日本遺産を旅する 伊勢神宮の天照大神に仕えた皇女斎王のみやこ「斎宮」
平安時代へタイムスリップ 三重県明和町の「幻の宮」斎宮を訪ねる旅
伊勢の神宮には何度もお参りしていても、神宮にゆかりのある「斎宮(さいくう)」を知っている人は少ないようです。「斎宮」は源氏物語にも登場し、約660年もの間、続いた歴史があるものの、その実態はまだまだ謎が多く、また、斎宮の主であった斎王(さいおう)についてもあまり知られてはいません。
斎王とは、その昔、天皇の代わりに神宮の神様に仕えるために選ばれた未婚の皇女のことで、約500人もの付き人を連れて、都から神宮に近い役所である斎宮へ旅立ち、天皇が代わるまでの間ずっとそこで生活をしていました。
斎王に選ばれると、俗世間から離れ、家族や恋人からも引き離され、潔白な身で伊勢へと旅立ち、天皇の交替、身内の不幸などがない限り、都へ戻ることは許されませんでした。そんな悲しい運命を辿った、斎王は672年(天武天皇元年)の壬申の乱から約660年、60人ほどが選ばれたと言われていますが、多くの謎に包まれています。
そしてその神宮に近い斎王が生活していたお役所のあった場所が斎宮であり、「いつきのみや」とも呼ばれていました。そこで、私はこの斎宮の魅力を体感すべく、その斎宮のあった三重県明和町を旅してきましたが、明和町は伊勢神宮手前の伊勢街道沿いにあり、町全体で斎宮を体感できる魅力ある町で、近鉄斎宮駅を降りると、目の前が斎宮跡となっています。
日本神話と斎王の始まり
斎王の歴史は日本神話の時代までさかのぼります。第10代崇神(すじん)天皇の御代、世の中に病気が流行ったので、天皇は大和の宮廷で祀っていた太陽神の天照大神を別の清浄な地でお祀りするように皇女の豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じました。
この豊鋤入姫命は最初に宮廷に近い「笠縫邑(かさぬいむら)」〔奈良県桜井市の檜原神社に比肩〕に祀り、初代斎王とされています。しかし、天照大神がさらに清浄な地を求めて旅に出ることになり、豊鋤入姫命は第11代垂仁(すいにん)天皇の娘の倭姫命(やまとひめのみこと)に跡を引き継ぎました。
大淀の佐々夫江行宮(ささぶえあんぐう)跡
そこで、倭姫命は大和を離れ、さらに良い地を求めて伊賀、近江、美濃、尾張などの諸国を巡りました(倭姫命の巡行)。倭姫命は天照大神の代わりとなって鎮座の場所を探す「御杖代(みつえしろ)」と呼ばれ、これが天皇の代わりに天照大神に仕える「斎王」の始まりとなったのです。
そして、長い旅の末にたどり着いたのが現在の明和町大淀(おおよど)で、かつてはこの地も伊勢国(いせのくに)であり、伊勢神宮への入り口と考えられていたのです。
また、舟でこの地に着いた倭姫命は、海が大いに淀んで航海がしやすかったので、「大淀(おおよど)」と命名し、仮の宮となる「佐々夫江行宮(ささぶえあんぐう)」を造営し、天照大神をお祀りしましたが、最終的に五十鈴川のほとりに鎮座されることになりました。
真鶴の伝説 カケチカラ発祥の地
伊勢神宮のお祭りの中でも最も重要な神嘗祭(かんなめさい)では、神宮ご正殿の玉垣に稲穂の束を掛け、その年に収穫された新米を天照大神に捧げて感謝する「懸税(かけちから)」行事が行われます。
『倭姫命世記』による伝承では、倭姫命が佐々夫江の行宮におられたとき、行宮前の葦原の中で1羽の真鶴が鳴いており、その近くに寄ってみると葦原の中に1本の稲が生えていました。その稲は、根元の部分は1本ですが、先端には八百の穂がついており、真鶴はその稲穂をくわえて持ち上げ、神に捧げるかのような格好をしました(真鶴伝説)。
倭姫命は、それを大税(おおちから)として天照大神のご神前に納められたとされ、これが「カケチカラの発祥」となったと言われています。明和町根倉にある「カケチカラ発祥の地」には鳥居と石碑が建てられていますが、根倉は古来には稲倉とも呼ばれており、昔から多くの米が作られていました。
斎王と祓川(はらいがわ)
「壬申の乱」で勝利を願って天照大神に気乗りを捧げた大海人皇子(おおあまのおうじ)〔後の天武天皇〕が勝利した後に、皇女(娘)である大来皇女(おおくのひめみこ)を斎王として伊勢に向かわせたのが「斎王制度」の始まりとされています。
斎王になると、宮中に定められた初斎院(しょさいいん)に入り、翌年の秋に都の郊外の野宮(ののみや)に移り潔斎の日々を送り、身を清めました。その翌年9月に、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめのまつり)に合わせて都を旅立ちますが、出発日の朝、斎王は野宮を出て葛野川(現在の桂川)で禊(みそぎ)を行い、大極殿での発遣の儀式に臨みます。
大極殿で天皇は、斎王の額髪に小さな櫛を挿し、「都の方におもむきたもうな」と告げましたが、この儀礼は、発遣儀式のクライマックスともいうべきもので、「別れのお櫛」という名で呼ばれていました。
その齋王を護るため、京の都を出発する長奉送使以下500人を越える人々の行列、これを「群行」と呼び、その道中で泊まられる所を「頓宮(とんぐう)」といいますが、群行の都度、仮宮として設けられました。三重県の柘植川と倉部川の合流点近く、中柘植字塚原の一角に古来より「斎宮芝」というところがあり頓宮の場所とされています。
この「斎王制度」ができると、都からの斎王群行ルートが決まり、斎王が都から斎宮まで群行する際、斎王は伊勢神宮の入り口である「祓川(はらいがわ)」で禊(みそぎ)をします。これは都から数えて6回目となる最後の禊で、祓川が神の世界との境界になっていました。
斎王尾野湊御禊場跡と竹川の花園
斎王の主な役目は、天皇に代わって9月の神嘗祭(かんなめさい)と6月、12月の月次祭(つきなみさい)に伊勢神宮に行き、天照大神に仕えることでした。最も重要な神嘗祭では「尾野湊(おののみなと)」と呼ばれた大淀海岸で海の禊を行っていましたが、月次祭の禊は斎宮に近い祓川で行われていたようです。
大淀海岸の業平松(なりひらまつ)の近くには「斎王尾野湊御禊場跡(さいおうおののみなとおんみそぎばあと)」と書かれた石碑が建てられています。
「業平松」は平安時代に架かれた『伊勢物語』の中に、在原業平と当時の斎王をモデルとした「狩の使(つかい)」の話があり、2人が別れを惜しんで歌を詠み交わしたことから命名されました。和歌の才能にあふれた在原業平と麗しい斎王の恬子(やすこ)内親王との儚い斎宮での一夜の恋で、斎王が別れを惜しみ、歌を詠み交わしたという故事にあやかって、大淀にある松を「業平松」と呼ぶようになったと言われています。
また、同じ平安時代に架かれた『源氏物語』に登場する六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の物語も斎王にまつわる話で、「竹河」の帖(じょう)の竹河も祓川を指すと言われています。実際、「竹河の花園」は、明和町の竹川付近にあったとされ、「竹園旧址」と書かれた石碑があり、そこには歌が刻まれています。
斎宮での暮らし
斎王の斎宮での暮らしは、天照大神に祈りを捧げる慎ましやかな生活の一方で、日常生活は「貝合せ」や「盤双六」をしながら歌を詠むといった雅な生活でした。それを証明するように斎宮跡からは、祭祀に使われたであろう朱塗りの土馬(どば)や特別な硯「蹄脚硯(ていきゃくけん)」、貴族が使っていた高級な緑釉陶器(りょくゆうとうき)などが数多く出土しています。
660年間も続いた斎王制度ですが、、建武新政の崩壊で国が乱れた南北朝時代に終わりを迎え、後醍醐天皇の娘祥子が最後でした。そして、斎宮は「幻の宮」となりましたが、「斎王の森」が地元で斎王の宮殿があった場所として語り継がれ、黒木の鳥居と「斎王宮址」の石碑が建てられています。
「幻の宮」と史跡公園「さいくう平安の杜」
斎宮跡の調査が始まったのは、斎王制度がなくなってから約700年後の1970年代で、発掘調査によって「幻の宮」とされてきた斎宮がよみがえってきました。斎王が住んだ宮殿には、斎宮寮という役所があり、この斎宮寮の長官が重要な儀式を行ったり、都からの遣いのものをもてなしました。
その中心である斎宮寮庁の中心的な建物は「さいくう平安の杜」に実物大で復元され、正殿、西脇殿、東脇殿の建物も、発掘調査で見つかった柱跡に造られました。
この「さいくう平安の杜」は史跡公園になっており、15mの幅がある「方格地割(ほうかくちわり)」の道路も復元されています。
「斎宮歴史博物館」と「いつきのみや歴史体験館」
しかし、斎王のことを詳しく知るにはやはり「斎宮歴史博物館」を尋ねる必要があります。
斎王が都から斎宮に向かうときに乗った輿「葱花輦(そうかれん)」の模型や資料、斎王が行う祭祀の様子を再現した映像などで、斎王の役割や斎宮の様子を紹介しています。
また、「いつきのみや歴史体験館」では、貝合せや蹴鞠(けまり)など当時の遊びや、十二単(じゅうにひとえ)の試着など、斎宮がもっとも栄えた平安時代の文化を身近に体験することができるのでお勧めです。
いつきのみや歴史体験館の隣には、当時の斎宮における建築群を復元した1/10サイズの模型がありますが、この碁盤の目状に区分けされた形は、京の都と同じです。
斎王の宮殿のあった竹神社(野々宮)
京都嵐山には斎王が体を清めた縁結びで有名な野宮(ののみや)神社がありますが、明和町の竹神社は江戸時代には「野々宮」と呼ばれ、斎王の宮があった神聖な場所に鎮座しています。
昭和時代に行われた竹神社の発掘調査では、神社の周りから平安時代の大きな板塀跡が見つかり、塀は斎王の宮殿(内院)のなかが見えないように造られていました。さらに日本最古の「いろは歌墨書土器」が発見され、斎王に仕える女官が文字を覚えるために書いたものとされています。
平安時代には、ひらがなは主に女性が書くとされていたので、この斎宮にはおおくの女性がいたことがわかります。この斎宮跡を訪れると、斎王の存在が、当時の文化に大きな影響を与えていたことが実感され、『源氏物語』や『伊勢物語』など、平安時代の宮中を舞台とした王朝文学を読んでみたくなりました。
「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」
所在自治体〔三重県:明和町〕地域型
古代から中世にわたり、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えた「斎王」は、皇女として生まれながら、都から離れた伊勢の地で、人と神との架け橋として、国の平安と繁栄を願い、神への祈りを捧げる日々を送った。
斎王の宮殿である斎宮は、伊勢神宮領の入口に位置し、都さながらの雅な暮らしが営まれていたと言われている。
地元の人々によって神聖な土地として守り続けられてきた斎宮跡一帯は、日本で斎宮が存在した唯一の場所として、皇女の祈りの精神を今日に伝えている。
一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定
私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。