「話の神様」稗田阿礼を祀る賣太(めた)神社の「かたりべの碑」
賣太神社の「かたりべの碑」
児童文学者の久留島武彦氏は、アンデルセンに匹敵する「話の神様」は稗田阿礼が最もふさわしいと語っています。そこで、「歴史の語り部」を自称する平成芭蕉は、その稗田阿礼を祀る賣太(めた)神社にお参りし、「かたりべの碑」に新年のご挨拶をしてきました。
有名な「稗田環濠集落」
この神社は有名な「稗田環濠集落」の一角にあり、古くは古代豪族の稗田猿女君(さるめのきみ)の邸宅があったところと言われています。そして賣太神社の名前は、猿女君の田を猿女田と呼び、猿女田の主を祀ったことから猿女田神社、後に「猿」の字を略して「賣太神社」と称する事になったそうです。
稗田阿礼を祀った賣太神社
今日では稗田阿礼の非凡な暗記能力から、「学問の神」、「物語の神」として信仰されていますが、稗田阿礼の言葉を太安万呂(おおのやすまろ)が記録したものが、日本最古の書『古事記』となったので、私は併せて太安万呂を祀る神社も参拝することにしました。
太安万侶を祀る「小杜神社」
太安万侶を祀る小杜(こもり)神社と『古事記』献上記念碑
太安万侶を祀る小杜(こもり)神社は、奈良県田原本町に鎮座する多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社の若宮(御子神などを祀る社)の一社です。多氏の祖神を祀ることから一般には多神社(おおじんじゃ)と呼ばれ、太安万侶は、その多氏の一員です(多氏はこの安万侶の代に姓を「多」から「太」に改めたと言われています)。
多坐弥志理都比古神社(多神社)
小杜神社の入り口には、立派な古事記献上1300年記念碑が建っていますが、古くは「樹森(こもり神社」と表記され、『古事記』を編纂した学問の神である一方で、“コモリ”の読みが“子守り”と読めることから安産の神としても信仰されています。
古事記献上1300年記念碑
一時は“古事記偽書”説がささやかれて、太安万侶の存在を否定する見解もありましたが、1979年1月、奈良市此瀬町の茶畑から太安万侶の墓が発見され、名が刻まれた墓誌の発見により、実在論はほぼ決定的となりました。
奈良市此瀬町「太安万侶墓」
東に三輪山、西に二上山、南に畝傍山をのぞむ贅沢なパノラマの中では、古代のロマンを感じますが、私は「稗田阿礼」の”ひえだ”という読みは間違いで、本来は”ひだ”と呼び、「飛騨の阿礼(=飛騨阿礼)」という解釈が正しいという説も否定しがたいのです。
稗田阿礼と「日本のルーツ飛騨」伝説
実際、私は稗田阿礼(飛騨阿礼)の子孫だと言われている方が高山市内にご健在であると聞いており、『古事記』記載の内容は、古代飛騨王朝の伝記とも考えられるのです。
飛騨一宮神社由緒に見る位山
山本健造氏の『日本のルーツ飛騨』では、
"古代・飛騨地方には「日抱きの御霊鎮め」という儀式があり、日抱き=飛騨となったと言われている。"飛騨は高天原で、日本の神代と呼ばれた時代の神々が、此処に存在していたことは既に証明されている。此処で日本人のもっている独自の精神文化が育ったということも。"
"有史以前の飛騨政権では、男性は太陽の子すなわち日子(彦)と呼び、女性は同じく日女(姫)と呼び、みな尊い命をもっていることから命という字を当てて「命(みこと)」と敬称している。"
"古代飛騨では先祖のことを上(カミ)と呼び敬い、子孫のことを下(シモ)と呼んだ。上=神、であり、神社とは宗教的な施設ではなく、慣習的に先祖を祀る場所であった。”
"その神々の子孫が、日本の各地に移り住んで、外敵より日本を守っていた。飛騨の太古の人は、天のことを「ア」と云い、地のことを「ハ(ワ)」と云った。それで天に届く程高い地を「アハ(ワ)山」と呼んでいた。乗鞍岳は「アハ(ワ)山」と呼ばれていた。“
“其処に住んでいた人々は、先祖の偉い人を代々淡上方(あわのうわかた)様と申し上げ、最高に偉い人を大淡上方様と尊敬していた。彼らは太陽を水に写して、それをじっと見つめて精神を統一してゆく、日抱の御霊鎮めという行事を常に行って修行に励んでいた。"
"昔の飛騨の方は、乗鞍岳のことを、淡山(アハヤマ)と呼び、"飛騨三山とは、恵那山、伊吹山、位山の三つで、位山は飛騨政権のあった高天の原の中心の山だった。"
位山の日抱(飛騨)岩
地質学上も大陸から分離した日本列島が、5億年前頃に隆起して初めて海上に頭を出したところが飛騨大陸で、実際、乗鞍岳麓の福地温泉からは、日本最古(4億8千年前)の生物化石が発見されて天然記念物に指定されています。
すなわち、日本列島の頂上は飛騨の淡山(あわやま)で、今日の乗鞍岳が比肩されていますが、飛騨の伝承「飛騨の口碑」によれば、この地が日本人のルーツとされているのです。
さらに「飛騨の口碑」によると、この飛騨王朝第15代淡上方(あわのうわかた)様が、飛騨の地がしだいに寒冷化してきたため、都を淡山の麓から雪の少ない宮村(現高山市一之宮町付近)に移し、その近くにそびえる位山を祭祀場として、位山の山頂から淡山を遥拝したと言われています。
私は実際に位山に登り、皇統一族が埋葬されたと言われる巨岩「天の岩戸」も確認してきましたが、太安万侶は「ひだ」を「ひえだ」と解釈し、あえて飛騨の伝承を詳しく書かなかったのではないかと推察します。なぜなら、口伝した飛騨阿礼は識字能力がなく、太安万侶の書いた内容を確認できなかったと思われるからです。
位山の「天の岩戸」
日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はこのたび『縄文人からのメッセージ』というタイトルで令和の旅を語り、Amazonの電子本として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。
★平成芭蕉ブックス
①『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
②『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
③『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
平成芭蕉ブックス『令和の旅指南』
★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
平成芭蕉の旅語録
平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。
「令和の旅」へ挑む平成芭蕉
*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照
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平成芭蕉の旅語録〜「話の神様」稗田阿礼と「飛騨の口碑」
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「話の神様」稗田阿礼を祀る賣太(めた)神社の「かたりべの碑」
賣太神社の「かたりべの碑」
児童文学者の久留島武彦氏は、アンデルセンに匹敵する「話の神様」は稗田阿礼が最もふさわしいと語っています。そこで、「歴史の語り部」を自称する平成芭蕉は、その稗田阿礼を祀る賣太(めた)神社にお参りし、「かたりべの碑」に新年のご挨拶をしてきました。
有名な「稗田環濠集落」
この神社は有名な「稗田環濠集落」の一角にあり、古くは古代豪族の稗田猿女君(さるめのきみ)の邸宅があったところと言われています。そして賣太神社の名前は、猿女君の田を猿女田と呼び、猿女田の主を祀ったことから猿女田神社、後に「猿」の字を略して「賣太神社」と称する事になったそうです。
稗田阿礼を祀った賣太神社
今日では稗田阿礼の非凡な暗記能力から、「学問の神」、「物語の神」として信仰されていますが、稗田阿礼の言葉を太安万呂(おおのやすまろ)が記録したものが、日本最古の書『古事記』となったので、私は併せて太安万呂を祀る神社も参拝することにしました。
太安万侶を祀る「小杜神社」
太安万侶を祀る小杜(こもり)神社と『古事記』献上記念碑
太安万侶を祀る小杜(こもり)神社は、奈良県田原本町に鎮座する多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社の若宮(御子神などを祀る社)の一社です。多氏の祖神を祀ることから一般には多神社(おおじんじゃ)と呼ばれ、太安万侶は、その多氏の一員です(多氏はこの安万侶の代に姓を「多」から「太」に改めたと言われています)。
多坐弥志理都比古神社(多神社)
小杜神社の入り口には、立派な古事記献上1300年記念碑が建っていますが、古くは「樹森(こもり神社」と表記され、『古事記』を編纂した学問の神である一方で、“コモリ”の読みが“子守り”と読めることから安産の神としても信仰されています。
古事記献上1300年記念碑
一時は“古事記偽書”説がささやかれて、太安万侶の存在を否定する見解もありましたが、1979年1月、奈良市此瀬町の茶畑から太安万侶の墓が発見され、名が刻まれた墓誌の発見により、実在論はほぼ決定的となりました。
奈良市此瀬町「太安万侶墓」
東に三輪山、西に二上山、南に畝傍山をのぞむ贅沢なパノラマの中では、古代のロマンを感じますが、私は「稗田阿礼」の”ひえだ”という読みは間違いで、本来は”ひだ”と呼び、「飛騨の阿礼(=飛騨阿礼)」という解釈が正しいという説も否定しがたいのです。
稗田阿礼と「日本のルーツ飛騨」伝説
実際、私は稗田阿礼(飛騨阿礼)の子孫だと言われている方が高山市内にご健在であると聞いており、『古事記』記載の内容は、古代飛騨王朝の伝記とも考えられるのです。
飛騨一宮神社由緒に見る位山
山本健造氏の『日本のルーツ飛騨』では、
"古代・飛騨地方には「日抱きの御霊鎮め」という儀式があり、日抱き=飛騨となったと言われている。"飛騨は高天原で、日本の神代と呼ばれた時代の神々が、此処に存在していたことは既に証明されている。此処で日本人のもっている独自の精神文化が育ったということも。"
"有史以前の飛騨政権では、男性は太陽の子すなわち日子(彦)と呼び、女性は同じく日女(姫)と呼び、みな尊い命をもっていることから命という字を当てて「命(みこと)」と敬称している。"
"古代飛騨では先祖のことを上(カミ)と呼び敬い、子孫のことを下(シモ)と呼んだ。上=神、であり、神社とは宗教的な施設ではなく、慣習的に先祖を祀る場所であった。”
"その神々の子孫が、日本の各地に移り住んで、外敵より日本を守っていた。飛騨の太古の人は、天のことを「ア」と云い、地のことを「ハ(ワ)」と云った。それで天に届く程高い地を「アハ(ワ)山」と呼んでいた。乗鞍岳は「アハ(ワ)山」と呼ばれていた。“
“其処に住んでいた人々は、先祖の偉い人を代々淡上方(あわのうわかた)様と申し上げ、最高に偉い人を大淡上方様と尊敬していた。彼らは太陽を水に写して、それをじっと見つめて精神を統一してゆく、日抱の御霊鎮めという行事を常に行って修行に励んでいた。"
"昔の飛騨の方は、乗鞍岳のことを、淡山(アハヤマ)と呼び、"飛騨三山とは、恵那山、伊吹山、位山の三つで、位山は飛騨政権のあった高天の原の中心の山だった。"
位山の日抱(飛騨)岩
地質学上も大陸から分離した日本列島が、5億年前頃に隆起して初めて海上に頭を出したところが飛騨大陸で、実際、乗鞍岳麓の福地温泉からは、日本最古(4億8千年前)の生物化石が発見されて天然記念物に指定されています。
すなわち、日本列島の頂上は飛騨の淡山(あわやま)で、今日の乗鞍岳が比肩されていますが、飛騨の伝承「飛騨の口碑」によれば、この地が日本人のルーツとされているのです。
さらに「飛騨の口碑」によると、この飛騨王朝第15代淡上方(あわのうわかた)様が、飛騨の地がしだいに寒冷化してきたため、都を淡山の麓から雪の少ない宮村(現高山市一之宮町付近)に移し、その近くにそびえる位山を祭祀場として、位山の山頂から淡山を遥拝したと言われています。
私は実際に位山に登り、皇統一族が埋葬されたと言われる巨岩「天の岩戸」も確認してきましたが、太安万侶は「ひだ」を「ひえだ」と解釈し、あえて飛騨の伝承を詳しく書かなかったのではないかと推察します。なぜなら、口伝した飛騨阿礼は識字能力がなく、太安万侶の書いた内容を確認できなかったと思われるからです。
位山の「天の岩戸」
日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はこのたび『縄文人からのメッセージ』というタイトルで令和の旅を語り、Amazonの電子本として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。
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平成芭蕉ブックス『令和の旅指南』
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私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
平成芭蕉の旅語録
平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。
「令和の旅」へ挑む平成芭蕉
*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照
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