令和の「平成芭蕉」

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平成芭蕉の日本遺産

平成芭蕉の日本遺産 芭蕉も歩いた「最古の国道」~竹内街道・横大路

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日本遺産の地を旅する~芭蕉も歩いた竹内街道・横大路(大道)

日本最古の古代官道

大阪府の堺市から松原市、羽曳野市を経て奈良県葛城市に至る全長約30kmの竹内街道(たけのうちかいどう)は、飛鳥時代に築かれた、難波津から飛鳥の都へ通じる大道(おおじ)が起源とされています。『日本書紀』に「推古天皇二十一年(613年)・・・難波ヨリ京(飛鳥)ニ至ル大道ヲ置ク」と記され、日本最古の古代官道とも言われていますが、旧石器時代には石器の材料であるサヌカイト(讃岐石)を求める人々が二上山をめざした石の道でもあり、二上山の西麓の太子町には陵墓・古墳などの遺跡や聖徳太子御廟など見どころも多く点在しています。

竹内街道・横大道(餅屋橋付近)

また、松尾芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途中、同行した千里(ちり)の郷里である竹内(綿弓塚)を訪れ、司馬遼太郎もかつて母の実家があったこの地で過ごし、「竹内峠の山麓は故郷のようなもの」と語るなど、歴史的魅力にも溢れており、平成29年(2017)、〔1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」~竹内街道・横大路(大道)~〕のストーリーが日本遺産に認定されました。

芭蕉も訪ねた竹内街道(綿弓塚)

竹内街道の由来と横大道(大道)

竹内街道という名前は、奈良県葛城市の旧當麻町(たいまちょう)竹内の集落を通り、二上山南側の険しい竹内峠を越えることに由来しています。中将姫ゆかりの當麻寺もこの地にあり、當麻曼陀羅と法然上人に纏わる文化財や浄土宗の極楽浄土に対する信心を表す「二河白道(にがびゃくどう)」を冠した枯山水の庭園で知られています。

竹内街道の當麻寺付近

また、竹内街道沿いには国登録有形文化財に指定され、街道の歴史的景観を特徴づけている「大道旧山本家住宅」がありますが、この茅葺古民家のすぐそばの餅屋橋付近では、険しい竹内峠を無事に越えていけるように通行人に餅の振舞いをしたという逸話が残っています。

大道旧山本家住宅

この竹内街道は、奈良盆地を東西に横切る横大路(よこおおじ)につながっており、その西端には長尾神社が鎮座していますが、この地は複数の歴史街道が交わる交通の要であったことから、旅の安全を祈願する多くの旅人に信仰されていました。また、大和には大きな蛇が住んでおり、その頭が三輪明神(大神神社)、長尾神社はその尾にあたるとされ、二社詣をすると種々のご利益があると言い伝えられています。

長尾神社

飛鳥時代の大道と聖徳太子

飛鳥時代には、難波の港に着いた最新の文化や技術はこの道を通って飛鳥(シルクロードの終点地)へ運ばれ、遣隋使の小野妹子や外国の使節団も通っており、「外交の道」として栄えました。さらに聖徳太子信仰が盛んになると街道沿いにある聖徳太子御廟やそれを守る叡福寺が霊場となり、「信仰の道」としてもにぎわいを見せていました。

聖徳太子御廟

聖徳太子は、「冠位十二階」や「十七条憲法」を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図ったほか、仏教を厚く信仰して興隆に努めため、聖徳太子自体が尊崇の対象となり、聖徳太子信仰が盛んになったのです。

聖徳太子が眠る叡福寺

また、桜井市大字谷の「土舞台」はあまり知られていませんが、聖徳太子が初めて国立演劇研究所と国立劇場を設けた場所として伝わり、『日本書紀』推古紀に、百済人味摩之(みまし)が桜井の地にて少年を集め、伎楽舞を習わしめたという記述があることから、日本の「芸能発祥の地」として語り伝えられています。

日本芸能発祥の地「土舞台」

「海の堺、陸の今井」

古代から脈々と受け継がれてきたこの街道は、時代が下り中世になると、物資を運ぶルートとなり、西端の堺と東端の今井町は、中世における我が国の経済を牽引する二大都市でした。

堺市の竹内街道標識

堺は室町時代に南蛮貿易や日明貿易の港湾都市として大きな経済力を持ち、金属鋳造技術の拠点としても名をはせ、今でも鉄砲鍛冶屋敷が多く残っています。

そして堺と同じく、中世日本の経済を牽引していたのが称念寺の寺内町として発展した今井町で、江戸時代には独自の紙幣「今井札」も流通し、「大和の金は今井に七分」と言われるほど繁栄しました。地区を取り囲むように設けられていた環濠跡、屈折している通り、牛馬をつなぐための駒つなぎなどには、商業が繁栄し、外部からの侵入者を拒絶し、堺と同様に独立した自治都市を築いた歴史が表されています。

今井町の街並み

このように堺と今井町は東南アジア諸国との交易等を通して密接に結びつき、「海の堺、陸の今井」として、戦国時代から江戸初期の日本経済を牽引しました。

「宗教の道」と阿倍文殊院

江戸時代に入ると、「宗教の道」として伊勢へのお蔭参りや浄土信仰の當麻寺(たいまでら)詣などが盛んになりましたが、現代においては、日本三文殊のひとつで陰陽師・安倍晴明が陰陽道の修行をしたとされる安倍文殊院が人気を呼んでいます。安倍文殊院は西暦645年に安倍一族の氏寺として創建された古寺院で、本尊は、鎌倉時代の大仏師・快慶の作とされる脇侍を従えた高さ7メートルの日本最大の文殊菩薩像です。

阿倍文殊院参道

そしてこの文殊菩薩ですが、今年2025年は約15年ぶりに獅子から降りた貴重なお姿となっており、眼前に迫る文殊菩薩の均整のとれた美しさや細やかで華やかな装飾など、快慶仏師の技巧を間近に観察することができます。元来、文殊菩薩は獅子から降りることはない為、この特別な姿での公開は、今後行われない可能性があるので、今年の参拝がお勧めです。

阿倍文殊院

大道(竹内街道・横大路)と「太陽の道」

春分と秋分の日の年二回、太陽は三輪山の山頂に昇り、二上山を越えて大阪湾に沈みますが、この太陽の軌道は大道(竹内街道・横大路)と重なり、「太陽の道」とも呼ばれていますが、三輪山の大神神社を頭、二上山の長尾神社を尾とする「龍の道」にもなぞらえられています。この日本遺産はまさしく「龍の道」の物語であり、巳年の2025年に訪ねると大和に住むとされる大きな蛇をも連想させてくれます。

二上山の鞍落ち(雄岳と雌岳の間に太陽が沈む)

1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」
~竹内街道・横大路(大道)~ 

日本遺産のストーリー 所在自治体〔大阪府:堺市・太子町他、奈良県:桜井市他〕

春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。このことから、推古天皇 21 年(613 年)に東西の直線で敷設された幅 20m を越える大道(竹内街道・横大路)は、太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝えた。
中世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、場所ごとに様々な表情を浮かべる。
1400 年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。それが竹内街道・横大路(大道)なのである。

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一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定

私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会

平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える

「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。

そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。

私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。

平成芭蕉の日本遺産

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この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。

「令和の旅」へ挑む平成芭蕉

*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照

 

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