西行や松尾芭蕉も訪れた「歌枕」の地や万葉故地の大和三山を訪ねる
能因法師、西行、松尾芭蕉も訪ねた歌枕の名勝地「白河の関」
「歌枕」とは古来から歌い継がれ、能因法師や西行のような昔の歌人たちと心を繋ぐ特別な場所であり、万葉集ゆかりの地も多くは歌枕の地です。
江戸時代の俳聖松尾芭蕉もその能因法師や西行の歌にあこがれ、歌枕の地を旅しては、歌枕にちなんだ俳句を詠んでいます。
『奥の細道』の冒頭には「白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ…」と書かれていますが、「白河の関」は奥州三関の一つで、能因法師も
「都をば かすみとともに たちしかど 秋風ぞふく 白河の関」
と詠んだ歌枕の代表的な場所です。
松尾芭蕉が通った時も「白河の関」はみちのく(東北)地方の玄関口の代名詞でしたが、今も高校野球の優勝旗は「白河の関を越えなかった」などと東北地方(北海道)に優勝校が出なかった意味で使われたりもします。
すなわち、歌枕とは歌の名所であり、その地に立てば先人の名歌が思い出され、その歌を意識してはまた歌が詠まれ、それが繰り返し行われている場所でもあります。
いつの時代でもその土地の歴史や伝承に関心を抱く人もいれば無関心な人もいます。
しかし、無関心な人であっても、そこに何らかの歴史があることは知っていて、その内容は詳しくはわからないというのが実情ではないでしょうか。
「万葉集」や「百人一首」で知られる歌枕の代表、持統天皇の「天の香久山」
そのような人が仮に「万葉集」や「百人一首」などで知っている歌枕の地を訪ねると、イメージ的にも歴史的背景が理解できると思います。例えば
「春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣ほしたり 天の香具山」
という有名な歌から、持統天皇のいた藤原京を連想するのも旅の楽しみです。
この有名な歌を残した持統天皇は旅好きの女帝で、日本書紀の記録からは、生涯に50回以上も旅をしており、天皇が直接政務を司った時代にあっては大変な回数です。
そしてこの女帝の旅の中でも異彩を放っているのが「吉野宮(よしののみや)」への行幸で、生涯に34回も吉野宮にいっています。
吉野宮は奈良県吉野郡吉野町宮滝の吉野川河畔にあったと言われ、山紫水明の景勝地です。
持統天皇の夫であった天武天皇も吉野の地を愛しましたが、古代の人たちは吉野を神仙境として見ていたのです。
そして天武天皇は皇后の持統天皇と六人の息子を吉野に呼んで、相争うことなく結束せよと吉野宮で史上に名高い「吉野の会盟」をしています。
吉野宮は「天地神明に誓って」というように神かけるにふさわしい「天の」地だったのです。
そして、持統天皇が詠んだ歌にある大和三山の一つ「天の香具山」(奈良県橿原市)も、この山は天から降りてきたという伝説があるので、「天の」が頭につくのです。
そこで、今年の開運の旅として古事記や日本書紀編纂に尽力した天武天皇と持統天皇ゆかりの大和三山と吉野を訪ねてみてはいかがでしょうか。
なぜなら、「当時は香具山こそが世界の中心で、夏も香具山からやって来るという、季節の到来を感じさせる場所ですよ」と持統天皇が教えてくれているからです。
<具体的な旅先>
白河の関…奥州三古関の一つ「白河の関」は機能を失ってからも、都の文化人たちの憧れの地となり、「和歌の名所(歌枕)」として知られていました。
1689年、この地に着いた芭蕉も「白河の関にかかりて旅ごころ定まりぬ」と感動をこめて記しています。
大和三山…畝傍山、香具山、耳成山の大和三山はちょうど正三角形をなしており、持統天皇のいた藤原京跡を取り囲んでいます。
どれも美しい形の低い山で、万葉の昔をしのぶには最適の場所です。香具山の南にある「飛鳥資料館」では藤原京の復元模型が展示されています。
*平成芭蕉のテーマ旅行「歌枕の旅」は旅行読売2018年11月号に掲載されました
★平成芭蕉の旅のアドバイスが 電子本「人生は旅行が9割 令和の旅指南1」として出版!
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私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って令和時代を旅しています。
見るべきものは見て、聞くべき話は聞いた。では旅に飽きたかと問われれば、いえいえ、視点が変わればまた新たな旅が始まるのです。平成芭蕉はまだまだ「こんな旅があった」と目からウロコのテーマ旅行にご案内します。すなわち、「ときめき」を感じる旅から人は変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。