『おくのほそ道』の旅を徹底解説
旅を住処とした松尾芭蕉
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の 思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、や ゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて」
この有名な書き出しからはじまる『おくのほそ道』は、俳聖松尾芭蕉が1689(元禄2)年の早春に深川の草庵を出立して大垣に至る150日、約600里(2400km)の旅の紀行文ですが、この一文に、芭蕉の人生観が込められているといっても過言ではありません。
「時は永遠の旅人であり、人生は旅そのものである」と芭蕉は書いていますが、芭蕉は人生の真の意味をつかむために、文学者として生きるべく、草庵を後にして旅に出たのです。
芭蕉の忍者(隠密)説
『おくのほそ道』の旅の総移動距離は、2,400km程にもなりますが、その距離をわずか6か月にも満たない期間で、難所を含む全行程を舟も利用しながら完遂しています。旅の途中、知人の邸宅でしばらく留まることもあったため、実際に歩いた期間は、旅の全期間よりも短かかったとすれば、1日に50km程歩いた日もあったと考えられます。
そのため芭蕉は忍者だったのではないか、という「芭蕉の忍者(隠密)説」が現代にまで残っています。
実際、松尾芭蕉の公式の伝記『蕉翁全伝』によれば、芭蕉さんの母は、伊賀の上忍百地家の娘とされ、江戸幕府に近い藤堂家との繋がりもありました。そこで芭蕉さんの『おくのほそ道』の旅は、江戸幕府による伊達氏の仙台藩の動向調査と考えられますが、その根拠は曾良の日記と芭蕉の『おくのほそ道』の記録を比較した結果です。
- 出発日をはじめ違いが約80箇所ある。
- 目的地とされた松島で一句も読まずに1泊で素通りし、一方、黒羽で13泊、須賀川で7泊もしており、諸藩の情報集収とも考えられた。
『おくのほそ道』の旅の真の目的
伊賀上野の史跡「蓑虫庵」は、芭蕉の門人、服部土芳の草庵で、現在の建物は元禄当時に建てられた芭蕉五庵のうちで現存する唯一のものですが、この庵の古池塚には芭蕉の有名な「蕉風開眼」の句「古池や 蛙(かわず)飛びこむ水の音」の古い句碑が建っています。
芭蕉は『おくのほそ道』の冒頭の段に「松島の月まづ心にかかりて…」と宮城県の松島を訪ねるのが目的のひとつと書いていますが、実際はこの「蕉風開眼」をきっかけに真の俳諧を探求することが旅に出る本当の目的だったのです。
芭蕉が崇拝する西行法師の500回忌にあたる1689(元禄2)年、門人の曾良を伴って奥州、北陸道を巡った紀行文が『おくのほそ道』です。水の研究家であった芭蕉は、『おくのほそ道』の旅では、陸路だけでなく、水路もしばしば使っていますが、これは同行の曽良もまた、三重県桑名に所縁があって、その地を流れる木曽川と長良川から自身を「曽良」と命名したように、二人とも水に造詣があったからだと考えられます。
*蕉開眼の句 「古池や 蛙(かわず)飛びこむ水の音」
芭蕉は深草の草庵におり、どこからか聞こえてくる「蛙が飛び込む音」を聞いて心の中に「古池」が浮かんだ。つまり芭蕉は、蛙が飛 び込むところも古池も見ていない。この古池は現実の古い池ではなく、芭蕉の心の中にある「古池」です。
この句は蛙が水に飛び込む現実の音を聞いて古池という心の世界を開いたもの。この現実のただ中に心の世界を切り開いたこと、これこそが「蕉風開眼」です。
『おくのほそ道』の構造
「白河の関」、「尿前の関」、「市振の関」という昔の関所で区切られます。
①別れと旅の契り: 深川から「白河の関」まで(黒羽)
住み慣れた芭蕉庵を去り、親しい人に別れを告げ覚悟の旅
元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)、江戸深川の草庵「採荼庵(さいとあん)」を出発し、船に乗って千住に渡り、日光街道を経由して下野国蘆野(あしの)の城下町黒羽へ行く。黒羽では大いに歓迎されたこともあり、おくのほそ道の旅程では最長になる14日間滞在し、白河の関を越えてようやく旅の覚悟が固まりました。
②歌枕の巡礼: 「白河の関」から「尿前の関」へ(平泉)
夢にまでみたみちのくの歌枕(名所)を訪ねる
白河の関を越えて奥州に入るといよいよ「歌枕」めぐりの旅が始まります。須賀川、飯坂、仙台を経て、目的地の一つとされた松島に着く。しかし、その美しい風景に感動するあまり句は詠めず、曾良が詠んだ句「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が紹介されている。
平泉は「おくのほそ道」の折り返し地点にあたりますが、藤原三代の栄華をしのび「夏草や兵どもが夢のあと」の句を詠んでいます。また義経を敬愛する芭蕉は、塩釜神社で義経を最後まで守ろうとした藤原忠衡(和泉三郎)を讃えています。
③太陽と月: 「尿前の関」から「市振の関」まで(越後)
立石寺で宇宙の静けさ、羽黒山・月山では月、酒田で太陽、越後の海岸では銀河と出会う。
奥羽山脈を越えて出羽国に入って尾花沢で、芭蕉とは旧知の俳人でもある鈴木清風を訪ね、尾花沢に11日間滞在した。尾花沢の人々の勧めにより、予定にはなかった山寺(立石寺)に立寄り、「閑(しずか)さや岩にしみ入る 蝉の声」の句を詠み、宇宙観が開眼する。
芭蕉は日本三大急流のひとつの最上川を下った際、「このたびの風流、ここに至れり」と感激していますが、出羽三山の最高峰である月山にも登り、6月半ばにおくのほそ道の最北の地となった象潟(きさかた)も訪ねますが、当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝地でした。
象潟から、再び折り返して日本海岸沿いに南下し、出雲崎では「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠みました。そしてこの宇宙的な体験をもとに「不易流行」をとなえたのです。
④浮世帰り: 「市振の関」から大垣へ
様々な別れから流れ去る水の境地にいたり「かるみ」を発見
「市振の関」からさらに日本海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を経て、8月21日頃に美濃路の大垣に到着し、門人たちが集い労わる。旅行中の様々の別れと出会いから、芭蕉は「かるみ」の境地に至り、「蛤の ふたみにわかれて 行秋ぞ」の句を詠み、結んでいます。そして9月6日には、芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発しています。
「おくのほそ道」の名場面
『おくのほそ道』の旅は海外でも高く評価されており、松尾芭蕉が立ち寄った場所の多くは、その地域の観光名所となっています。『おくのほそ道』の足跡が未だに人々に愛されている理由は、松尾芭蕉が道中、詠んだ俳句から、その土地の美しさが伝わるためです。
千住の旅立ち「矢立初めの地」(別れ)
「行く春や鳥啼き魚の目は涙」 芭蕉
芭蕉はこの一句に自分と曽良の旅立ちを見送ってくれた人々との別れを惜しむ気持ちを込めており、結びの地大垣での「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」と対をなしている。「魚」とは杉山杉風(さんぷう)を指し、杉風は「鯉屋」の屋号で幕府御用の魚問屋を営んで、その豊かな経済力で芭蕉の生活を支援しました。
二週間滞在し那須の黒羽「芭蕉公園」
「田や麦や中にも夏のほととぎす」 芭蕉
那須の黒羽では、『曾良旅日記』によると芭蕉は二週間も滞在しています。芭蕉公園は黒羽藩の留守役家老で芭蕉さんをもてなした浄法寺高勝(桃雪)の書院跡で、入り口左側には芭蕉翁桃青翁の句碑が立っています。書院跡には門が残されており、中には浄法寺家当主の浄法寺直之氏建立の連句碑と俳誌『寒雷』主宰の俳人、加藤楸邨(しゅうそん)氏が揮毫した「山も庭もうごき入るや夏坐敷」の芭蕉句碑が立っています。
仏頂和尚山居の「雲巌寺」
「木つつきもいほはやぶらず夏こだち」 芭蕉
雲巌寺は臨済宗妙心寺派の名刹で、八溝山地から流れる武茂川に架かった朱塗りの橋を渡り、山門を入った左手に仏頂和尚の和歌と芭蕉の句を併刻した碑が立っています。
「たて横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし あめなかりせば」 仏頂禅師
西行が和歌に詠み、後世謡曲の題材ともなった「遊行柳」
「田一枚植えて立ち去る柳かな」
「遊行柳」は室町時代に遊行上人が諸国遊行の途中、柳の精の老翁を成仏させたという伝説が残る歌枕の地で、芭蕉が敬愛する西行法師は「道野辺に清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ち止まりつれ」と詠んでおり、その西行歌碑の向かいの柳の横に芭蕉の句碑が立っています。
旅心が定まった白河関(旅の契り)
「風流の初やおくの田植うた」 芭蕉
「卯の花をかざしに関の晴着かな 」 曽良
白河の関は5世紀頃に蝦夷の南下を防ぐ目的で設置され、勿来(なこそ)の関、念珠(ねず)の関とともに奥州三古関と呼ばれ、古来、多くの歌人の心を魅了してきました。芭蕉はみちのくの玄関口、白河の関で旅心が定まりました。
「都をば霞とともに出しかど秋風ぞふくしら河のせき」(能因法師)
芭蕉が絶句した日本三景の松島(歌枕の旅)
「松嶋や さて松嶋や 松嶋や」 田原坊
「松島や鶴に身をかれほととぎす」 曽良
松島、天橋立、宮島の日本三景は海の青と松の緑が対象の妙をなし、その美しさは人々の心の琴線に触れます。芭蕉は松島で朱塗りの渡月橋で結ばれた雄島に雲居(うんご)禅師の遺跡を訪ねていますが、あまりの絶景に絶句してしまい、代わりに曽良が詠んでいます。
藤原忠衡(和泉三郎)が文治3年に寄進した塩釜神社の燈篭
「人能道を勤め、義を守るべし、名もまた是にしたがふ」
芭蕉さんは陸奥の一宮である塩竃神社を詣で、表参道の202段の急な石段を「石の階、九仭に重なり」と表現しています。塩竃詣でで特に芭蕉さんの心を打ったのは、この「文治神灯」と呼ばれる灯籠を寄進した勇義忠孝の士、和泉三郎の生き様です。
*和泉三郎(藤原忠衡)の父・秀衡は平泉に庇護していた源義経を主君として推戴し、兄弟心を一つにして源頼朝に対抗するよう遺言して没した。そして忠衡は父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張するが、兄の泰衡は頼朝の圧力に屈して、義経とその妻子・主従を殺害。しかし忠衡(和泉三郎)は勇義忠孝の士と呼ばれた。
芭蕉が懐旧の涙を流した中尊寺金色堂(歌枕の旅)
「五月雨の降り残してや光堂 」 芭蕉
平泉は清衡・基衡・秀衡の奥州藤原三代が栄枯盛衰を演じた場所ですが、義経主従の悲劇の大舞台でもあります。平安時代末の藤原三代の栄華と源義経の悲劇的な最後を偲びつつ、世の無常と自然の悠久を感じて懐旧の涙にくれました。
関守にあやしまれた「尿前の関」(歌枕の旅)
「蚤虱馬の尿する枕もと 」 芭蕉
尿前の関所は宮城県と山形県の県境近くにあり、義経の妻が出産した際、赤子の亀若丸がここで尿をしたという伝説が残っています。芭蕉さんは、鳴子温泉から尿前の関を越えて出羽の国に向かう途上、関守にあやしまれて通行許可がなかなか降りず、中山峠を越えたころには日が暮れていました。
芭蕉が実際に滞在した「封人の家」(歌枕の旅の終焉)
「蚤虱馬の尿する枕もと 」 芭蕉
芭蕉が実際に滞在した民家で、役屋(村役場)、問屋、旅籠の機能も備えた国境の庄屋家屋です。「封人の家」はこの地方独自の構造で、土間を隔てて母屋の中に馬小屋があり、人馬共に同じ屋根の下に居住していました。
立石寺(山寺)の「せみ塚」
「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」 芭蕉
860年、慈覚大師が開いた天台宗の古刹で諸堂と百丈岩などの奇岩が見事に調和している。奥の院への途中、仁王門の手前に「せみ塚」があり、碑面に芭蕉翁、右側に芭蕉の句「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」が刻まれています。
この句は宇宙観開眼の句と呼ばれ、「岩にしみ入る蝉の声」は現実の音でこの蝉の鳴き声から芭蕉の心の中に静寂な世界が開けました。 芭蕉は立石寺の岩山に立つと、眼下に広がる梅雨明け間近な緑の大地を眺めましたが、その時、あたりで鳴きしきる蝉の声を聞いて、芭蕉の心の中にしんと静かな世界が広がったのです。
すなわち立石寺の山上に立った芭蕉は、蝉の声に耳を澄ませているうちに、現実の世界の向こうに広がる宇宙的な静けさを感じ、幼い頃に仕えた「蝉吟」(藤堂良忠)に思いを馳せました。
みちのくの旅がピークに達した最上川
「五月雨をあつめて早し最上川」 芭蕉
最上川は富士川、球磨川とともに日本三大急流に数えられ、尾花沢特産の紅花などを積んだ船が行きかう大動脈。最上川の雄大な流れを前にして、芭蕉は『おくのほそ道』に「このたびの風流、ここに至れり」と書いており、みちのくの旅が最上川でピークに達したと自ら言っています。最初に詠んだ挨拶の句は「五月雨を集めて 涼し 最上川」でした。
芭蕉は最上川の本合海で乗船、清川で上陸しましたが、清川は最上川の水駅として栄え、庄内藩の清川関所が置かれていました。その脇に「芭蕉上陸の地」の石柱と芭蕉句碑と芭蕉像が立っています。
出羽三山詣の「羽黒山五重塔」
「涼しさやほの三日月の羽黒山」 芭蕉
月山、羽黒山、湯殿山の三山巡礼で羽黒山の五重塔は東方地方最古のもので平将門創建と伝えられる。
松島と並ぶ当時の景勝地「象潟」
「象潟や雨に西施がねぶの花」 芭蕉
「松島は笑うがごとく、象潟はうらむがごとし」と表現された能員や西行も訪れた松島と並ぶ当時の景勝地でした。
象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれ、かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江でしたが、1804(文化元)年の大地震(象潟地震)で干潟となりました。しかし、かつて潟に浮かんだ島々は、田植えの季節に水が張られると、海に浮かんでいるように見えて往時の面影を彷彿させてくれます。
ここで芭蕉は、中国の悲劇の美女、西施を思い浮かべ、ねむの葉が夜や雨のときに閉じるところから、「ねぶの花」に「ねぶる(眠る)」をかけている。西施は中国春秋時代の美女で、胸を病み、苦し気に眉をひそめる姿の美しさで有名です。
出雲崎の芭蕉園(太陽と月)
「荒海や佐渡によこたふ天川」 芭蕉
出雲崎は良寛のふるさとで、芭蕉と曽良が泊まった大崎屋跡の向かいには芭蕉園があり、芭蕉園には旅姿の芭蕉像と「銀河の序」の石碑が建っていますが、これは芭蕉が『おくのほそ道』行脚の途次、出雲崎に泊まった時の体験を基にして書いた句文です。
名句を残した「市振の関」(浮世帰り)
「一家に遊女も寝たり萩と月」 芭蕉
越中の備えとして慶長3(1598)年、春日山城主堀秀治が市振に関所を設け、この関所から150mのところに芭蕉が名句を詠んだ桔梗屋があります。そこで「一つ家に 遊女も寝たり萩と月」という名句を残したと言われていますが、その句碑は相馬御風揮毫で長円寺に立っています。
木曾義仲が活躍した「倶利伽羅古戦場」
「義仲の寝覚の山か月かなし」 芭蕉
石川県津畑町と富山県小矢部市にまたがる砺波山にある倶利伽羅峠は、1183(寿永2)年の源氏と平家が興亡の明暗を分けた倶利伽羅源平合戦の舞台となったところです。 中でも、『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』に記された木曽義仲による「火牛の計(かぎゅうのけい)」は有名で、平家の軍が終結した猿ケ馬場には芭蕉の句碑が立っています。
木曾義仲が兜を奉納した「多太神社」
「むざんやなかぶとの下のきりぎりす」 芭蕉
1008(寛弘5)年、舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀して多太八幡宮と称し、1183(寿永2)年の源平合戦のとき、木曽義仲が本社に詣で斉藤実盛の兜鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願しました。斎藤実盛は倶利伽羅の戦いで敗れましたが、木曽義仲は恩人であった実盛の慰霊のために武門の崇敬篤い多太神社に彼の兜等を奉納したのです。芭蕉も詣でた際には、実盛の兜によせて感慨の句を捧げており、境内には句碑と石造りの兜が置かれています。
奇岩零石がそそり立つ「那谷寺」
「石山の石より白し秋の風」 芭蕉
那谷寺の広大な境内は、奇岩の群れが岩洞となり、天然の奇岩遊仙境で、芭蕉も素晴らしい景観の聖地で句を詠んでいます。灰白色の凝灰岩を鬱蒼とした木々が覆い、切り立った岩窟に舞台造りの大悲閣本殿が立っており、冷え冷えとした秋の風が感じられます。
曽良と別れた「山中温泉」(浮世帰り)
「やまなかや菊はたおらじ湯の匂い」 芭蕉
山中温泉の医王寺は行基開創による山中温泉を守護する寺で、展示室には山中温泉縁起絵巻や芭蕉の忘れ杖も収蔵されており、芭蕉が逗留した和泉屋の主人、桃妖の墓もあります。境内には芭蕉が山中温泉を称えた句碑も建てられています。
北枝と別れた「天龍寺」
「物書いて扇引きさく余波(なごり)かな」 芭蕉
清涼山天龍寺は藩主松平家の菩提寺で、松岡公園にある永平寺の末寺です。芭蕉が訪ねた当時の住職は大夢和尚ですが、金沢から芭蕉に随行してきた北枝とここで別れるにあたって芭蕉は別離の句を詠んでいます。
敦賀の「気比神宮」参拝(不易流行とかるみの境地へ)
「月清し遊行のもてる砂の上」 芭蕉
氣比神宮(けひじんぐう)は 福井県敦賀市に鎮座する一之宮で、 地元では「けいさん」と呼ばれています。芭蕉は「中秋の名月」を楽しみに訪れましたが、前日の8月14日に気比神宮に参拝し、月明かりに照らされた神前の白砂とその由来に感動して句を詠みました。
「奥の細道むびの地」大垣
「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」 芭蕉
「奥の細道むすびの地」には、芭蕉と朴因の像、朴因作と伝わる「南いせくわなへ十里ざいがうみち」の俳句道標、「惜むひげ剃りたり窓に夏木立」の木因白桜塚、そして『おくのほそ道』最後の句が刻まれた蛤塚が建っており、ここから芭蕉は伊勢へ向かいました。
150日、600里に及ぶ『おくのほそ道』は座して閑吟する俳諧の書ではなく、芭蕉さんが私たちに残してくれた旅の指南書でもあります。芭蕉さんの俳文『許六離別の詞』には「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」とあり、作品を味わうだけでなく、作者が探究したことを求めよと書かれています。
芭蕉さんは流転してやまない人の世の苦しみをどのように受け止めたのでしょうか。芭蕉さんは西行を崇敬していたので、芭蕉さんの「古人の心に閲(けみ)す」の「古人」は西行が主と考えられます。「蕉風開眼」をきっかけに真の俳諧を探求することが旅に出る目的でしたが、実際には「白河の関」や「松嶋」という西行が訪れた歌枕の地で古人の心に触れたいと考えて旅に出たと思われます。
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平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
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私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って旅をしています。
平成芭蕉は元禄時代に生きた俳聖松尾芭蕉の旅から学んだことをお伝えします。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。平成芭蕉が体験した感動を「旅行+知恵=人生のときめき」をテーマにお話しします。