令和の「平成芭蕉」

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平成芭蕉の旅語録

平成芭蕉の旅語録 ブラタモリで紹介された黒曜石の星ヶ塔遺跡と八ヶ岳山麓の縄文遺跡群

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「星ヶ塔遺跡」と黒曜石に関連した八ヶ岳山麓の縄文遺跡群

 許可なしでは入れない黒曜石採掘場所「星ヶ塔遺跡」

人気テレビ番組「ブラタモリ」で紹介され、一躍全国に知られるようになった、黒曜石の採掘遺跡「星ヶ塔遺跡」を訪ねてきました。
この遺跡は下諏訪町の北東部、霧ケ峰山塊北西に位置する星ヶ塔山(標高1576メートル)の東斜面に広がる東俣国有林内にあり、通常は立入禁止となっています。

星ヶ塔遺跡付近の黒曜石

今回、私は古代遺跡ツアー企画の下見調査という名目で、特別に下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館の宮坂清館長の案内で現地を視察することができました。宮坂館長はこの星ヶ塔遺跡を発見し、実際に発掘された方で、テレビ番組でタモリさんも現地へ案内されました。

星ヶ塔ミュージアム「矢の根や」

私は遺跡を訪ねる前に、縄文人と黒曜石の関わりが学べる星ヶ塔ミュージアム「矢の根や」で、黒曜石についての説明を受けましたが、館内2階のテラスからは諏訪地方唯一の前方後円墳「青塚古墳」の石室も見ることができました。

前方後円墳「青塚古墳」の石室

この地の黒曜石は、黒くてキラキラしたガラス質の鉱石ですが、光を当てると透明色となり、割れ口が鋭く加工しやすいため、主に石鏃に加工されて重宝されていました。ちなみに、昔の人々は黒曜石のことを夜空に輝く星のかけら「星クソ」と呼び、それが遺跡の東側の峠道にたくさんあることから「ホシノトウゲ」という地名が生まれ、それがのちに「星ヶ塔」という名前の由来になっています。

星ヶ塔ミュージアムの展示

正しくは「国史跡星ヶ塔黒曜石原産地遺跡」と呼ばれる縄文時代の遺跡で、日本唯一の黒曜石岩脈の採掘坑として2015年(平成27年)3月10日、国史跡に指定され、日本遺産『星降る中部高地の縄文世界』の構成文化財にも認定されています。

星ヶ塔遺跡を特別見学

本遺跡の北約3キロメートルには和田峠黒曜石原産地群、北東約5キロメートルには男女倉(おめくら)黒曜石原産地群、鷲ヶ峰を挟んで東約7キロメートルには史跡星糞(ほしくそ)峠黒曜石原産地遺跡がありますが、実際に現在でも黒曜石のかけらを目撃できるのはこの星ヶ塔遺跡が一番です。星ヶ塔鉱山の森に足を踏み入れると、縄文人が掘りだしたと思われるキラキラ輝く黒曜石のカケラが方々に散らばっています。

星糞(ほしくそ)峠黒曜石原産地遺跡

星ヶ塔遺跡は、1920年(大正9年)の鳥居龍蔵の調査によって、黒曜石の原産地遺跡であることが明らかになりました。しかし、この調査に同行した八幡一郎が、黒曜石原産地を近くの和田峠の地名で代表させたため、黒曜石の原産地としては和田峠が知られるようになりましたが、実際にはこの星ヶ塔遺跡付近が原産地です。

黒曜石を採掘した星ヶ塔遺跡

また、1959年(昭和34年)からの「縄文農耕論」で有名な藤森栄一による調査の結果、地表にみられるくぼみは縄文時代の採掘跡であることが、国内で初めて明らかにされています。現在では発掘調査により縄文時代前期(約5700年前)と晩期(約3000年前)の黒曜石採掘抗が発見され、長期間にわたる黒曜石採掘遺跡であることがわかりました。

八ヶ岳山麓の縄文文化の原動力となった黒曜石と関連遺跡

 縄文時代は、約10,000年も続いた争いのない平和な時代でした。人々は大自然の中に溶け込んで、自然と共生共存、エコロジカルでロハスな生活を送っていたようです。特に縄文時代中期、八ヶ岳を中心とした中部山岳地帯は、日本列島の中で最も賑わった場所でした。

この地域の縄文時代中期は、国宝土偶「縄文のビーナス」をはじめとして、重要文化財の土器、土偶が数多く見られますが、この八ヶ岳山麓の縄文文化の原動力となったのが、星ヶ塔遺跡周辺で産出される「星降る中部高地の黒燿石」だったのです。縄文人は黒曜石を発見し、その石質に気付いて様々な道具を作ったことによって優れた縄文文化を築いたのです。

星降る中部高地の黒曜石

霧ヶ峰高原東北端、鷹山(たかやま)にある星糞峠(ほしくそとうげ)一帯にも旧石器時代の遺跡や縄文時代に黒耀石を大規模に掘り出した鉱山のような遺跡が残されていますが、星糞峠の麓にある「黒耀石体験ミュージアム」でも、旧石器時代から縄文時代へ続く約3万年に及ぶ黒耀石の歴史が紹介されています。

黒耀石体験ミュージアム

縄文時代の遺跡には黒曜石の原石がまとめておかれた「黒曜石の集積」と呼ばれる貯蔵箇所があり、霧ヶ峰や和田峠の黒曜石原産地に近い「駒形遺跡」「上之段遺跡」では大量の黒曜石や石鏃が見つかっています。どちらも、原産地から入手した黒曜石や制作した石鏃を、各地に運び出す役割を担った集落と考えられています。

黒曜石の集積・製作・搬出に関係していた集落跡「駒形遺跡」

「駒形遺跡」は、西側に桧沢川(ひのきざわがわ)が流れ、東に大清水水源があり、尾根筋や桧沢川(ひのきざわがわ)の谷を10キロメートルほど北上すれば、霧ヶ峰の良質な黒曜石の原産地にたどり着きます。

駒形遺跡近くの湧水「大清水」

駒形遺跡近くの湧水「大清水」

この駒形遺跡では、6500年前~3500年前の時代、特に5000年~4000年前を中心に、少しずつ場所を移動させながら広範囲で集落が営ま れ、101件の住居跡や多くの黒曜石が発見されています。

駒形遺跡の案内板

駒形遺跡の案内板

特に黒曜石は、その原石や製作工程を示すよう な剥辺を含め、55925点見つかっており、「縄文中期を中心に 大規模な拠点集落で黒曜石の集積、製作、搬出にかかわっていた集落跡と推定される」と して平成10年に国史跡に指定されています。
復元された住居跡などはありませんが、八ヶ岳を望むこの場所に立つと、縄文人が黒曜石を加工している光景が目に浮かぶようです。

縄文時代の集落「駒形遺跡」

縄文時代の集落「駒形遺跡」

八ヶ岳・蓼科山麓の代表的な縄文遺跡「上之段遺跡」

「上之段遺跡」は、八ヶ岳・蓼科山麓の縄文時代遺跡の中で、尖石遺跡・駒形遺跡とともに最も代表的な遺跡の一つですが、特に縄文時代晩期の土器はこの山麓では他に例をみないほど豊富で、中部山岳地帯の縄文時代後期末から晩期の様相の一端を明らかにすることができる重要な遺跡です。

上之段遺跡の案内

上之段遺跡は極めて長期に亘るため、出土する土器も種々様々で、縄文時代早期の押型文土器、前期の繊維土器、諸磯式土器、中期の勝坂式土器、加曽利E式土器、後期の堀之内式土器、加曽利B式土器、晩期の亀ヶ岡系(大洞式)土器等も出土しています。

上之段遺跡への入り口

星ヶ塔遺跡に関連する縄文遺跡「金生遺跡」

宮坂館長によると、星ヶ塔遺跡で黒曜石を採掘した縄文人は、縄文時代における日本の首都と呼ばれる山梨の八ヶ岳山麓から来たとの話でした。中でも山梨県北杜市大泉町谷戸寺金生にある、金生遺跡(きんせいいせき)との関連性に注目されていました。

「金生遺跡」は八ヶ岳南麓の尾根上に立地し、縄文時代の集落跡や祭祀施設と、中世の城館跡や集落跡が複合した遺跡ですが、縄文遺跡としては、壁建ての住居址群と配石遺構や石組などの埋葬施設や祭祀施設が複合し、縄文時代後期の精神文化がうかがえる貴重な遺跡です。出土品は200点を越える土偶のほか石棒、石剣、独鈷石、祭祀用土器などの祭祀遺物のほか、日用品や土製耳飾などの装身具のほか、動物遺体では縄文時代のツキノワグマ、イノシシ、ニホンジカ、ニホンカモシカなどが出土しています。

金生の村のくらし

金生遺跡では、石棒や立石を中心に円形や四角に石を配置してつくられた小さな配石が組み合わさった巨大な配石遺構が見られますが、この配石遺構全体の用途は一体何であったのか?私は青森県の三内丸山遺跡の配石墓を考慮すれば、一般人の墓ではなく、やはり特定の人を埋葬してそこでお祈りするような場ではなかったかなと思います。大小の石棒に加えて丸石もあり、また、祈りや祭りに使われたであろう土偶も非常に多いことから、墓を中心としてその祭りに使ったような施設がここにあったように感じられます。

金生遺跡の配石遺構

この金生遺跡のみならず、北杜市には旧石器時代以来の多くの遺跡が残され、縄文時代には華麗な土器文化が 花開き、そして甲斐源氏の祖、逸見清光は、この地で力を蓄え、後に戦国大名武田氏が誕生したのです。その清光が築いたと伝えられる谷戸城跡(国指定史跡)や縄文時代の金生遺跡(国指定)史跡から発掘された出土品は遺跡に近い「北杜市考古資料館」に展示されています。

「北杜市考古資料館」

星ヶ塔遺跡を調査した藤森栄一の縄文農耕論ゆかりの「井戸尻遺跡」

「井戸尻遺跡」は長野県諏訪郡富士見町、八ヶ岳南西麓の標高約900メートル前後の信濃境駅周辺に分布する縄文中期の集落遺跡群の総称で、厳密には井戸、曽利(そり)、井戸日向(ひなた)と新道(あらみち)、籠畑(かごはた)、九兵衛尾根(きゅうべえおね)、藤内(とうない)、狢沢(むじなざわ)の2群が近接して分布しています。

井戸尻遺跡

総計百数十軒の住居址とともに各種遺物が多数検出され、とりわけ豪華絢爛たる膨大な中期土器群は、縄文土器中の最高級品と評価されており、井戸尻遺跡は昭和41年に国の史跡に指定され、井戸尻考古館や民俗資料館、住居を復元して遺跡公園となりました。

井戸尻考古館

井戸尻考古館では、国の重要文化財「藤内遺跡出土品」「坂上遺跡の土偶」を はじめとする、日本列島の縄文文化を代表する土器が展示されており、土器の文様から「縄文図像学」の研究を進め、独自の縄文観を 発信し、日本の縄文研究をリードしてきました。

坂上遺跡の土偶「始祖女神像」

特に藤森栄一は八ヶ岳山麓地域において打製石斧や磨石、石皿の出土が多いことに着目し、井戸尻遺跡の調査結果を踏まえて「縄文農耕論」を提唱し、縄文中期に中部地方高地で特異的に出土する有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器の使用目的については種子の貯蔵説を主張しています。

今日では、三内丸山遺跡の調査でも縄文時代に栗の栽培等が行われていたことが分かっていますが、藤森の縄文農耕論の特徴は、稲籾などの自然遺物に頼ることなく、考古学の正道といわれる人工遺物の存在によって農耕を証明しようとしたことにあります。

縄文時代中期の宗教センター「藤内遺跡」

「藤内遺跡(とうないいせき)」は、約4500年前の縄文時代中期の“宗教センター”といってもい い最重要遺跡のひとつで、 正面に甲斐駒ヶ岳がそびえています。遺跡は信濃境駅の北西600m、切掛川と狢沢川に挟まれた、南西に緩く傾斜する尾根上に位置し、尾根は最も広いところで幅100m、長さは約400mで、この辺ではめずらしく、平坦な面をなしています。

藤内遺跡

戦後、開拓地として開墾されるなかで多くの遺物が発見され、昭和28年・29年、宮坂英弌(ふさかず)によって最初の発掘が行われ、住居址8軒が調査されましたが、これまでに神像筒形土器をはじめとする石器・土器199点が、国の重要文化財に指定されています。

日本有数の土偶を展示「釈迦堂遺跡博物館」

「釈迦堂遺跡博物館」は、昭和55年2月8日から翌56年11月15日まで、中央自動車道建設に先立って発掘調査された遺跡や土器を展示しています。釈迦堂遺跡は、中部高地の代表的な遺跡で、縄文人たちが作りだしだ30トンにも及ぶ土器や土偶が出土しており、この内、5,599点は国の重要文化財に指定されています。

釈迦堂遺跡

人気の「しゃかちゃん」「しゃっこちゃん」を始めとする土偶だけでも1,116点もの数を誇り、1遺跡からの出土数としては、日本有数の出土数となっています。また、約1,200個体の土器が復元されており、 縄文遺跡の土器としても全国有数の数を誇っています。古くは早期(約6,200年前)から、前期は(6,100~4,800年前)、 中期(4,800~4,050年前)、後期初頭(3,800年前)まであり、特に中期の物は出土量が多く、また全型式が揃っています。

「しゃかちゃん」「しゃっこちゃん」

「鋳物師屋遺跡(いもじやいせき)」と南アルプス市文化伝承館

縄文文化を代表する世界で最も有名な出土品は、この山梨県南アルプス市にある「ふるさと文化伝承館」に展示されている、鋳物師屋遺跡(いもじやいせき)からの出土品で、大英博物館にも展示されたという超有名な出土品です。その有名な土器の表面には人間が象られ、「人体文様付有孔顎付土器」という厳めしい名前がついた5,000年前の土器です。

人気の縄文土偶「ラヴィ」

また有名な「縄文のビーナス」と並び称される人気の土偶は、「円錐形土偶」と呼ばれ、高さが25cmと大型で、大きくお腹が膨らみ、妊婦さんが左手でお腹をさすっているように見える事から、”子宝の女神 ラヴィ”という愛称がついています。

縄文遺跡の中で最も標高の高い「大深山(おおみやま)遺跡」

「大深山遺跡(おおみやまいせき)」は、長野県南佐久郡川上村大字大深山にある縄文時代中期の集落跡で、天狗山の南麓、赤顔山(あかづらやま)の東南麓、千曲川右岸の南向きの標高1300mを越える平坦地に位置し、日本各地の縄文遺跡中最も標高の高い遺跡の一つです。

大深山遺跡

竪穴式住居跡が50箇所(中期中葉が25、中期後半が19、不明が7)、積石遺構、数万点に及ぶ土器、石器が出土しており、住居跡には2棟の住居が復元されています。完全な形で出土した人面香炉型土器(釣手土器、通称『ウルトラマン』)などの出土品は、川上村文化センターに保存展示されています。

人面香炉型土器「ウルトラマン」

日本人にとって縄文時代とは

縄文人は黒曜石を発見し、その石質に気付いて様々な道具を作ったことによって優れた縄文文化を築きましたが、黒曜石の輝きには星空のイメージがあり、日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」の構成文化財のある遺跡では、今も美しい星空を鑑賞できます。

また、この地で出土した有名な「仮面の女神」「縄文のビーナス」「子宝の女神」等の土偶を観察すると、縄文時代はやはり女性が生命の源で、感謝の対象として崇敬されていたと推定できます。

甲信縄文フェスティバルのシンボル

すなわち、縄文時代は女性の勤勉さと充足・安定を尊ぶ文化で、男性にとっての労働である狩猟闘争も認識しつつ、価値を見出していた平和な時代でした。それが弥生時代となり、稲作文化による階級社会が生まれ、明治以降のヨーロッパ文化によって日本は近代化しましたが、日本人の原点はやはり旅の始まった縄文時代かと思います。

日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!

「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されたことを記念して、私はみちのくを旅した芭蕉の研究本『松尾芭蕉の旅に学ぶ』と共に『縄文人からのメッセージ』というタイトルで縄文文化を語り、平成芭蕉の『令和の旅指南』シリーズ(Kindle電子本)として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。

また、日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』、感情の老化を防ぐ私の旅日記である『生まれ変わりの一人旅』とともにご一読下さい。

★平成芭蕉ブックス
 ①『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
 『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
 『松尾芭蕉の旅に学ぶ 令和の旅指南Ⅲ』:芭蕉に学ぶテーマ旅 「奥の深い細道」の旅
 ④『生まれ変わりの一人旅 令和の旅指南Ⅳ』: 感動を味わう一人旅のススメ
 ⑤『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅

平成芭蕉「令和の旅指南」シリーズ

私は平成芭蕉、自分の足と自分の五感を駆使して旅しています。

平成芭蕉のテーマ旅行

平成芭蕉の旅語録

平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。

「令和の旅」へ挑む平成芭蕉

★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」

*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照

 

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