令和の「平成芭蕉」

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平成芭蕉の旅語録

平成芭蕉の旅語録〜出雲の謎を紐解く鳥取・島根の古代遺跡巡り

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古代の歴史に触れる鳥取・島根の遺跡巡り

古代出雲の中心地 出雲国府跡

島根県の出雲地方といえば、大国主命をまつる出雲大社や数々の古代遺跡で知られる歴史の宝庫ですが、今回は鳥取県の妻木晩田遺跡から出雲大社までの古代遺跡を巡り、出雲地方の歴史の豊さをお伝えします。

妻木晩田遺跡

弥生集落の妻木晩田遺跡

弥生集落の妻木晩田遺跡

妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は、鳥取県西伯郡大山町から米子市淀江町に位置する国内最大級の弥生集落遺跡で、面積は156ヘクタールです。

山陰を代表する秀峰・大山のふもと「晩田山」の里山一帯に広がるこの遺跡は、ほぼ全域が国の史跡に指定されており、九州の吉野ヶ里遺跡の5倍の広さを誇ります。

弥生時代の建物群

妻木晩田遺跡では、丘陵の尾根上で生活した弥生人の痕跡が、広大な丘の上に残っており、 約2000年前~1700年前の竪穴住居跡が400棟以上、掘立柱建物跡が500棟以上、墳丘墓は30基以上見つかっています。

妻木晩田遺跡の弥生集落

特に妻木山地区では、遺跡が最盛期を迎える2世紀後半の住居が多く見つかっており、竪穴住居跡も円形や隅丸方形、多角形など様々な形のものがありました。

縦穴住居跡

また、洞ノ原地区では1世紀後半から2世紀前半頃の約100年間に大小25基の墳墓が造られており、四隅突出型墳丘墓と呼ばれる日本海沿岸地域特有のお墓も見つかっています。

洞ノ原墳丘墓

仙石地区では2世紀前半から3世紀前半の村の首長クラスの墳丘墓7基が見つかっていますが、この墓の上に立つと弓ヶ浜や日本海の絶景が広がっており、私には中国の歴史書『魏志倭人伝』に描かれた「山島に依りて国邑をなす」という一文が連想されました。

妻木晩田遺跡から眺める日本海

上淀廃寺跡

上淀廃寺跡は、飛鳥時代(7世紀終り頃)に建てられた寺院の跡です。古において淀江は日本海交易の重要な拠点として栄えており、上淀廃寺は交易で成功した地元の有力者が自分の富や権力を示すために建てたと考えられています。

上淀廃寺跡

平成3年(1991年)からの発掘調査で国内最古級仏教壁画片が大量に出土し、飛鳥時代の堂塔内部を復元しうる数少ない寺院跡として、平成8年(1996年)に国の史跡に指定されました。また、金堂の東に3塔を南北に配する設計も、堂塔配置が規格的である古代の寺院において他に例が無く、建立者の独立性が窺えるこの寺院の特徴です。井出挟3号古墳の周りの溝から「円筒埴輪・形象埴輪」が大量に発見され、形象埴輪は盾持人、鹿、鳥、家などの種類が出土。中でも西日本では出土例が少ない「盾持人」は3体ほぼ原型をとどめた形で発見されています。

鹿形埴輪

この南北に連なる3つの塔のうち、南側の2つの塔には建物の痕跡があるものの、北の塔は「心礎」と呼ばれる仏塔の中心の柱を受ける礎石しか見つかっておらず、実際に建っていたかどうかはわかっていません。

北塔の心礎

建立者もわかっていませんが、堂塔以外にも倉庫など多くの付属施設をもつ、地方では大規模な寺院で、壁画片の他、仏像片、瓦、土器、鉄器などが出土しています。

向山古墳群

向山古墳群は、淀江平野南東端の独立丘陵を中心に築造された14基の古墳群で、5世紀後葉~6世紀後葉に順次築造されました。中でも向山3号墳、同4号墳、石馬谷古墳、岩屋古墳は、西伯耆の代表的前方後円墳で、石馬谷古墳出土と伝える石馬(国重要文化財)から北部九州と、岩屋古墳の石室構造(石棺式)からは出雲地方との交流を窺うことができます。

向山古墳群

岩屋古墳(向山1号墳)は、全長52.0メートル、2段築成で葺石(ふきいし)を持つ前方後円墳で、水鳥、人物などの形象埴輪が出土しています。後円部に天井と各壁が一枚の巨石で作られている横穴式石室が開いており、副葬品はほとんど散逸していましたが、金銅製の馬具などが出土しています。

岩屋古墳

向山4号墳は、古墳群のなかで最大規模の全長64.5メートルの前方後円墳で、くびれ部に造りだしがあり、墳丘は2段築成で葺石がめぐります。石馬谷古墳(小枝山5号墳)は、全長61.2メートルの前方後円墳で墳丘は2段築成で葺石がみられ、石馬が立てられていたと伝えられています。

石馬谷古墳

八雲立つ風土記の丘資料館

八雲立つ風土記の丘は全国で6番目の風土記の丘として昭和47年にオープンしました。

八雲立つ風土記の丘

『出雲風土記』の意宇(おう)郡に登場する神名樋野(かむなびぬ)とされる茶臼山、意宇平野を望む丘陵上に、前方後円墳などの多くの古墳が分布するだけでなく、国庁、国分寺といった奈良時代の政治、経済、文化の中心地で、出雲国造家ゆかりの神社や寺もあり、文化財の一大宝庫です。

『出雲風土記』の神名樋野

その中心となる展示学習館には、風土記の丘近郊の出土品を始め、出雲国風土記の写本、圏内の古代史を語る多くの資料が展示してあります。

岡田山1号墳(前方後円墳)

施設内にある岡田山一号墳は6世紀後半に造られた前方後円墳ですが、調査の結果、墳丘は全長24mの2段造りで、墳丘斜面には葺石が貼られ、後方部には円筒埴輪と子持壺が並べられていました。

岡田山1号墳の副葬品

そしてこの古墳からは多くの副葬品が発見されましたが、「額田部臣」銘文入り大刀(国の重要文化財)は全国的な話題となりました。

「額田部臣」銘文入り太刀

人物埴輪群としては日本最古級(5世紀中頃)の石屋古墳出土埴輪などを展示する「出雲の埴輪」コーナーや「古墳が語る出雲の盟主への足取り」など、この施設では縄文時代、弥生時代、古墳時代、律令制の幕開けと、この地の歴史をしっかりと学ぶことができます。

「見返りの鹿」埴輪

古代出雲王陵の丘

荒島駅周辺には、弥生時代から古墳時代にかけての墳墓が集中しており、この荒島墳墓群の特徴は500年間という長い期間、絶えることなく豪族の墓が築かれた点にあります。

この内、仲仙寺(ちゅうせんじ)・宮山(みややま)・塩津山(しおつやま)・造山(つくりやま)の4ヶ所は公園として整備され、総称して「古代出雲王陵の丘」と呼ばれています。

塩津山公園の四隅突出型古墳

仲仙寺公園と宮山公園には弥生時代の四隅突出王墓が、造山公園には方墳や前方後方墳などの古墳があり、標高約50mの墳丘上からは中海をはじめ遠くには島根半島も一望でき、雄大な眺望が広がります。

造山公園の前方後円墳

塩津山公園の6・10号墓は、出雲東部最大級の四隅突出墓で一辺30m以上、突出部を含めると40mにもなります。1号墳はこの地に最初に造られた古墳で、四隅突出型の特徴を残しています。近くの塩津神社古墳は古墳時代後期に丘陵の裾に築かれた古墳で、石室を覆っていた墳丘は失われ、家形の石棺式石室が現れています。

塩津神社古墳

出雲国国府跡と六所神社

出雲国国府跡は松江市の南東6キロメートル離れた意宇(おう)平野に位置しており、『出雲国風土記』には国庁としての記述がありましたが、長らく具体的な場所は特定されていませんでした。

しかし、江戸時代に書かれた大草村検地帳に字名「こくてう」が発見され、六所神社周辺であることが判明しました。

出雲国府跡は古代史上極めて重要な遺跡で、発掘調査により整然と並ぶ奈良時代の建物跡や文書行政が行われていたことを示す木簡、墨書土器などが見つかっています。

出雲国府跡

この国府は奈良時代の国庁と周辺の公的施設からなりますが、『出雲国風土記』の記載から、付近には意宇郡家、黒田駅、意宇軍団などの国府以外の施設もあったことが確認されました。

出雲国府の後方官衙

そして国庁正殿と隣接して六所神社があり、これは出雲国意宇六社の一つで出雲国の総社です。出雲国意宇六社は、「六社さん」という名前でも親しまれていて、6社を順番に回っていく「六社参り」が有名です。

出雲国の総社「六所神社」

そんな「六所神社」には「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」「天照皇大神(あまてらすおおみかみ)」「伊邪那美命(いざなみのみこと)」「月夜見命(つくよみのみこと)」「大己貴命(おおなむちのみこと)」「素盞鳴尊命(すさなおのみこと)」の六柱が祀られています。

六所神社のしめ縄

この「六所神社」の社殿は、瓦屋根と大きなしめ縄が特徴で、決して派手ではありませんがどこかキリッとした空気が漂っていて、厳格な雰囲気が感じられます。

山代二子塚古墳

6世紀中頃から7世紀にかけて、茶臼山西側の台地には相次いで大型の古墳が築かれ、これらは山代・大庭古墳群と呼ばれています。茶臼山は『出雲国風土記』に神名樋野(かんなびぬ)と記された山(標高171.5 m)で、古代から神の籠もるところとして信仰され、西から見るときれいな富士山の形をしています。

山代二子塚古墳

山代二子塚古墳は古墳時代の後期である6世紀後半に造られた全長94mもある島根県内最大級の古墳で、1924年には国の史跡に指定されています。

前方後方墳の山代二子塚古墳

古墳の形は上から見ると、四角形と台形をつないだ前方後方墳と呼ばれるタイプで、同時期の前方後方墳としては全国でも最大規模です。

また、1925年に刊行された『島根県史』で、郷土史家である野津左馬之助により日本で初めて「前方後方墳」という名が使用された、学史的にも有名な古墳で、墳丘の周囲には幅7m、深さ2mの堀がめぐり、さらに外側には外堤と呼ばれる土手があったと考えられています。

山代二子塚古墳の解説パネル

明治時代に後方部の一部が削られて失われましたが、現在は整備されて古墳の土層の見学もできるようになっており、内部は黒色土と黄色土が交互に盛られて突き固められており、古墳内部に水が浸透しない構造になっています。

山代二子塚古墳の土層

この古墳は出雲西部の今市大念寺古墳(全長90メートルの前方後円墳)とほぼ同時期に営まれたと考えられており、出雲の東・西に二つの勢力があったと推測されています。

隣接するガイダンス山代の郷は、山代二子塚古墳のガイダンス施設であるとともに、周辺の遺跡・古墳の見学拠点にもなっていて、 施設内には解説ビデオが視聴できる映写室、石棺式石室の実物大模型(向山1号墳)や古墳に関する解説パネルなどが設置されており、古墳見学の知識を得るにはおすすめです。

今市大念寺古墳

今市大念寺古墳(いまいちだいねんじこふん)は、島根県出雲市今市町鷹の沢にある古墳で、国の史跡に指定され、出土品は出雲市指定有形文化財に指定されています。

今市大念寺古墳

古墳時代後期(約1450年前)に造られた,県内最大(全長約92m)の前方後円墳で、後円部には巨石を積み上げた横穴式石室があり,その規模は全長約12.8m・高さ3.3mです。石室の中には,大小2基の家形石棺が置かれ、奥にある石棺は日本最大級の大きさで、重さは推定10tにもなります。

今市大念寺古墳の石棺

江戸時代に石室が発見された時、多くの副葬品が出土しました。出雲西部に君臨していた権力者の墓と考えられており、出土品を描いた絵図(コピー)が出雲弥生の森博物館にあります。

加茂岩倉遺跡

加茂岩倉遺跡は島根県雲南市加茂町岩倉にある弥生時代の遺跡ですが、平成8(1996)年10月14日、農道の工事中に偶然発見され、重機によっておびただしい数の銅鐸が掘り起こされました。

加茂岩倉遺跡

加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸は、約45cm大のものが20個、約30cm大のものが19個で合計39個でした。そして大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を納めるという、いわゆる「入れ子」状態で見つかりました。加茂岩倉銅鐸は、この「入れ子」状態の銅鐸埋納が調査によって確認された初めての例でした。

銅鐸が発見された埋納坑

銅鐸が埋められていた穴(埋納坑)は、工事によってその大半が破壊されていましたが、かろうじてその一部が残り、そこには約2000年前に埋められたままの状態で身を横たえた銅鐸が姿を見せていたのです。

加茂岩倉遺跡

加茂岩倉銅鐸の特徴は、銅鐸の表面に鋳出された写実性に富む絵画です。鹿、トンボ、猪、亀や人面などの絵が、39個のうち7個の銅鐸に描かれていました。

加茂岩倉遺跡の銅鐸

使用目的は農業の豊作を願った祭器説など諸説ありますが、銅鐸には大きく分けて二種類あります。古いタイプは、揺り動かして鳴らす機能があるので「聞く銅鐸」、そして新しいタイプはその機能を失ってしまう一方、大型化しているので「見る銅鐸」と言われています。

荒神谷遺跡

荒神谷遺跡は、『出雲国風土記』記載の神名火山に比定されている仏経山の北東3kmに位置する斐川町神庭西谷にあり、昭和58(1983)年、広域農道の出雲ロマン街道建設に伴う遺跡分布調査で、調査員が一片の土器(古墳時代の須恵器)を拾ったことがきっかけで発見されました。

荒神谷遺跡

遺跡の南側に「三宝荒神」が祀られていることから荒神谷遺跡と命名され、昭和59年、谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣が出土し、また平成13年には3m行った山あいに弥生時代中期後半の集落跡も見つかっています。

荒神谷遺跡の発見場所

銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面で、昭和60年にはその地点からわずか7m離れて銅鐸と銅矛も出土しました。

荒神谷で銅剣が発見されたとき、全国の銅剣出土総本数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土したため、わが国の弥生時代の青銅器研究の見直しを迫る大きな出来事となりました。

荒神谷遺跡の解説

銅剣のすぐ近くに埋められていた銅鐸6個と銅矛16本の組み合わせは、これまでに例のないもので、銅鐸には国内最古形式のものが含まれており、銅矛には北部九州で出土する綾杉状の文様がありました。

荒神谷史跡公園の2000年ハス

また、この遺跡は平成7年、「荒神谷史跡公園」として整備され、毎年6月中旬~7月下旬にかけて5万本の古代ハスの花が咲くお花見の名所となっています。私にとってハスは観音様を連想させるので、開花時に訪れると幸せな気分になれました。

西谷墳墓群史跡公園

西谷墳墓群史跡公園は、出雲市街南東部の標高40m程度の丘陵に位置し、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀にかけて築造された古墳群です。昭和28(1953)年に確認され、現在は27号までと番外5号までの計32基の墳墓が確認されています。このうち、1〜4・6・9の6基が四隅突出型墳丘墓で、出雲地方を中心とした特徴的な形をしています。

西谷墳墓群

弥生時代後期~終末期には「四隅突出型墳丘墓」が,古墳時代の前半には「古墳」が,古墳時代の終わりごろには「横穴墓」が造られており、奈良時代には横穴墓への埋葬が行われたほか,「火葬墓」も造られました。

四隅突出型墳墓の西谷3号墳墓

1983年より島根大学考古学研究室によって3号墓を中心に発掘調査が行われ、水銀朱や弥生式土器が出土し、祭祀の跡も確認されました。これらの様子からこの時代の出雲地方に「王」が存在したことが伺えます。2000年に国の史跡に指定され、現在、1号墓〜6号墓の並ぶ丘陵が「西谷墳墓群史跡公園・出雲弥生の森」として整備が勧められています。

出雲弥生の森

特に3号墓の墳丘頂上には8つの埋葬施設があり、管玉や勾玉だけでなく多くの土器や鉄器も発掘されました。この土器の中には吉備の特殊器台・特殊壺に似ているものもありました。

出雲大社

八雲立つ出雲の国が神の国・神話の国として知られているのは、神々をお祭りする古い神社が今もいたる所に鎮座しているからであり、そしてその中心が大国主大神さまをお祀りする出雲大社です。

「神話のふるさと出雲」の象徴であり、縁結びの神・福の神として名高い出雲大社(いづもおおやしろ)は、かつては杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれ、 御祭神は「因幡のしろうさぎ神話」で有名な大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)で、広く「だいこくさま」として慕われています。

縁結びの出雲大社

一般の神社参拝では、手水舎で手と口を清めてお参りするというのが基本的な流れですが、出雲大社では手水舎の前に正門の勢溜(せいだまり)の大鳥居(二の鳥居)から参道に入り、すぐ右手にある摂社「祓社(はらえやしろ)」へお参りするのが正式な参拝ルートとされています。祓社には祓井神(ハライドノカミ)四柱が祀られており、ここで身についた穢れ(けがれ)を落とした後に参拝するのが習わしです。

日本神話の逸話が残る出雲大社とその周辺観光スポットを厳選してご紹介!│近畿日本ツーリスト

祓い清めてくれる祓井神(ハライドノカミ)

鉄製の中の鳥居(三の鳥居)からお社へ続く参道は、樹齢400年を越える松並木になっていますが、銅の鳥居の右手手前には「ムスビの御神像」と呼ばれる両手を広げた大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)の石像と、その前に鎮座した黄金色の球の像があります。また、左手の手水舎の脇には、『因幡の白兎』の神話で有名なシーンを再現した「御慈愛の御神像」もあります。

「因幡の白兎」の主人公の大国主命

参道が終わり、銅の鳥居(四の鳥居)をくぐると正面に見えるのが拝殿で、出雲大社における神様へのお願いは、この拝殿で「2礼4拍手1礼」の手を4回叩くのが正しい作法です。次に拝殿の後方に回ると玉垣(たまがき)に囲まれた御本殿の大屋根が見えてきますが、御本殿前に立つ八足門(やつあしもん)から御本殿を望みながら参拝します。

御本殿は2013年の「平成の大遷宮」で60年ぶりに修造が施され、美しく蘇ったばかりです。瑞垣に囲まれている御本殿は、反時計回りに巡りますが、真後ろには大国主大神の親神でありヤマタノオロチ退治で有名なスサノオノミコトをお祀りする素鵞社(そがのやしろ)が鎮座しています。そして御本殿を囲む玉垣の西側には、ひっそりと本殿西遥拝場がありますが、ここは大国主大神の正面に向かってお参りすることができる、隠れた貴重な場所となっています。

大国主大神のご神名の一つに「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」がありますが、それは遠く神代の昔、私たちの祖先と喜びや悲しみを共にしながら、国土を開拓されたことに由来しており、これが「国づくり」の大業です。

大国主大神様が国づくりによって築かれた国は「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれ、あらゆるものが豊かに、力強くある国でした。大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族にあまねく照らし治める天照大神様へとおかえし(国譲り)になりました。

出雲大社のしめ縄

今では広く「縁結び」の神として人々に慕われていますが、この「縁」は男女の縁だけでなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための尊い結びつきなのです。

日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!

「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はこのたび『縄文人からのメッセージ』というタイトルで令和の旅を語り、Amazonの電子本として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。

★平成芭蕉ブックス
 ①『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
 ②『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
 『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅 

平成芭蕉ブックス『令和の旅指南』

私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。

平成芭蕉のテーマ旅行

平成芭蕉の旅語録

平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。

「令和の旅」へ挑む平成芭蕉

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