那須野が原日本遺産ガイド養成講座フィールドワーク同乗記録
那須野が原開拓の歴史が「明治貴族が描いた未来~那須野が原開拓浪漫譚~」として日本遺産に認定され、1月16日から那須野が原開拓日本遺産活用推進協議会によるガイド養成講座が行われており、東京新聞記事にも紹介されました。
2020年1月27日付東京新聞記事
このガイド養成講座は全6回予定されており、私は第1回の「日本遺産とは何か」、「日本遺産ガイドの心得」に講演させていただいた関係で、2月21日のフィールドワーク実地研修にも那須野が原博物館の松本館長と共に講師として同乗させていただきました。
那須野が原日本遺産ガイド養成講座
実地研修は日本遺産の構成文化財である那須疏水旧取水施設、旧青木那須別邸、蛇尾(さび)川、矢板武旧宅、平田東助の墓、大田原市歴史民俗資料館を視察し、最後に那須野が原博物館でまとめの講座を行いました。
旧青木家那須別邸前で記念撮影をしましたが、参加者は50名近くの講座受講生で、バスはほぼ満席状態でした。
那須野が原ガイド実地研修
那須野が原は、水資源に乏しく、農地には適さない地域であり、江戸末期まではほとんど集落のない原野でした。
人も住まない荒野が広がっていた理由は、この地域が“扇状地”という地形で、地表から30~50cmより下は砂礫層となっていることです。すなわち、少し地面を掘るだけで大量の石が出る状態で、扇状地の河川はこの砂礫層に浸透し、大雨の時以外には表層を流れません。
そのため、「那須野が原」の中心を縦断する蛇尾(さび)川や熊川は、水が地下に浸透してしまい、ふだんは川底が露出した水無川(みずなしがわ)で、水流は川底のさらに下、地面の中を通っています。
水のない蛇尾川
しかし、この水のない平坦な大地は西洋列強に対抗して殖産興業政策を掲げた明治政府に開拓地として注目され、「那須疏水」が開削されました。
その那須疏水最初の取水口は那須疏水公園から見ることができますが、那珂川が大きくカーブする絶壁に設けられています。しかし、石組みで造られた隧道(トンネル)の入り口には開閉施設がなかったため、通水不能になることがたびたびあったようです。
那須疏水の旧取水口
この那須疏水は今日、日本三大疏水の一つに数えられますが、那珂川の上流域から水が導水されたことで用水の確保に目処が立ち、これがこの地の開拓を進める大きなきっかけとなりました。
私にとって興味深かったのは、この那須疏水が水無川の蛇尾川の下をくぐる地に設けられた蛇尾川サイフォン(伏越)です。
蛇尾川の上流には八汐ダムとペアで揚水発電をしている蛇尾川ダムがあり、私にとって水無し川の名を冠したダムとは何か不思議な感じでしたが、こちらのサイフォンも説明がないと分かりにくい施設です。
蛇尾川サイフォン
これは那須疏水開削当時の施設で、水路を蛇尾川の地下を通すために明治18年(1885)に設けられた隧道(トンネル)です。このように河川を横切る形で河床の下を通す水路を伏越(ふせこし)と言うようで、この伏越を今日では「蛇尾川サイフォン」と呼んでいます。
このサイフォンは切石積みで、その断面は五角形、長さは267m、幅は約136cmで、切石と切石の間のすき間には、那須山から運ばれたイオウがつめられています。
サイフォンのトンネル
松本館長によれば、この石積みには高い技術が必要とされ、大分県から招いた石工が工事を担当したそうです。
今回はこの那須疏水開削に尽力した矢板武の旧宅(矢板武記念館)も訪れました。矢板武は山形有朋、品川弥次郎、勝海舟などの明治元勲たちと交流が深く、正面玄関の奥に飾られた「聚薼亭(しゅうじんてい)」と書かれた額は、明治14年の晩秋に勝海舟が書いたとされています。
当時の矢板武は、那須野が原開発のために忙しく、多くの人が絶えずこの屋敷に出入りし、活発な議論が行われていましたが、この様子を勝海舟が「薼(ちり)まみれになって一生懸命働いている人たちが聚(あつ)まる亭(やしき)」と讃えて「聚薼亭」名付けたと言われています。
矢板記念館の枝垂桜
また、庭には樹齢約180年、幹周約2メートル、高さ約17メートルの枝垂桜があり、私は開花時期には是非とも訪ねたいと思いました。
次に訪れた場所は、傘松農場を経営し、産業組合(現在のJAなど)の礎を築いた平田東助の墓でしたが、彼は明治4(1871)年岩倉遣外使節団と共に出発し留学,プロイセン(ドイツ)の大学で政治学,法学を学んでいます。
平田東助の墓
青木農場を経営し、那須にドイツ風の別邸を建てた青木周蔵もプロイセン貴族の令嬢エリザベートと結婚し、ドイツの影響を強く受けています。すなわち、建物だけでなく、ドイツの林間農業に学んだ山林経営を行いました。
今回、那須野が原日本遺産の文化財を巡ると、やはり明治貴族の描いた夢と近代日本黎明期の熱気が伝わってきました。
旧青木家那須別邸
この熱気は当時の明治貴族が、政府の意向に加えて、ヨーロッパのノブレス・オブレージュ(noblesse oblige)という「高貴なる者に伴う義務」を理解していた証だと思います。
なぜなら、140年前までは人の住めなかった荒野の開拓は、政府の予算だけでできるものではなく、彼らが私財を投じ、熱い情念を傾けたからこそ成し得たのです。
すなわち、那須野が原の日本遺産は、岩倉遣外使節団でヨーロッパ文化を学んだ貴族が中心となり、確たる理念をもち、夢を抱いて荒野を開拓した勇敢な人々の物語なのです。
那須野が原ガイド養成講座
日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はこのたび『縄文人からのメッセージ』というタイトルで令和の旅を語り、Amazonの電子本として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。
★平成芭蕉ブックス
①『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
②『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
③『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
平成芭蕉ブックス『令和の旅指南』
★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
平成芭蕉の旅語録
平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。
「令和の旅」へ挑む平成芭蕉
*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照
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平成芭蕉の旅語録〜日本遺産「那須野が原開拓浪漫譚」フィールドワーク
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2020年1月27日付東京新聞記事
このガイド養成講座は全6回予定されており、私は第1回の「日本遺産とは何か」、「日本遺産ガイドの心得」に講演させていただいた関係で、2月21日のフィールドワーク実地研修にも那須野が原博物館の松本館長と共に講師として同乗させていただきました。
那須野が原日本遺産ガイド養成講座
実地研修は日本遺産の構成文化財である那須疏水旧取水施設、旧青木那須別邸、蛇尾(さび)川、矢板武旧宅、平田東助の墓、大田原市歴史民俗資料館を視察し、最後に那須野が原博物館でまとめの講座を行いました。
旧青木家那須別邸前で記念撮影をしましたが、参加者は50名近くの講座受講生で、バスはほぼ満席状態でした。
那須野が原ガイド実地研修
那須野が原は、水資源に乏しく、農地には適さない地域であり、江戸末期まではほとんど集落のない原野でした。
人も住まない荒野が広がっていた理由は、この地域が“扇状地”という地形で、地表から30~50cmより下は砂礫層となっていることです。すなわち、少し地面を掘るだけで大量の石が出る状態で、扇状地の河川はこの砂礫層に浸透し、大雨の時以外には表層を流れません。
そのため、「那須野が原」の中心を縦断する蛇尾(さび)川や熊川は、水が地下に浸透してしまい、ふだんは川底が露出した水無川(みずなしがわ)で、水流は川底のさらに下、地面の中を通っています。
水のない蛇尾川
しかし、この水のない平坦な大地は西洋列強に対抗して殖産興業政策を掲げた明治政府に開拓地として注目され、「那須疏水」が開削されました。
その那須疏水最初の取水口は那須疏水公園から見ることができますが、那珂川が大きくカーブする絶壁に設けられています。しかし、石組みで造られた隧道(トンネル)の入り口には開閉施設がなかったため、通水不能になることがたびたびあったようです。
那須疏水の旧取水口
この那須疏水は今日、日本三大疏水の一つに数えられますが、那珂川の上流域から水が導水されたことで用水の確保に目処が立ち、これがこの地の開拓を進める大きなきっかけとなりました。
私にとって興味深かったのは、この那須疏水が水無川の蛇尾川の下をくぐる地に設けられた蛇尾川サイフォン(伏越)です。
蛇尾川の上流には八汐ダムとペアで揚水発電をしている蛇尾川ダムがあり、私にとって水無し川の名を冠したダムとは何か不思議な感じでしたが、こちらのサイフォンも説明がないと分かりにくい施設です。
蛇尾川サイフォン
これは那須疏水開削当時の施設で、水路を蛇尾川の地下を通すために明治18年(1885)に設けられた隧道(トンネル)です。このように河川を横切る形で河床の下を通す水路を伏越(ふせこし)と言うようで、この伏越を今日では「蛇尾川サイフォン」と呼んでいます。
このサイフォンは切石積みで、その断面は五角形、長さは267m、幅は約136cmで、切石と切石の間のすき間には、那須山から運ばれたイオウがつめられています。
サイフォンのトンネル
松本館長によれば、この石積みには高い技術が必要とされ、大分県から招いた石工が工事を担当したそうです。
今回はこの那須疏水開削に尽力した矢板武の旧宅(矢板武記念館)も訪れました。矢板武は山形有朋、品川弥次郎、勝海舟などの明治元勲たちと交流が深く、正面玄関の奥に飾られた「聚薼亭(しゅうじんてい)」と書かれた額は、明治14年の晩秋に勝海舟が書いたとされています。
当時の矢板武は、那須野が原開発のために忙しく、多くの人が絶えずこの屋敷に出入りし、活発な議論が行われていましたが、この様子を勝海舟が「薼(ちり)まみれになって一生懸命働いている人たちが聚(あつ)まる亭(やしき)」と讃えて「聚薼亭」名付けたと言われています。
矢板記念館の枝垂桜
また、庭には樹齢約180年、幹周約2メートル、高さ約17メートルの枝垂桜があり、私は開花時期には是非とも訪ねたいと思いました。
次に訪れた場所は、傘松農場を経営し、産業組合(現在のJAなど)の礎を築いた平田東助の墓でしたが、彼は明治4(1871)年岩倉遣外使節団と共に出発し留学,プロイセン(ドイツ)の大学で政治学,法学を学んでいます。
平田東助の墓
青木農場を経営し、那須にドイツ風の別邸を建てた青木周蔵もプロイセン貴族の令嬢エリザベートと結婚し、ドイツの影響を強く受けています。すなわち、建物だけでなく、ドイツの林間農業に学んだ山林経営を行いました。
今回、那須野が原日本遺産の文化財を巡ると、やはり明治貴族の描いた夢と近代日本黎明期の熱気が伝わってきました。
旧青木家那須別邸
この熱気は当時の明治貴族が、政府の意向に加えて、ヨーロッパのノブレス・オブレージュ(noblesse oblige)という「高貴なる者に伴う義務」を理解していた証だと思います。
なぜなら、140年前までは人の住めなかった荒野の開拓は、政府の予算だけでできるものではなく、彼らが私財を投じ、熱い情念を傾けたからこそ成し得たのです。
すなわち、那須野が原の日本遺産は、岩倉遣外使節団でヨーロッパ文化を学んだ貴族が中心となり、確たる理念をもち、夢を抱いて荒野を開拓した勇敢な人々の物語なのです。
那須野が原ガイド養成講座
日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はこのたび『縄文人からのメッセージ』というタイトルで令和の旅を語り、Amazonの電子本として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。
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②『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
③『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅
平成芭蕉ブックス『令和の旅指南』
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私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。
平成芭蕉の旅語録
平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。
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*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照
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