日本遺産の地を旅する~世界から一番近い「江戸」城下町の佐倉
文化庁は来る2020年の東京オリンピック開催による訪日客の受け入れ態勢強化のために、日本遺産の登録件数を100件とする目標を掲げ、地域の活性化を目指しています。
私の住む千葉県内では「北総四都市(佐倉・成田・佐原・銚子)江戸紀行」が日本遺産に登録されており、今回はその中で城下町の佐倉を視察しました。
千葉県教育庁文化財課の垣中健志文化財主事にご同行いただき、佐倉では佐倉市産業振興課の滝沢参事官、佐倉市教育委員会の須賀学芸員に佐倉市内の主要な日本遺産構成文化財をご案内いただきました。
成田空港から近いこともあって、世界で一番近い「江戸」と呼ばれ、今、注目を集める下総国十一万石の城下町です。
日本遺産ではストーリーが重要ですが、物語のように旅するのではなく、物語を参考に旅をつづる感覚が必要です。
すなわち、日本遺産の旅は、何かある物語の跡をめぐって旅するのではなく、また、旅の物語から冒険的な箇所を取り出すのではなく、文字通り、旅先で遭遇した現実の出来事を、土地に伝わる物語的な伝承の助けを借りて理解し、自分の生きてきた物語と比較する旅です。
これは、従来の意外性のない観光ルートを、事前に知り得た「情報を確認していく旅」からの脱却です。
今回の視察ではまず、国立歴史民俗博物館、通称「歴博」を見学しましたが、日本の歴史文化が系統立てて展示されているので、とても分かり易く、歴史にさほど関心のない人も楽しめる博物館です。
そしてこの「歴博」は日本百名城にも指定されている佐倉城跡を整備した歴史公園の一部となっています。
日本百名城に指定されている佐倉城跡
江戸の東を守る要として重要視されたこの佐倉城は、天文年間(1532~1552)に築かれた中世城郭をもとに、1611年、佐倉に封ぜられた徳川家臣の土井利勝によって改修された平山城です。
「城」と言えば、天守や石垣をイメージしますが、この佐倉城は「土塁」と呼ばれる土を盛った防御壁や曲輪(城の区画)間に設けられた深い「空堀」と水の張った「水堀」が特徴です。
関東一帯は関東ローム層と呼ばれる粘土質の土壌のため、この土壌で造られた土塁や空堀は滑りやすく、攻めにくかったのです。
石垣のない佐倉城ですが、天守がなかったわけではなく、本丸跡には天守代用として三重四階地下一階の「御三階櫓」がありましたが、19世紀初頭、盗人が行灯を倒し、これを焼失したと言われています。
この本丸跡の脇には明治27(1894)年に本所(現錦糸町駅)と佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉を訪れた正岡子規の句碑も建てられています。
しかし、佐倉城のシンボルはやはり巨大な「角馬出(かくうまだし)」です。
これは城の出入り口の外側に兵を留める張り出し空間を設け、その周りを土塁と空堀で囲んで守りを固めたもので、この空間があると攻め手の兵に対して反撃しやすく、また、味方の兵の守りをバックアップできる優れた防備です。
また、佐倉城の歴代城主(佐倉藩主)のうち9人が、江戸幕府最高職の「老中」となり、これは全国最多で、別名「老中の城」と呼ばれる所以です。
幕末の城主、堀田正睦(まさよし)は佐倉藩の財政を立て直すだけでなく、日本を開国に導いた開明的な老中でしたが、明治時代になると廃城令が出され、佐倉城の建物は取り壊され、用地は陸軍の軍用地となりました。
城の建物に使われていた礎石は陸軍兵舎の基礎として再利用され、敷地内には兵営のトイレ跡が残っています。
石には「意思」があると言われますが、江戸時代から明治、そして大正、昭和、平成と佐倉城を見守ってきた石を眺めていると、タイムスリップした気分が味わえました。
江戸時代へのタイムスリップとなれば、城の東にに連なる台地上にある武家屋敷通りと隣接する「ひよどり坂」は懐かしく、またロマンも感じさせてくれる場所です。
「ひよどり坂」は江戸時代からほとんど変わらない美しい竹林の並木道で、今も登城する侍に出会えそうな歴史を感じさせてくれる古径(こみち)です。
佐倉城の築城にあわせて東西に延びる台地上に武家屋敷と商人の町屋が配置されましたが、明治時代には武家屋敷は軍人屋敷として転用されたそうです。
しかし、今日、かつて佐倉藩士が暮らしていた武家屋敷が3棟再現されています。
武家屋敷の規模や様式は、居住する藩士の身分と呼応しており、鏑木小路では大屋敷の旧河原家(移築復元)、中屋敷の旧但馬家、小屋敷の旧武居家(移築復元)が見学できます。
特に移築前の旧武居家住宅は、南側に家族の日常の部屋があり、客間は北側にありました。これは客座敷に重きを置く江戸時代の武家屋敷では非常に珍しいことだと思います。
旧大名家の邸宅として貴重な旧堀田邸と庭園
しかし、佐倉で必見の屋敷となれば、やはり国指定重要文化財の旧堀田邸です。
この旧堀田邸は、最後の佐倉藩主である堀田正倫(まさとも)の邸宅で、明治23(1890)年に竣工し、現在は主屋、門番所、土蔵の建物と国指定名勝となったいる庭園が残されています。
堀田正倫は開国に尽力した老中、堀田正睦(まさよし)の嫡子で、明治4(1871)年の廃藩置県により、東京へ移住して華族として天皇に仕えるも、明治20年には旧領地の佐倉に戻り、農事試験場を造ったり、学問のための奨学会を造ったりして、地元の産業育成や教育振興に尽くした名士です。
華族の地方移住が認められても、東京に留まる華族が多かった当時、旧領地に戻って今でいう地方創生に尽力した名君の邸宅で、きらびやかさはありませんが、随所に旧士族らしい質素な美しさが見られ、玄関棟や座敷棟は重厚な作りになっています。
今回は学芸員の須賀さんのご厚意で、通常は登れない2階にご案内いただきましたが、2階から眺める庭園は、高崎川や自然を借景にして松などの樹木と景石、灯籠が配される見事な景観でした。
日本の庭園が世界の庭園と異なる点は石の存在ですが、この庭園は芝生の緑に景石と灯籠が見事に調和しています。
石は容易には動かず、変わらず、永続する姿をもっているので、昔から「石は人を動かし、人に語りかける」と言われていますが、この堀田邸の庭園の石は堀田正倫が語りかけているようにも感じました。
蘭学の先進地、佐倉のシンボル「順天堂」
今回の佐倉視察で最後に訪れたのは佐倉順天堂記念館です。
この記念館は欄医学者として名を馳せていた佐藤泰然が、天保14(1843)年に江戸から佐倉へ移住して開いた欄医学の塾兼診療所「順天堂」跡地にあり、当時、用いられていた医学書や医療器具などが展示されています。
この「順天堂」は多くの優れた欄医を輩出し、日本の近代医学発祥の地となりました。
現在の順天堂大学は、佐藤泰然の養子となった佐藤尚中(たかなか)が創立したものです。
蘭学や西洋医学と言えば長崎を連想しますが、この旧佐倉順天堂は佐倉が蘭学の先進地であったシンボルです。
今回の日本遺産の佐倉視察を終えて、私は日本最大の歴史民俗博物館だけでなく、佐倉の城下町や堀田邸も訪ね、順天堂の歴史物語などを参考に、世界で一番に近い「江戸」のストーリーを是非とも味わっていただきたいと思いました。
千葉県の日本遺産 北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み
─佐倉・成田・佐原・銚子:百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み群─
所在自治体〔千葉県:佐倉市、成田市、佐原市、銚子市〕
北総地域は、百万都市江戸に隣接し、関東平野と豊かな漁場の太平洋を背景に、利根川東遷により発達した水運と江戸に続く街道を利用して江戸に東国の物産を供給し、江戸のくらしや経済を支えた。
こうした中、江戸文化を取り入れることにより、城下町の佐倉、成田山の門前町成田、利根水運の河岸、香取神宮の参道の起点の佐原、漁港・港町、そして磯巡りの観光客で賑わった銚子という4つの特色ある都市が発展した。
これら四都市では、江戸庶民も訪れた4種の町並みや風景が残り、今も東京近郊にありながら江戸情緒を体感することができる。
成田空港からも近いこれらの都市は、世界から一番近い「江戸」といえる。
一般社団法人日本遺産普及協会と日本遺産検定
私は2023年、「日本遺産ストーリー」を通じて地域の魅力を国内外に発信する目的で、有志とともに一般社団法人日本遺産普及協会を立ち上げました。そして、協会では日本遺産ブランドの普及と日本各地の文化や伝統の普及・活用に資する目的で日本遺産検定を実施しています。
本検定は3級・2級・1級に分かれ、まずは3級(ベーシック)が開始されていますので、「日本遺産」をはじめ「日本文化」「日本史」「地域振興」に関心のある方は、下記の『日本遺産検定3級公式テキスト』(黒田尚嗣編著・一般社団法人日本遺産普及協会監修)を参考に受験していただければ幸です。お問合せ先・お申し込み先:一般社団法人日本遺産普及協会
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリー対する私自身の所見を述べた記録です。