出雲の謎を紐解く鳥取・島根の古代遺跡巡り | 【黒田尚嗣】平成芭蕉の旅物語

令和の「平成芭蕉」

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平成芭蕉の旅語録

出雲の謎を紐解く鳥取・島根の古代遺跡巡り

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私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って「共感」する旅をしています

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平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。

*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照

古代の歴史に触れる鳥取・島根の遺跡巡り

古代出雲の中心地 出雲国府跡

島根県の出雲地方といえば、大国主命をまつる出雲大社や数々の古代遺跡で知られる歴史の宝庫ですが、今回は鳥取県の妻木晩田遺跡から出雲大社までの古代遺跡を巡り、出雲地方の歴史の豊さをお伝えします。

妻木晩田遺跡

弥生集落の妻木晩田遺跡

弥生集落の妻木晩田遺跡

妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は、鳥取県西伯郡大山町から米子市淀江町に位置する国内最大級の弥生集落遺跡で、面積は156ヘクタールです。

山陰を代表する秀峰・大山のふもと「晩田山」の里山一帯に広がるこの遺跡は、ほぼ全域が国の史跡に指定されており、九州の吉野ヶ里遺跡の5倍の広さを誇ります。

弥生時代の建物群

妻木晩田遺跡では、丘陵の尾根上で生活した弥生人の痕跡が、広大な丘の上に残っており、 約2000年前~1700年前の竪穴住居跡が400棟以上、掘立柱建物跡が500棟以上、墳丘墓は30基以上見つかっています。

妻木晩田遺跡の弥生集落

特に妻木山地区では、遺跡が最盛期を迎える2世紀後半の住居が多く見つかっており、竪穴住居跡も円形や隅丸方形、多角形など様々な形のものがありました。

縦穴住居跡

また、洞ノ原地区では1世紀後半から2世紀前半頃の約100年間に大小25基の墳墓が造られており、四隅突出型墳丘墓と呼ばれる日本海沿岸地域特有のお墓も見つかっています。

洞ノ原墳丘墓

仙石地区では2世紀前半から3世紀前半の村の首長クラスの墳丘墓7基が見つかっていますが、この墓の上に立つと弓ヶ浜や日本海の絶景が広がっており、私には中国の歴史書『魏志倭人伝』に描かれた「山島に依りて国邑をなす」という一文が連想されました。

妻木晩田遺跡から眺める日本海

八雲立つ風土記の丘資料館

八雲立つ風土記の丘は全国で6番目の風土記の丘として昭和47年にオープンしました。

八雲立つ風土記の丘

『出雲風土記』の意宇(おう)郡に登場する神名樋野(かむなびぬ)とされる茶臼山、意宇平野を望む丘陵上に、前方後円墳などの多くの古墳が分布するだけでなく、国庁、国分寺といった奈良時代の政治、経済、文化の中心地で、出雲国造家ゆかりの神社や寺もあり、文化財の一大宝庫です。

『出雲風土記』の神名樋野

その中心となる展示学習館には、風土記の丘近郊の出土品を始め、出雲国風土記の写本、圏内の古代史を語る多くの資料が展示してあります。

岡田山1号墳(前方後円墳)

施設内にある岡田山一号墳は6世紀後半に造られた前方後円墳ですが、調査の結果、墳丘は全長24mの2段造りで、墳丘斜面には葺石が貼られ、後方部には円筒埴輪と子持壺が並べられていました。

岡田山1号墳の副葬品

そしてこの古墳からは多くの副葬品が発見されましたが、「額田部臣」銘文入り大刀(国の重要文化財)は全国的な話題となりました。

「額田部臣」銘文入り太刀

人物埴輪群としては日本最古級(5世紀中頃)の石屋古墳出土埴輪などを展示する「出雲の埴輪」コーナーや「古墳が語る出雲の盟主への足取り」など、この施設では縄文時代、弥生時代、古墳時代、律令制の幕開けと、この地の歴史をしっかりと学ぶことができます。

出雲国国府跡と六所神社

出雲国国府跡は松江市の南東6キロメートル離れた意宇(おう)平野に位置しており、『出雲国風土記』には国庁としての記述がありましたが、長らく具体的な場所は特定されていませんでした。

しかし、江戸時代に書かれた大草村検地帳に字名「こくてう」が発見され、六所神社周辺であることが判明しました。

出雲国府跡は古代史上極めて重要な遺跡で、発掘調査により整然と並ぶ奈良時代の建物跡や文書行政が行われていたことを示す木簡、墨書土器などが見つかっています。

出雲国府跡

この国府は奈良時代の国庁と周辺の公的施設からなりますが、『出雲国風土記』の記載から、付近には意宇郡家、黒田駅、意宇軍団などの国府以外の施設もあったことが確認されました。

出雲国府の後方官衙

そして国庁正殿と隣接して六所神社があり、これは出雲国意宇六社の一つで出雲国の総社です。出雲国意宇六社は、「六社さん」という名前でも親しまれていて、6社を順番に回っていく「六社参り」が有名です。

出雲国の総社「六所神社」

そんな「六所神社」には「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」「天照皇大神(あまてらすおおみかみ)」「伊邪那美命(いざなみのみこと)」「月夜見命(つくよみのみこと)」「大己貴命(おおなむちのみこと)」「素盞鳴尊命(すさなおのみこと)」の六柱が祀られています。

六所神社のしめ縄

この「六所神社」の社殿は、瓦屋根と大きなしめ縄が特徴で、決して派手ではありませんがどこかキリッとした空気が漂っていて、厳格な雰囲気が感じられます。

山代二子塚古墳

6世紀中頃から7世紀にかけて、茶臼山西側の台地には相次いで大型の古墳が築かれ、これらは山代・大庭古墳群と呼ばれています。茶臼山は『出雲国風土記』に神名樋野(かんなびぬ)と記された山(標高171.5 m)で、古代から神の籠もるところとして信仰され、西から見るときれいな富士山の形をしています。

山代二子塚古墳

山代二子塚古墳は古墳時代の後期である6世紀後半に造られた全長94mもある島根県内最大級の古墳で、1924年には国の史跡に指定されています。

前方後方墳の山代二子塚古墳

古墳の形は上から見ると、四角形と台形をつないだ前方後方墳と呼ばれるタイプで、同時期の前方後方墳としては全国でも最大規模です。

また、1925年に刊行された『島根県史』で、郷土史家である野津左馬之助により日本で初めて「前方後方墳」という名が使用された、学史的にも有名な古墳で、墳丘の周囲には幅7m、深さ2mの堀がめぐり、さらに外側には外堤と呼ばれる土手があったと考えられています。

山代二子塚古墳の解説パネル

明治時代に後方部の一部が削られて失われましたが、現在は整備されて古墳の土層の見学もできるようになっており、内部は黒色土と黄色土が交互に盛られて突き固められており、古墳内部に水が浸透しない構造になっています。

隣接するガイダンス山代の郷は、山代二子塚古墳のガイダンス施設であるとともに、周辺の遺跡・古墳の見学拠点にもなっていて、 施設内には解説ビデオが視聴できる映写室、石棺式石室の実物大模型(向山1号墳)や古墳に関する解説パネルなどが設置されており、古墳見学の知識を得るにはおすすめです。

加茂岩倉遺跡

加茂岩倉遺跡は島根県雲南市加茂町岩倉にある弥生時代の遺跡ですが、平成8(1996)年10月14日、農道の工事中に偶然発見され、重機によっておびただしい数の銅鐸が掘り起こされました。

加茂岩倉遺跡

加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸は、約45cm大のものが20個、約30cm大のものが19個で合計39個でした。そして大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を納めるという、いわゆる「入れ子」状態で見つかりました。加茂岩倉銅鐸は、この「入れ子」状態の銅鐸埋納が調査によって確認された初めての例でした。

銅鐸が発見された埋納坑

銅鐸が埋められていた穴(埋納坑)は、工事によってその大半が破壊されていましたが、かろうじてその一部が残り、そこには約2000年前に埋められたままの状態で身を横たえた銅鐸が姿を見せていたのです。

加茂岩倉遺跡

加茂岩倉銅鐸の特徴は、銅鐸の表面に鋳出された写実性に富む絵画です。鹿、トンボ、猪、亀や人面などの絵が、39個のうち7個の銅鐸に描かれていました。

加茂岩倉遺跡の銅鐸

使用目的は農業の豊作を願った祭器説など諸説ありますが、銅鐸には大きく分けて二種類あります。古いタイプは、揺り動かして鳴らす機能があるので「聞く銅鐸」、そして新しいタイプはその機能を失ってしまう一方、大型化しているので「見る銅鐸」と言われています。

荒神谷遺跡

荒神谷遺跡は、『出雲国風土記』記載の神名火山に比定されている仏経山の北東3kmに位置する斐川町神庭西谷にあり、昭和58(1983)年、広域農道の出雲ロマン街道建設に伴う遺跡分布調査で、調査員が一片の土器(古墳時代の須恵器)を拾ったことがきっかけで発見されました。

荒神谷遺跡

遺跡の南側に「三宝荒神」が祀られていることから荒神谷遺跡と命名され、昭和59年、谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣が出土し、また平成13年には3m行った山あいに弥生時代中期後半の集落跡も見つかっています。

荒神谷遺跡の発見場所

銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面で、昭和60年にはその地点からわずか7m離れて銅鐸と銅矛も出土しました。

荒神谷で銅剣が発見されたとき、全国の銅剣出土総本数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土したため、わが国の弥生時代の青銅器研究の見直しを迫る大きな出来事となりました。

荒神谷遺跡の解説

銅剣のすぐ近くに埋められていた銅鐸6個と銅矛16本の組み合わせは、これまでに例のないもので、銅鐸には国内最古形式のものが含まれており、銅矛には北部九州で出土する綾杉状の文様がありました。

荒神谷史跡公園の2000年ハス

また、この遺跡は平成7年、「荒神谷史跡公園」として整備され、毎年6月中旬~7月下旬にかけて5万本の古代ハスの花が咲くお花見の名所となっています。私にとってハスは観音様を連想させるので、開花時に訪れると幸せな気分になれました。

西谷墳墓群史跡公園

西谷墳墓群史跡公園は、出雲市街南東部の標高40m程度の丘陵に位置し、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀にかけて築造された古墳群です。昭和28(1953)年に確認され、現在は27号までと番外5号までの計32基の墳墓が確認されています。このうち、1〜4・6・9の6基が四隅突出型墳丘墓で、出雲地方を中心とした特徴的な形をしています。

西谷墳墓群

弥生時代後期~終末期には「四隅突出型墳丘墓」が,古墳時代の前半には「古墳」が,古墳時代の終わりごろには「横穴墓」が造られており、奈良時代には横穴墓への埋葬が行われたほか,「火葬墓」も造られました。

四隅突出型墳墓の西谷3号墳墓

1983年より島根大学考古学研究室によって3号墓を中心に発掘調査が行われ、水銀朱や弥生式土器が出土し、祭祀の跡も確認されました。これらの様子からこの時代の出雲地方に「王」が存在したことが伺えます。2000年に国の史跡に指定され、現在、1号墓〜6号墓の並ぶ丘陵が「西谷墳墓群史跡公園・出雲弥生の森」として整備が勧められています。

出雲弥生の森

特に3号墓の墳丘頂上には8つの埋葬施設があり、管玉や勾玉だけでなく多くの土器や鉄器も発掘されました。この土器の中には吉備の特殊器台・特殊壺に似ているものもありました。

出雲大社

八雲立つ出雲の国が神の国・神話の国として知られているのは、神々をお祭りする古い神社が今もいたる所に鎮座しているからであり、そしてその中心が大国主大神さまをお祀りする出雲大社です。

出雲大社の大国主命

大国主大神のご神名の一つに「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」がありますが、それは遠く神代の昔、私たちの祖先と喜びや悲しみを共にしながら、国土を開拓されたことに由来しており、これが「国づくり」の大業です。

縁結びの出雲大社

大国主大神様が国づくりによって築かれた国は「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれ、あらゆるものが豊かに、力強くある国でした。大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族にあまねく照らし治める天照大神様へとおかえし(国譲り)になりました。

出雲大社のしめ縄

今では広く「縁結び」の神として人々に慕われていますが、この「縁」は男女の縁だけでなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための尊い結びつきなのです。

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