旅を住処とした松尾芭蕉の生涯
芭蕉さんは何故旅に出たのか
伊賀国上野赤坂町に生まれ、自ら「乞食の翁」と称した芭蕉は、物欲や名誉欲から解放された生活の中で、純粋に俳諧文学を追求する旅に出ました。これは芭蕉の禅の師であった仏頂和尚の禅の教えである「放下著(ほうげじゃく)」を実践したものと考えられます。
すなわち「いっさいを捨て去るとすべてが生きかえる」の禅の教えに従い、旅を通じて自然や名所・旧跡、人情などに触れ、「風雅の誠」を追求し、自らの俳諧を高めようとしたのです。
芭蕉は東海道を上り、美濃、尾張から木曾、甲斐を巡った『野ざらし紀行』、高野山や須磨などを巡った『笈の小文』の旅や有名な『奥の細道』の旅など、貞享元(1684)年から元禄4(1691)年までの約7年間で通計4年3か月を旅しています。また、芭蕉が生涯に詠んだ句は約900句と言われています。
しかし、『野ざらし紀行』、『笈の小文』、『更級紀行』、『奥の細道』の紀行文はすべて芭蕉の死後に刊行されました。「詫び・さび・細み」の精神、「匂ひ・うつり・響き」といった嗅覚・視覚・聴覚を駆使した文章表現を活かし、最終的には「不易流行」「かるみ」に至ったのです。そしてこの芭蕉の感性が多くの俳人を虜にし、いつしか「俳聖」と呼ばれるようになりました。
芭蕉が敬慕した偉大な先人、西行法師、李白・杜甫らと同様に、彼も旅の途中、南久太郎町御堂前の花家仁右衛門宅で果てています。元禄7(1694)年10月8日、旅先の大阪で没(51歳)。「旅に病で 夢は枯野をかけ廻る」は辞世の句と言われています。
旅に生きた芭蕉の生涯
・寛永21(1644)年、伊賀国上野赤坂町に生まれる。
・幼名は金作、通称は甚七郎、名は忠右衛門宗房。
・18歳で藤堂藩の侍大将の嫡子良忠(蝉吟)に料理人として仕えるも22歳で師と仰いだ良忠と死別。
・1672年、28歳で『貝おほひ』を伊賀天満宮に奉納し、江戸へ。
・31歳で「桃青」と名乗り、1677年、33歳で免許皆伝。江戸俳壇の中心地、日本橋に居を定める。水道工事の事務も担当。
・1680年、36歳で隅田川東岸の深川に草庵を結び、隠棲する。草庵のバショウから「芭蕉(はせを)」と号した。
・1682年、江戸の大火(八百谷お七の事件)で芭蕉庵焼失。
・1684年、40歳で母の墓参りの名目で『野ざらし紀行』に出立、伊賀・大和・吉野・美濃・尾張・木曾・甲斐を巡る。
・1687年には月見を兼ねた『鹿島詣』で根本寺の仏頂和尚を訪ねた。
・1688年、44歳で伊賀に帰省して「古里や臍のをに泣くとしのくれ」の句を詠み、翌年、高野山、吉野、奈良、神戸方面に旅して
『笈の小文』、同年、秋には長野に向かい、こちらは『更級紀行』で姨捨の月見などを楽しんでいる。
・1689年3月27日、45歳でみちのくの歌枕をめぐる『奥の細道』に旅立つ。旅の途中で「不易流行」という俳諧論が生れる。
・1691年は嵯峨野の「落柿舎」と大津の義仲寺の庵を往来。
・1693年、「鳰(にお)の湖」の旅で新たな「かるみ」の境地に至る。
・1694年、江戸から西国へ「かるみ」を伝授する旅に出て、大坂御堂筋の花屋仁左衛門方で10月12日に51歳で永眠。
芭蕉の一生はそのままが芸術です。その一生を考えれば歴史的な正確さよりも、その生涯の意味を理解することが大切で、芭蕉の心中に生まれては去っていったであろう様々な考えや情念を推察することが、蕉風俳諧の理解に繋がります。
生まれ故郷の伊賀上野で藤堂良忠(蝉吟)に仕えたことから俳人となり、その成功は、宝井其角(きかく)のグループを傘下に収めたことから始まります。しかし、芭蕉の転機は江戸深川で天和2(1682)年の大火事に遭遇し、仏頂禅師との出会いです。
延宝8年(1680)深川に移り住んだ松尾芭蕉は二歳年上の仏頂禅師の人柄に感服し、足繁く深川「臨川寺」の仏頂禅師のもとへ参禅するようになりました。これを機に芭蕉は、禅の精神を人生観まで発展させ、禅味が加わった芭蕉の作風は、従来見られなかった高い精神性を俳句の世界にもたらし、文芸としての価値を世間に知らしめたのです。
芭蕉の両親と縁者
芭蕉の父 「松尾与左衛門」
松尾家は平家の流れをくむと言われ、与左衛門は無足人と呼ばれる苗字帯刀を許された地侍クラスの農民。伊賀の国柘植(つげ)の土豪柘植七党の松尾氏の一族で、後に柘植から同じ伊賀の国上野赤坂に移り住んだ。
明暦2(1656)年芭蕉13歳の2月18日に没。松尾家の菩提寺である上野農人町の愛染院に葬られる。
芭蕉の母
松尾芭蕉の公式の伝記『蕉翁全伝』によれば、芭蕉の母は伊賀上野の隣町名張に移封された伊賀の上忍、百地家(伊賀流忍者の祖)の娘と言われ、柘植の松尾与左衛門に嫁ぎ、2男4女をもうけて、芭蕉は次男。
天和3(1683)年6月20日没。与左衛門と同じ伊賀上野農人町の愛染院に葬られている。
芭蕉の兄 「松尾半左衛門」
松尾家の長男で当主として書道師範をしていたと言われる。芭蕉 がこの兄に宛てた書簡が6通現存し、芭蕉の遺書「松尾半左衛門宛遺言状」は上野の芭蕉記念館に保管されている。
元禄14(1701)年没。両親と同じ愛染院に葬られており、愛染院に建つ句碑「家はみな杖にしら髪の墓参り」の俳句は、芭蕉が兄である半左衛門の招きによって、元禄7年の夏に伊賀へ帰郷し、愛染院で営まれた盆会に参列した際に吟じたとされています。
芭蕉の姉妹
芭蕉の姉妹は甥桃印の実母と推定される姉が1人、片野家に嫁いだ妹、堀内家に嫁いだ妹、末妹およしの3人の妹がいた。通説ではおよしは長兄半左衛門の養女となり、松尾家を継いだと言われている。
芭蕉の縁者 桃印(とういん)
芭蕉の姉の子供で、芭蕉が上野赤坂在所中、夫と死別した姉が松尾家に同道して戻った。芭蕉が22,3歳で桃印が5,6歳の頃とされる。
芭蕉は自らを「桃青」と名乗り、敬愛する人には「桃」の字を送っているが、中でも桃印に対する愛情は格別で33歳の若さで桃印が亡くなると生への執着を喪失した風もあった(「許六宛書簡」)。また、桃印が重病の際には、膳所の門弟曲水に1両2分の工面を依頼している。元禄6(1693)年没。
芭蕉の縁者 天野桃隣(とうりん)
元藤堂藩士で本名は天野甚兵衛、通称、藤太夫。芭蕉とはかなり親しい間柄で、各務支考の言によれば松尾芭蕉の従弟だという。15年ほど大坂で「利をいとひ遊民となつて」暮らしていたと言われ、その後江戸へ出て40歳を過ぎてから芭蕉の援助を得、俳諧師として独立。芭蕉の3回忌は法要のみで満足せず、奥の細道の足跡をたどっている。
芭蕉が仕えた主君 藤堂良忠(蝉吟)
若き芭蕉が台所用人として仕えた伊賀上野の城代付の侍大将、藤堂新七郎家当主良精の第3子主計良忠(かずえよしただ)。熱心な文化人で京都の北村季吟に俳諧を学び、俳号は蝉吟(せんぎん)。その影響で芭蕉も俳諧を始め、芭蕉にとっては良き理解者であり2歳年上の先輩でもあった。しかし、寛文6(1666)年4月25日、25歳の若さで死去。芭蕉は当時23歳で、良忠の遺骨を高野山に納めた後、無常を感じて故郷を離れ、一所不在の身で俳諧に専念するようになった。
芭蕉が愛した女性 寿貞(じゅてい)
芭蕉が愛した唯一の女性で一男(次郎兵衛)二女(まさ・おふう)をもつが芭蕉の実子かは不明。彼女は芭蕉が次郎兵衛を伴って上方に上った元禄7(1694)年6月2日、深川芭蕉庵で死去。芭蕉は6月8日に京都嵯峨にあった去来の別邸落柿舎で訃報を聞く。
寿貞尼の芭蕉妾説は、野坡(やば)が語った風律稿「こばなし」の中の「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり」による。
また、上野の愛染院には寿貞尼の死を悼む「数ならぬ身となおもひそ玉祭」の句碑が残り、芭蕉の思いが読み取れる。玉祭は魂祭りで7月15日の盂蘭盆の行事。
芭蕉の門人「蕉門十哲」
①宝井其角(たからい きかく):蕉門第一の高弟で江戸座を開く。15歳頃から芭蕉に俳諧を学び始め,早くから蕉門の中心人物であったが、単に蕉門の雄というにとどまらず元禄俳壇の大立者として活躍した。
②服部嵐雪(はっとり らんせつ):其角と並んで蕉門の双璧をなす。芭蕉は、其角と嵐雪を「両の手に桃と桜や草の餅」と称えているが、嵐雪は師の説く「かるみ」の風体に共鳴しなかった。しかし,師の訃報に接しては義仲寺の墓前にひざまずき、師に対する敬慕の念は厚かった。
③森川許六(もりかわ きょりく):画の名人で、芭蕉は俳諧を教えるかたわら絵の指導を受け、許六を絵の師と呼んでいる。晩年に入門するも芭蕉没後は継承者を自任し、蕉風の理念を掲げて彦根俳壇の指導者として活躍した。
④向井去来(むかい きょらい):嵯峨の「落柿舎」の所有者で、1689(元禄2)年の冬、芭蕉を自分の別荘である落柿舎に招き、元禄4年の夏には芭蕉の宿舎として落柿舎を提供している。この間「俳諧の古今集」と称される『猿蓑』の編集に野沢凡兆と共に従事することで芭蕉から俳諧の真髄を学ぶ機会に恵まれた。その著『去来抄』は、蕉風俳論の最も重要な文献とされている。芭蕉の絶大な信頼を得て、芭蕉は戯れに彼を「西三十三ケ国の俳諧奉行」と呼んだという。
⑤各務支考(かがみ しこう):蕉門初の俳論書「葛の松原」を執筆。1694(元禄7)年、伊賀から大坂へ向かう芭蕉の旅に同行し、芭蕉の臨終を看取り、このとき芭蕉の遺書「芭蕉翁追善之日記」を代筆している。芭蕉の没後は、美濃を本拠に地方行脚をかさねて蕉風の普及につとめ、「美濃派」とよばれる一大勢力をきずいた。
⑥内藤丈草(ないとう じょうそう):1689(元禄2)年に芭蕉に入門,『猿蓑』の跋文(あとがき)を書いた。元禄6年に近江無名庵に住み、元禄9年からは竜ヶ岡(大津)の西の仏幻庵に生涯の居を定め、師の追善に日を費やした。温厚篤実な人柄で、洒脱な面もあり諸人に慕われた。
⑦杉山杉風(すぎやま さんぷう):蕉門の最も古い門人で、芭蕉の経済的な援助者でもあった。通称は鯉屋藤左衛門または市兵衛。家業は幕府御用の魚問屋で、深川六間堀の別荘を「芭蕉庵」に提供。芭蕉に「東三十三国の俳諧奉行」といわれ、俳諧のほかに禅、茶、画もよくした。
⑧立花北枝(たちばな ほくし):兄牧童とともに加賀金沢で刀研ぎを業とするかたわら、俳諧に親しむ。(1689(元禄2)年、芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中で金沢を訪れた際に入門し、越前丸岡まで行動をともにした。以後加賀蕉門の中心人物として活躍し、自分の家が丸焼けになった際、「焼にけりされども花はちりすまし」と詠み、芭蕉の称賛を得たエピソードは有名。
⑨志太野坡(しだ やば):越前の人で江戸に出て、芭蕉の門に入り、1694(元禄7)年、池田利牛とともに『炭俵』を編纂。作風は「かるみ」をもっぱらとし平淡で庶民的。「軽み」の俳風では随一で、芭蕉没後は大坂に移住し、上方および中国・九州地方に蕉風をひろめた。
⑩越智越人(おち えつじん):尾張蕉門の門人として活躍し、伊良古旅行や『更科紀行』の旅に同行するも、芭蕉晩年の新境地には追随することはできなかった。
*杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人の代わりに次の4人を加える説もある
(1) 河合曾良(かわい そら):信濃出身で仕官した伊勢長島藩を辞し、江戸にでて吉川惟足(これたり)に神道や和歌を学ぶ。貞享の初めに芭蕉に入門し、師の身の回りの世話をしながら『おくのほそ道』の旅に随行した。通称は庄右衛門、河合惣五郎と称す。著作に『曾良旅日記』がある。
(2) 広瀬惟然(ひろせ いねん):美濃蕉門の門人で、晩年には芭蕉の句を和讃に仕立てて風羅念仏と称し、これを唱えながら諸国を乞食同然の姿で行脚した。晩年は郷里の関(岐阜県関市)に弁慶庵をむすんで隠棲する。
(3) 服部土芳(はっとり どほう):芭蕉と同郷で藤堂藩の伊賀付藩士であったが、蓑虫庵を結んで隠棲。伊賀蕉門の中心人物であったが、俳壇的野心はなく、俳諧を友としながら生涯を独身で過ごした。芭蕉の最も忠実な門人のひとりであり、芭蕉の死後はその作品を収集整理して霊前に備えるとともに自ら著した『三冊子』は、芭蕉の俳論を伝える貴重な資料である。
(4) 天野桃隣(あまの とうりん):芭蕉の縁者で芭蕉に許六を紹介。芭蕉が死去した後、『奥の細道』の足跡を巡り、1697(元禄10)年の忌日に『陸奥鵆(ちどり)』全5巻を刊行した。
旅を住処とした芭蕉翁が眠る義仲寺
芭蕉は大坂の地で亡くなりましたが、本人の遺言により弟子たちが亡骸を故郷の伊賀上野ではなく、近江大津の義仲寺に眠る木曾義仲の隣に葬られました。義仲の生き方に惹かれたのか、または義仲寺の雰囲気に心を奪われたのか、芭蕉は「骸は木曽塚に送るべし」との遺言を残してこの地での供養を求めました。
義仲寺の創建は、治承・寿永の乱(源平の戦い)の1つである「粟津戦い」によって自害した木曾義仲を供養する目的で、愛妾の巴御前が日々供養したことが始まりとされています。江戸時代には三井寺(園城寺)の末寺となり、元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が滞在し、元禄4年(1691年)には芭蕉のために「粟津草庵(後の無名庵)」が建てられています。
無名庵は1689(元禄2)年、『おくの細道』の旅を終えた芭蕉が、その年の末に過ごした場所です。その後も何度か滞在し、芭蕉を訪ねた伊勢の俳人・島崎又玄は「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と詠んだと言われています。芭蕉の死後は荒廃しますが、京都の俳僧である蝶夢が、明和6年(1769年)〜寛政3年(1791年)に再興し、寛政5年(1793年)には芭蕉百回忌を行っています。
木曽義仲の墓の右隣に芭蕉翁の墓が建てられていますが、境内には、芭蕉の辞世の句である『旅に病んで 夢は枯野を かけ回る』をはじめとした数多くの句碑が建てられており、芭蕉の歴史に触れることのできる貴重な場所となっています。
故郷の伊賀上野ではなく、自身の「かるみ」を理解してくれた門人の多い近江に眠る芭蕉さんを思えば、芭蕉さんの旅から学ぶ一番の教えはやはり、仏頂和尚の禅の教えである「放下著(ほうげじゃく)」でしょう。自分の持っている名誉、財産、知識、立場、主義等を捨てよというのではなく、今の持っている自分自身を捨て去れという意味です。
西郷隆盛は、「金もいらぬ、命もいらぬ、名誉もいらぬ人が、一番扱いにくい」と言っていますが、私には「放下著」を体得した人間のことかと思われます。
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
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私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って旅をしています。
平成芭蕉は元禄時代に生きた俳聖松尾芭蕉の旅から学んだことをお伝えします。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。平成芭蕉が体験した感動を「旅行+知恵=人生のときめき」をテーマにお話しします。