松尾芭蕉の直筆『野ざらし紀行図巻』発見
私が敬愛する芭蕉さんの紀行文『野ざらし紀行』の直筆ものは、これまで2冊あるとされ、そのうち俳句だけを記した1冊は天理大学附属図書館の保管となっていますが、俳句に挿絵を添えたもう1冊は、長年、所在がわからなくなっていました。
しかし、2022年5月、その挿絵付きの1冊が見つかり、専門家の鑑定で本物と確認されたと京都嵐山の福田美術館が記者会見を開いて発表しました。この「野ざらし紀行図巻」は、富士山や海からのぼる朝日など、紀行文全体にわたって書とともに挿絵が描かれた大変珍しいものであり、芭蕉が絵画にも強い関心を寄せていたことを示す貴重なものです。
芭蕉さんは俳句だけでなく、絵もいくつか残していますが、紀行文で挿絵が付いたものは、ほかには見つかっていなかったのです。そして福田美術館では、この芭蕉の自筆自画の発見を記念して、特別展が10月22日から一般公開されます。そこで平成の芭蕉を自称する私は、『野ざらし紀行』の旅を紹介するツアーを企画し、3日目に「福田美術館・嵯峨嵐山文華館」で特別企画展を見学することにしました。
『野ざらし紀行』は芭蕉さんの記念すべき紀行第1作目の作品で、「甲子(かっし)吟行」とも呼ばれるように、1684(貞享元)年甲子(きのえね)の8月、江戸を立って上方各地を巡り、翌年四月に江戸へ戻るまでの旅を素材にした紀行文です。
芭蕉さんは『野ざらし紀行』の冒頭で
「千里に旅立ちて、路糧(みちかて)を包まず、三更(さんこう)月下無何(むか)に入ると言ひけむ昔の人の杖にすがりて、貞享(じょうきょう)甲子(きのえね)秋八月、江上の破屋を出ずるほど、風の声そぞろ寒げなり」
と書いており、「江上の破屋」は深川の芭蕉庵ですが、「千里に旅立ちて、路糧を包まず」とは、旅に生きて旅の中で何かをつかもうと思えば、路銀や食糧などの準備はさておき、今までの人生で背負ってきたもろもろの荷物はここで全部おろし、一度、頭の中を空っぽにして旅立とうという決意です。
この考えは、『一つの相に染まらぬ心』を求めて寺々を巡り歩いた芭蕉さんの師匠でもある仏頂和尚の影響かと思われます。
「野ざらしを 心に風のしむ身かな」
この句の季語は「身にしむ」秋で、芭蕉さんは今度の旅の中で、本当に自分の俳諧の真髄をつかもう、つかまなければならないと覚悟を決めていたのです。
蕉風発祥の地(青年俳人らと「冬の日」の歌仙を興行)
そして、芭蕉さんは貞享元年1684年の冬、野ざらし紀行の途上で、名古屋に立ち寄り、尾張国の青年俳人を連衆として『冬の日』の歌仙を催しました。
これこそ芭蕉さんが漢詩文調から脱し、遊びの俳諧から蕉風という芸術としての俳諧を樹立した記念すべき興行でした。そこで、今日、その傘屋久兵衛借宅の跡とされるテレビ塔付近には、『冬の日』巻頭歌仙「木枯らしの巻」の表六句を刻した「蕉風発祥之地」の文学碑があります。
桑名別院本統寺(「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす」)
桑名別院本統寺は、明治天皇も宿泊した由緒ある寺で、桑名御坊とも呼ばれ、地元では「ご坊さん」の名前で親しまれています。
芭蕉さんは1684年10月に野ざらし紀行で谷木因(ぼくいん)と本統寺三世の大谷琢恵(俳号古益)を訪ねており、その際にこの地で詠んだ句
「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす はせを」
の句碑(冬牡丹句碑)が建てられています。
1968(昭和43)年2月20日にはこの句碑が桑名市の指定文化財に指定されていますが、 句碑の石は大きな自然石で、その右半分に句が彫られ、左半分は空白という贅沢なものです。
歌の意味は
〔雪の庭に冬の牡丹が見事に咲いており、牡丹に時鳥(ほととぎす)はつきものだが、この季節外れの牡丹の花を眺めていると、海辺(揖斐川)で鳴く千鳥も、雪中のほととぎすのように思われる〕
で、「雪のほととぎす」は季節感を違えた表現で秀逸かと思われます。
浜の地蔵堂(「明けぼのや白魚しろきこと一寸」)
また、芭蕉さんは桑名の東郊にある「浜の地蔵堂」付近で次の句を詠んでいます。
「明ぼのや白魚(しらうお)白き事一寸」
『野ざらし紀行』には「草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに濱のかたに出て」と前書きにあり、旅寝で早々と目が覚めてしまったので、明け方に河口付近に出て、白々と夜が明けていくイメージです。
〔しらじらと明けていく薄明の浜に打ちあがった一寸ばかりの白魚の死骸を見かけた〕
という意味ですが、もとは「雪薄し白魚白きこと一寸(桜下文集)」と色彩的にも白一色の句を改案したもの言われています。
繰り返し白を強調することで、死をイメージする白の世界を芭蕉は示そうとしていたのかもしれません。
現在、浜の地蔵堂(龍福寺)に立つこの芭蕉句碑は、昭和39年に時の建設大臣河野一郎氏よって再建されたものですが、境内には句碑4基、塚1基、庚申塔1基の計6基の碑があり、これも桑名市の指定文化財になっています。
長島の大智院(河合曽良ゆかりの寺院)
また、桑名市長島町にある大智院は、『奥の細道』の旅で芭蕉さんに同行した曾良ゆかりの寺です。
1689(元禄2)年、芭蕉さんが『奥の細道』の旅を大垣で結んだ後、伊勢神宮へ参拝の途中、曾良の叔父が大智院の住職だった事から当寺を訪れました。
芭蕉さんは挨拶として次の句をしたためました。
「伊勢の国長島大智院に信宿す。うきわれをさびしがらせよ秋の寺」
大智院にはその直筆の色紙「真蹟懐紙」が残されており、また、芭蕉来訪の100年後には、藩主増山正賢(雪斎)が近習などを集めて詩文をつくったり、自筆による記念石碑「蕉翁信宿処」を建立しました。
藩主自らが芭蕉顕彰碑を建立することは極めて珍しいので、この碑も芭蕉直筆の「真蹟懐紙」と共に桑名市指定文化財に指定されています。
多度大社(「宮人よ 我が名を散らせ 落葉川」)
そして芭蕉さんは桑名では谷木因と共に多度大社にも立ち寄っており、その参拝の折に
「宮人よ 我が名を散らせ 落葉川」
〔宮人よ、川が落葉を掃き流すように、私の名が見えるこの落書きも、掃き流してくれ〕
と詠んでいます。この句は木因の落書に対する返歌で、水に造詣が深い芭蕉さんだけあって、木曽川水系の落葉川を詠っていますが、この上流には古くより、神が坐します多度山(標高403メートル)があり、神代の古より人々はご神体として信仰を集めていたのです。
多度大社の主祭神「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」は、雨乞いや風神の神ですが、天照大神の第3子とされる神であることから、伊勢神宮との関係が深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」とも言われています。
なぜ太陽神の子が風神になるのかというと、太陽の熱(火)により、地球には昼間の暖かい場所、夜間の冷たい場所が生まれ、これにより気圧差が生まれ、風が生じ、その風が雲を運んで雨を降らせるからです。また、その雨が溜まると水たまりができ、そこに太陽の光、熱により、水が蒸発し、雲となります。
こうした循環には「火」「水」「風」が必要ですが、「風水」本来の意味は、この火風水(ひふみ)であり、1、2、3をヒーフーミーと呼ぶのはこの火風水が由来です。
多度大社にある芭蕉さんの句碑は、句碑建碑記念集『落葉川』によると、芭蕉の命日である10月12日を記念して建立され、句宴が盛大に行われたと記されています。
不破関所跡(「秋風や薮も畠も不破の関」)
ツアー2日目に訪ねる不破関所(ふわのせきしょ)跡は、現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった古代東山道の関所の一つで、673年の壬申の乱の翌年に設置されました。芭蕉さんは『野ざらし紀行』の旅で美濃に立ち寄った際、この不破の関で
「秋風や薮(やぶ)も畠(はたけ)も不破の関」
〔不破の里には寂しく秋風が吹きわたり、往時を偲んで関跡跡に立てば、眼前の藪や畠に秋風が吹きさわぐばかりだ〕
と詠んでいます。この句は1684年に詠まれていますので、「秋風」や「藪」、「畠」は芭蕉さんの目の前の現実だったでしょうが、「不破の関」はすでに廃止され、遠い過去のものとなっていたはずです。
芭蕉さんは「歌枕」によって、「不破の関」を知ったと考えられますが、この地には藤原良経(ふじわらのよしつね)の次の歌が残っていました。
「人住まぬ不破の関屋の板庇あれにし後はただ秋の風」
藤原良経は12世紀の歌人ですから、この歌が詠まれた頃は、まだ関所跡が残っていたので、「壬申の乱」の舞台となった歴史的建造物が、今はただ「秋の風」に吹かれるだけの廃屋になってしまっていると詠んだのでしょう。
しかし、江戸時代にはその関所は跡形もなく、芭蕉さんは藤原良経の「秋の風」を受け継いで、目の前の草藪や畠をクローズアップし、時空を超えて「不破の関」に想いを寄せたのだと思います。
膳所城跡公園(「湖や暑さを惜しむ雲の峰」)
そして1600(慶長5)年、不破の関に近い関ヶ原での戦いに勝利し、名実共に天下人となった徳川家康は、東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせましたが、この膳所城は天下普請として江戸幕府が諸大名に号令して築いた城の第一号でした。
膳所城は大津市街の東部に位置し、膳所崎と呼ばれる琵琶湖に突き出た土地に築かれた水城で、日本三大湖城の一つに数えられ、水面に映える姿は「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に浮かぶは膳所の城」と謡われていました。
現在は膳所城跡公園として整備され、芭蕉さんの句碑もこの公園内の湖岸近くにありますが、湖面に目をやれば、美しい曲線美を描く近江大橋が周囲の山並みと一体となって映っています。
「湖や暑さを惜しむ雲の峰」
〔琵琶湖の上に立ち上っている雲は、夕刻になっても昼間の暑さを惜しんでいるようだ〕
この句は1694(元禄7)年6月中旬、最後の上方西上の折り、膳所の能役者であった游刀宅で詠んだ2句のうちの1句です。芭蕉さんはこの時51歳で、同年10月に大阪で亡くなっています。
唐崎神社(野ざらし紀行で詠んだ古松)
琵琶湖畔の「唐崎の夜雨(からさきのやう)」で知られる唐崎神社は、日吉大社の摂社で、古くから祓の霊場として知られ、平安時代には「七瀬の祓」の一所として女性の信仰が極めてあつく、殊に婦人病には著しい霊験があると言われていました。
また、金沢の兼六園にある唐崎の松はこの地から分けられたものとして有名ですが、芭蕉さんはその樹齢100年の巨大な松を
「辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて」
〔湖水一面朧に霞みわたる中、湖岸の辛崎の松は背後の山の桜よりさらに朧で風情がある〕
と詠んでいます。「辛崎の松」は辛崎の一つ松で歌枕であり、琵琶湖の西岸、大津の北4kmにある「近江八景」の一つで、「花」は具体的には古歌に名高い長良山の山桜です。
これも初案では「辛崎の松は小町が身の朧」と詠まれており、西湖と西施が常に出てくるように、芭蕉にとって琵琶湖と小町は連想の対象でした。しかし、芭蕉さんはこの句を「にて」止めにして「花より松の方が朧で面白かった」と巧みに古松の余情効果を出しており、詩的開眼につながる一句かと思います。
金福寺(松尾芭蕉を偲んで再興した「芭蕉庵」や与謝蕪村のお墓)
京都の一乗寺にある佛日山金福寺は、864(貞観6)年に慈覚大師円仁の遺志を継いだ安恵僧都が、慈覚大師自作の聖観音像を本尊とし、天台宗の寺院として創建しました。しかし、その後荒廃したため、元禄年間(1688年〜1704年)に円光寺の鉄舟によって臨済宗南禅寺派の寺として再興されました。
その元禄年間に鉄舟和尚と親しかった松尾芭蕉が、庭園の裏側にある草庵を訪れ、禅や風雅の道について語り合ったとされ、その草庵は和尚によって「芭蕉庵」と名付けられました。そして彼を敬慕する与謝蕪村とその一門は、1776(安永5)年に芭蕉が滞在するも荒廃した茅葺き屋根の庵を再興し、俳文『洛東芭蕉庵再興記』をしたためて金福寺に納めました。
再興された「芭蕉庵」のそばには桑名の大智院での句を修正した芭蕉さんの
「うき我をさびしがらせよかんこ鳥」
の句碑が建っています。
また、蕪村は芭蕉顕彰碑も建てており、芭蕉の生涯を称えた文が刻してありますが、碑の建立時に
「我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花」
とよみ残していたので、望みどおり後丘の墓に納骨されました。
円山公園の「西行庵」と「芭蕉堂」
芭蕉さんは『奧の細道』の旅を終えた後、郷里の伊賀上野に戻って大津で越年し、1691(元禄4)年9月に江戸に戻るまでは、近江・伊賀・京都の間を往来しつつ、近江の幻住庵で『幻住庵記』を執筆し、京都嵯峨野の落柿舎では『嵯峨野日記』を記しています。
そしてこの年、48歳の芭蕉さんは京都にある西行が庵を結んだ双林寺の阿弥陀房を訪ね、西行を偲びました。
西行は双林寺の飛地境内に庵を営み、その「西行庵」は江戸時代の1780(安永9)年出版の『都名所図会』に双林寺とともに描かれています。しかし、現在の「西行庵」は明治になっての再建で大徳寺塔頭真珠庵の別院を移したものと言われています。
西行が阿弥陀房を訪れたときに詠んだ歌は、
「柴の庵(いほ)と聞くは悔しき名なれども世に好(この)もしき住居(すまゐ)なりけり」
で、詞書とともに西行の『山家集』に収載されています。
そこで芭蕉さんは阿弥陀房での西行を偲び、草庵の住人に宛てて一句を詠みます。
「柴の戸の月やそのまま阿弥陀房」
一方、「芭蕉堂」は加賀の俳人である高桑闌更(たかくわらんこう)によって建てられました。彼は晩年に京都に来住した際、芭蕉のこの句に因んで1783(天明3)年に双林寺からこの地を借用し、南無庵と称する一宇の草庵を営み、その南に「芭蕉堂」を建立して蕉風の復興めざしたのです。
その「芭蕉堂」は茅葺き屋根の建物で、左前方に堂名を刻した石標が立ち、お堂の入口上部には「芭蕉桃青堂」の扁額、堂内には「芭蕉堂」の扁額が掛けられています。
西岸寺(「わが衣に伏見の桃の しずくせよ」)
ツアー3日目に訪ねる西岸寺は、俗に「油掛地蔵」と呼ばれ、旧伏見町でもっともよく知られた浄土宗知恩院派の寺で、1590(天正18)年に雲海上人によって創建されました。もとは阿弥陀仏を本尊としていましたが、鳥羽伏見の戦に堂宇を焼失し、今は石仏の地蔵尊を安置した地蔵堂だけとなっています。
寺伝によれば、昔、山崎の油商人が門前で転び、この地蔵尊にこぼした油の残りをそそいで供養し、行商に出たところ、商売が大いに栄えたことから、この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いがかなうとして人々の信仰を集めています。
芭蕉さんは1685(貞享2)年、当寺の先生住持であった任口(にんこう)上人の高徳を慕って訪ね、出逢いの喜びを伏見の名物であった桃にことよせて句を詠んでいます。『野ざらし紀行』に「伏見西岸寺任口上人にあふて」と前書がありますが、任口上人は、重頼門下の俳人でもあり、井原西鶴などの著名な俳人も多く訪れたそうです。
「我衣(わがきぬ)に ふしみの桃の 雫せよ」
〔伏見には日本一という桃の林があって、その桃からの雫が自分の衣を濡らすように任口上人の徳もいただきたいものだ〕
ちなみに境内に建つ芭蕉塚は、1805(文化2)年の建立です。
落柿舎(『嵯峨日記』を執筆・向井去来の墓)
「落柿舎(らくししゃ)」は国の重要伝統的建造物群保存地区・嵯峨鳥居本の入り口に位置する日本三大俳諧道場の一つで、芭蕉さんの高弟である俳人・向井去来(むかいきょらい)が居住して営んだ草庵です。
「落柿舎」という名前は、この草庵の庭にあった約40本の柿の木から一夜にして柿が全て落ちたことから名付けられました。芭蕉さんは3度訪れ、そのうち1691(元禄4)年に訪れた際には一週間ほど滞在し『嵯峨日記』を記しています。
なお現在残る茅葺の落柿舎は、江戸時代中期に芭蕉の遺徳顕彰の生涯をささげた井上重厚により再建されたもので、国登録有形文化財となっています。敷地内には落柿舎のほかに、同じく茅葺屋根の落柿舎次庵や藤棚、そして松尾芭蕉や向井去来をはじめとする多くの俳人の句碑が立ちます。中でも洛中第一古いとされる句碑は、1772(安永元)年に井上重厚が建立した去来のものです。
「柿主や梢はちかきあらし山」
また芭蕉さんの句碑には、1691(元禄4)年5月4日に『嵯峨日記』の最尾にしるした句
「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」
が刻まれていますが、晩年の芭蕉さんが弟子の去来を深く信頼し、落柿舎でくつろいでいる様子がうかがわれます。
廣澤の池(「名月や池をめぐりて夜もすがら」)
廣澤の池は京都市右京区にあり、平安時代中期に寛朝僧正が朝原山の麓に遍照寺を建立する際、庭池として造営されました。往時は観音堂、月見堂、釣殿などもあって、西に位置する大覚寺の大沢池とともに、古くより観月の名所として知られ、多くの歌人によって数多くの歌が詠まれました。
「廣澤の池」の石柱の右側面には芭蕉さんの有名な次の句が刻まれています。
「名月や池をめくりて夜もすから」
これは、芭蕉さんが43歳のとき、『笈の小文』の旅に出る前年の秋に、江戸の芭蕉庵で「月見の会」を催し、隅田川に舟を浮かべて詠んだといわれています。この句では月と池が並んでいることから、夜空の中秋の名月と「池に映る月」の両方を連想されてくれます。
今日でも廣澤の池畔に立つと小倉山や愛宕山など嵯峨野の山々を見渡すことができ、四季折々に姿を変えて訪れた人々の心を和ませてくれます。
私に言わせれば、芭蕉さんの旅は今の「観光」旅行ではなく、風の心と風景を観る「観風」の旅だったのです。『野ざらし紀行』の旅は、自分の俳句の心が失われることを恐れ、風と心を感じる気持ちで旅に出たのだと思われます。
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
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私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って旅をしています。
平成芭蕉は元禄時代に生きた俳聖松尾芭蕉の旅から学んだことをお伝えします。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。平成芭蕉が体験した感動を「旅行+知恵=人生のときめき」をテーマにお話しします。