クロアチアの世界遺産、スプリットのディオクレティアヌス宮殿 | 芭蕉さんの旅講座

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クロアチアの世界遺産、スプリットのディオクレティアヌス宮殿

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ディオクレティアヌス宮殿跡に誕生したスプリット

ディオクレティアヌス宮殿が旧市街となった港町

暑い日本から脱出し、私はクロアチアを中心にバルカン半島に点在する世界遺産巡りをしてきました。

そこで、印象に残った町を紹介したいと思いますが、まずはダルマチア地方に位置してアドリア海沿岸最大の港町スプリットの感想を書いてみます。

この町はローマ皇帝ディオクレティアヌス帝の宮殿がそのまま旧市街になったという珍しいい起源をもち、その成り立ちと古代ローマや中世の街並みに現代が交錯するという特殊性から世界遺産に登録されています。

スプリット近郊の町で生まれた皇帝は、引退後の住まいとなる宮殿を生まれ故郷に近いスプリットに建設、この地で余生を送ったのです。

しかし、皇帝の宮殿であったスプリットもローマ帝国滅亡後は異民族が入り込み、宮殿の基礎部分はそのままに皇帝の邸宅や墓などの地上の建物は取り壊され、その上から建物を増築しながら町を築いていったために古代ローマ時代と中世の建物が絡みあう独自の街並みとなっています。

ヴェネツィア人の進出とオスマン・トルコ侵入への備え

しかし、このスプリットの街の拡大に大きな影響を与えたのはクロアチア人ではなく、海洋都市国家として地中海を支配したヴェネツィア人です。

アドリア海の北にあるヴェネツィアの商船は、航海の初めと終わりには必ずこのクロアチア沿岸を通るため、11世紀初頭からこの沿岸部をめぐってハンガリーと争っていたのです。

そして15世紀初頭にハンガリー王国で内紛が起きると、ヴェネツィアはその機に乗じてスプリットを含むダルマチア地方の全支配権をハンガリーから奪ってしまったのです。

ヴェネツィアはこの沿岸部を生かさず殺さずの形で自国のために利用し、地場産業であった塩の交易権を押さえ、さらには製油業や絹織物工業などが成長し過ぎないようにとオリーブや桑などの木々をなぎ倒したと伝えられています。

そしてヴェネツィア時代になると拡大した町を取り囲むようにして新しい城壁が建てられ、オスマン・トルコの侵入に備えたのです。

オスマン・トルコの影響とキリスト教会

15世紀にはバルカンほぼ全域がオスマン・トルコの支配下におかれますが、このダルマチアの海岸地域だけはヴェネツィアの努力でトルコの占領から免れたのです。

クロアチアには人口に比して教会が多いのも、このトルコというイスラムの侵入を意識したからだと言われています。

しかし、地元に人の話によれば、娘が結婚する際には多額の資金がかかるので、娘を修道女に出すべく教会を多く作ったとか、教会を作れば近くに金持ちが集まり、街が豊かになるからといった現実的な理由も聞かれます。

バルカン半島には中小の教会が多いことは知られていてもその理由はあまり知られていません。私はこの一般的には知られていない歴史の真実やなぞを地元民から学ぶことを楽しみとしているのです。

クロアチアを旅行して感じること

20世紀の歴史学者アーノルド・トインビー博士「人間とは歴史に学ばない生き物である」と名言を残していますが、このスプリットの街を見れば本当にこの言葉が実感されます。

すなわち、古代ローマの時代には上下水道も完備し、ディオクレティアヌス邸も現代に通用する立派な建造物だったと思われます。

しかし、この地に来たゲルマン民族やヴェネツィア人は、街の歴史を無視し、古代ローマ人の造った施設の意味も理解せずに自分勝手な破壊活動を行った結果、ローマ時代には下水道も完備して清潔だった街にペストが流行したり、余計な争いが増える原因を作ったのです。

因みに下水道設備は壊されましたが、上水道は古代ローマ時代のものが現在でも利用されています。

クロアチアの旅を通じて私は、日本においても古代ローマ同様に古代の人の作った遺跡は、今一度その意味を精査すべきだと思いました。by【平成芭蕉

 

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