地域の活性化を図る日本の事業です。

人は生きる上において「心のときめき」が大切ですが、それは「知恵を伴う旅」を通じて得られます。旅の主目的である「観光」という言葉は、今から約3500年前の中国周時代の古典『易経』にあり、これは占いの指南書でした。その一節に「国の光を観る。もって王に賓たるに利あり。賓たらんことを尚(こいねがう)なり」とあり、つまり古代において「観光」は自国の未来を予見するための国王の仕事だったのです。

そしてこの「国の光」とは、各地の自然環境やそこで営まれている人々の暮らしや伝統・文化を指し、これらに接することで王は心身共に豊かになり、王は新たな「国の光」を発することができたのです。

すなわち、国の文化は自然を背景とする村落や都市の景観、日常の生活様式、さらには文化の所産として芸術等に形として現れるものであり、それらを観察することによって、自国の文化の向上に役立てるのが観光本来の意味であり、私は「観光道」と呼んでいます。言い換えれば、旅においてはしっかりと観察し、その土地の素晴らしいところ、すなわち「まほろば(真秀ろば)」を見つけることです。

「大和は国のまごろば」の碑

そこで、「観光」が大衆化した現代社会においても、旅は単なる物見遊山ではなく、各地の豊かな自然や伝統・文化に触れ、何か新しい「知恵」を身につけるのが好ましいのですが、この「観光道」の指針こそ文化庁が認定する全国の「日本遺産」です。私が提案する「観行道」は光っているところを観るだけでなく、この光輝く遺産がなぜっ光っているかを考察し、真実の歴史を追及して気付きの喜びを知る旅なのです。

日本で最も豊かな隠れ里~「相良700年」の人吉球磨

私の故郷である名張市の地名は、「隠れ里」の“隠”の字を「なばり」と読むことに由来するのですが、熊本県の人吉球磨は、司馬遼太郎が「日本でもっとも豊かな隠れ里」と記し、「相良700年が生んだ保守と進取の文化」の物語が日本遺産に認定されています。

かつて「熊襲」が治めていた人吉球磨地域では、急峻な九州山地に囲まれた地の利を生かして外敵の侵入を拒み、日本史上稀な「相良700年」と称される長きにわたる統治が行われ、領主から民衆までが一体となったまちづくりの精神が形成されました。

相良氏が700年続いた理由の一つには、家臣たちを大切にし、地域の文化を守り、新しいものを取り入れて独自の文化を築いたことにあります。相良氏は人々の荒ぶる魂を鎮め、神様としてまつり、永久に平和な統治が続くよう、最先端の技術・文化を取り込み、領内にどこか都ぶりな茅葺の社寺を造り、自ら祭や儀式も執り行いました。人吉・球磨地域を代表する青井阿蘇神社も相良藩の氏神として庇護を受け、現在の社殿は慶長十八年、相良20代の長毎(ねがつね)によって造営されました。

青井阿蘇神社の楼門

本殿・廊・幣殿・拝殿・楼門が国宝に指定されていますが、中でも人吉様式と呼ばれる桜門は、作家の司馬遼太郎氏も「この桜門は京都あたりに残っている桃山風の建造物(西本願寺の唐門など)などよりもさらに桃山ぶりのエッセンスを感じさせる」と感嘆しています。

民衆は自分たちの土地にみごとな建物が建ったのを誇らしく思い、社寺の維持管理も地域に根付いたものとなりました。そして九州で発展した実戦剣術の「タイ捨流」始祖、丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)も相良氏の家臣でした。

「タイ捨流」は神道、仏教、キリスト教、山岳信仰等が混合し、日本古来の刀法と中国武術の「蹴り」などが混在した特異な剣術で、始祖の右腕となった中国人武術家伝林坊来慶は、山伏として活動しながら相良忍者集団を統率したと言われています。

タイ捨流の伝術書

 「タイ捨流」の「タイ」は、体・待・対・太などの複数の漢字が当てられますが、それぞれの「タイ」の意味に関わる雑念を「捨て去る」ことから、「タイ捨流」と名乗っています。しかし人吉相良藩の古文書『南藤蔓綿録』には、「大赦流」とも書かれており、「大赦流」の「大」は「だいうす」つまりデウスを意味し、「神よ、私達の罪をお赦し下さい」とキリシタン的にも解釈できます。

薩摩藩の示現流と薩摩の武士が生きた武家屋敷「麓」

 島津氏に仕えていた「示現流」の流祖である東郷重位(とうごうちゅうい)も若い頃は「タイ捨流」を学んでおり、「示現流」を採用する前の薩摩藩は「タイ捨流」を相伝していたと言われています。薩摩藩においては、郷中教育で体を鍛える修練に相撲や「示現流」剣術が取り入れられており、勇猛果敢な薩摩の武士を育んだそのストーリーが「薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~」として日本遺産に認定されています。

日本遺産認定の出水麓武家屋敷群

中世以来の守護大名であり、戦国時代末には九州全土を平定する勢いだった薩摩の島津氏は、豊臣秀吉の九州平定で敗れ、領地を大幅に削減されましたが、武士の数は減らしませんでした。そのため薩摩藩は他の藩より武士の割合が高くなり、全人口の4分の1程度を武士が占めていたため、本城である鹿児島城の城下に全ての武士を集住させることができず、独自の外城制度として各地の山城の周辺に「麓」(武家屋敷群)をつくり、数十人から時には数千人を配置することにしました。

中でも出水外城は肥後との国境に位置し防衛上重要な地域だったため、1599年頃から(関ヶ原の前年)30年の歳月をかけて新たに薩摩藩最大150軒の武家屋敷群が造られ、藩内から優秀な武士を集て住まわせて国の防衛にあたらせました。

出水麓の武家屋敷

薩摩の武士と言えば勇猛果敢なことで知られており、本城の鹿児島城や中世以来の山城の跡、そして周辺に配置された外城の武家屋敷群が江戸時代を通じて残り、今も県内各地に数多く見られる全国で唯一の地域です。

また、薩摩藩には「郷中(ごじゅう)教育」という他の藩にはない教育システムがあり、それぞれの町で「郷中」と呼ばれる少年たちのグループがつくられ、「二才(にせ)」と呼ばれる15〜24歳の年長武士が「稚児(ちご)」という6~15歳ぐらいまでの少年たちを教える、つまり“教師”が存在せず、先輩が後輩を教育し、平和な世にありながら武芸の鍛錬にも励んでいました。

今に生きる伊丹『修武館武道摘要』の教え

現在、私の実家は甲子園に近い西宮ですが、この地でも「伊丹諸白と灘の生一本 下り酒が生んだ銘醸地、伊丹と灘五郷」というストーリーが日本遺産として認定されています。江戸時代、伊丹・西宮・灘の酒造家たちは、優れた技術、良質な米と水、酒輸送専用の樽廻船によって、「下り酒」と称賛された上質の酒を江戸へ届けていたのです。

そして伊丹は今日、「なぎなたの聖地」とも呼ばれていますが、その起源は天明6(1786)年に丹醸(伊丹産の酒)で栄えた酒造家の小西家が、伊丹郷町の治安維持のために開設した武術修練の私設道場「修武館」にあります。

なぎなたの聖地「修武館」

第二次世界大戦中の昭和18年、当時の修武館館長小西業精は『修武館武道摘要』において、日本古来の伝統文化である剣道・薙刀・居合道の基本を守り、特に「礼に始まり礼に終わる」と言われる武道の礼法を重んじる指導理念を掲げました。

この教えは現在も受け継がれており、私の生活圏である伊丹と灘五郷には、日常の中にも「武道」が生きているのです。

★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」

一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定

私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会

平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える

「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。

そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。

私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。

平成芭蕉の日本遺産

平成芭蕉の日本遺産

この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。

「令和の旅」へ挑む平成芭蕉

*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照

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