東海道の歴史
「行政区画」としての東海道
東海道とは本来、道ではなく行政区分の名称で、現在の三重県伊賀国から茨城県常陸国に至る太平洋沿岸の地方、すなわち畿内から本州太平洋側の中部エリアを指したものです。
三重県の西部の伊賀国から、伊勢国・志摩国(三重県)、尾張国・三河国(愛知県)、遠江国・駿河国(静岡県)、伊豆国(現在の伊豆半島及び伊豆諸島)、甲斐国(山梨県)、相模国(神奈川県中西部)、安房国・上総国(千葉県)、下総国そして茨城県の常陸国までを含みましたが、武蔵国(現在の東京都と埼玉県、神奈川県東部の一部)は771年までは東山道に属していました。
律令時代における「道」としての東海道
東海道は律令時代に設けられた五畿七道駅路(都と大宰府及び五畿七道の国府とを結ぶ迅速な情報伝達を目的とする道路網)の一つで、畿内から常陸国国府へ至り、常陸国からは、陸奥国(東山道)への連絡道が設けられていました。一方、今日の中山道にあたる東山道は、近江(滋賀県)を起点に、美濃(岐阜県)を経て陸奥・出羽国(東北地方)に通じていたとされています。
東海道は、東山道に比べると多数の大河川の下流(揖斐川・長良川・木曽川・大井川・安倍川・富士川・多摩川・利根川・太日川など)および東京湾・香取海を渡る必要があったため、馬で渡れない場合は概ね渡船に頼る必要があり、通行は容易ではありませんでした。(771年までは武蔵国は東海道には属さなかったため、相模国からは東京湾を渡って上総国へ向かっていました)10世紀以降に、渡河の仕組が整備された結果、東海道が活発になったと考えられています。
古代の東海道ルート
首都が飛鳥に置かれた時期には、大和国の宇陀が、東海道方面への入口だったとされ、平城京に遷都されると、平城京から北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って伊賀国に入り、鈴鹿山脈と布引山地の鞍部を加太越(かぶとごえ)で越えて伊勢国へ、木曽三川の下流を渡って尾張国津島へ、名古屋市を通り、三河国と続いていったと考えられています。
そして浜松市付近から駿河国府(静岡市)に至る経路は、江戸時代の旧東海道よりも、やや海岸寄りを通っていました。焼津市と静岡市との境の峠は「日本坂」と呼ばれ、日本武尊の東征伝説や万葉集の歌にも詠まれた難所でした。
平安時代には、やや内陸寄りの宇津ノ谷峠を通る経路へ変更され、「蔦の細道」として知られています。駿河国府以東は、現在の東静岡駅前にある静岡県コンベンションアーツセンター(グランシップ)直下付近を通り、駿河国と相模国の国境の峠越えは、沼津から「永倉」駅(長泉町)を経て「横走」駅(御殿場)を経由し、「足柄峠」を越え、坂本駅(関本)に至る足柄路が使われました。
しかし、富士山の延暦噴火(800年〜802年)の際にこの駿河側の復旧に時間を要したため、新たに三島から箱根カルデラを縦貫し小田原へ至る箱根路(箱根八里)が開かれ、甲斐国府(山梨県笛吹市)へは横走駅から北上する分岐路(甲斐路)を通りました。
相模国では国府津から大磯まで相模湾沿いに東へ進み、相模国中部(寒川町南西付近)で相模川を渡っています。
771年以前はそこから鎌倉へ向かい、それ以東は次の上総国へ向かうために、三浦半島へ入り、「走水(はしりみず)」から浦賀水道を渡って房総半島(上総国富津)に入りました。そこからは北上し、上総国府(現在の千葉県市原市)へ向かい、安房国府へは富津から南下する分岐路を通り、上総国府から下総国府(千葉県市川市)へも分岐路が伸びていました。
上総国府を経た後は引き続き北上し下総国荒海駅(成田市)で香取海を渡船し常陸国榎浦(えのうら)津駅(稲敷市柴崎)へ入り、常陸国府(茨城県石岡市)へ至りました。
鎌倉以降の東海道ルート
鎌倉幕府が開かれた鎌倉時代においては、鎌倉が古い東海道の沿道上に所在しており、「武家の政庁所在地」鎌倉と、「朝廷・院の所在地」京都を結ぶ最も重要な街道として、幕府は東海道ルートに駅制を敷き、京都 - 鎌倉間の通常の旅程を約12 - 15日、早馬による緊急の通信は3、4日と定めました。
この鎌倉極楽寺坂切通しと京都粟田口を結ぶ街道は、単に「鎌倉街道」「鎌倉往還」と呼ばれたり、「海道」と呼ばれ、同時に「箱根路」の整備も進められました。
鎌倉時代の東海道は、平安時代の東海道とは大きくルートが異なるところが2箇所あります。 1つは近畿・中京を連絡する「鈴鹿峠越え」で、もう1つは東海・関東を連絡する「足柄峠越え」です。
伊吹・鈴鹿山系を越える道筋は、古代東海道では南回りの鈴鹿峠越えでしたが、中世になって関ヶ原越えのルートに変更され、『海道記』『十六夜日記』のなかからもその違いを読み解くことができます。また、足柄越えは『十六夜日記』のなかで「足柄は道遠しとて箱根路にかかる」とあるように、それまで駅路の整備が難しかった箱根路が開発され、近道となった箱根峠越えに変更されました。
十返舎一九「東海道中膝栗毛」と歌川広重「東海道五十三次」
旧東海道が整備されたのは、徳川家康が関ヶ原合戦に勝利した翌年の慶長6年(1601)でした。そして、将軍綱吉の元禄年間(1688~1704)になると農村での生産拡大と都市商人の台頭による経済活動の活発化によって旅が大衆化し、街道では参勤交代の大名行列だけでなく、一般人の往来が増え、今日でいう庶民の旅が活発化しました。
この旅ブームの火付け役となったのはやはり、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」(とうかいどうちゅうひざくりげ)と歌川広重の描いた「東海道五十三次」の浮世絵でした。
1833年(天保4年)の「保永堂版東海道五拾三次」の成功は、浮世絵界における広重の名を不動のものにしましたが、この作品では宿場の年中行事、名所旧跡に旅の風俗も加えて各宿場の特徴がわかりやすく紹介されており、大衆に受け入れやすく描かれています。
一方『東海道中膝栗毛』は、1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされた十返舎一九の滑稽本で、「栗毛」とは栗色の馬を指し、「膝栗毛」は自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行のことを意味します。
主人公の弥次郎兵衛と喜多八、繋げて『弥次喜多』の旅道中物語は、文学的な価値とともに、挿絵が多く挿入されており、江戸時代の旅の実状を記録する貴重な資料にもなっています。
そしてこれは、本陣や脇本陣を利用する武士だけでなく、旅籠に宿泊した庶民も東海道や伊勢詣で旅を体験し、その思いを重ね合わせ、旅にあこがれる読者層の共感を呼んだ道中記です。
主人公が府中(静岡市葵区)出身の弥次さんと江尻(静岡市清水区)出身の喜多さんで、作者の十返舎一九も静岡市出身のため、駿府城公園の堀沿いには「東海道中膝栗毛」刊行200周年を記念し、巽櫓をバックに弥次さん(左)喜多さん(右)がベンチに座って佇んでいます。
往来手形と関所手形
江戸時代の庶民が旅をするときには、身分証明書と通行許可証を兼ねた往来(道中)手形が必要で、これは居住する村の名主か、檀家として所属する檀那寺(だんなでら)に発行してもらいました。
書式は手形所持者の住所と名前、宗旨名、旅の目的が書かれており、泊まる場所がなく途方に暮れている場合は宿を提供してもらい、病死した場合はその地域の作法によって取り扱いを決めてもらうように依頼してあります。
また、諸国の関所を通行するときには関所手形も必要で、これは町方なら大家、村方なら名主等の町役人が発行しました。ただし、女性の場合は、特別な関所手形が必要で、これは「関所女手形(「御留守居証文」ともいう)」と呼ばれました。
弥次さん喜多さんは、ふだん不義理をしていた檀那寺へ百文奮発して往来手形をもらい、大家へはたまった借金を支払ってやっと関所手形を受け取り、無事に箱根の関所を越した際、箱根の宿で祝杯を挙げています。
東海道と参勤交代
江戸時代の参勤交代では、日本橋が起点の東海道を通って、多くの大名が国許と江戸を往復しました。しかし、この江戸と国許を行き来する参勤交代は、大名たちにとっては大きな負担でした。そこで、経費節減のために1日に少しでも長く進もうと、朝早くから準備を整えて出立しました。
しかし、隊列を組んで壮麗な行進をするのは町中だけで、宿と宿との間は駆け足で先を急ぎました。隊列の全員を正規の武士で揃えるのは難しく、臨時に人足を雇って水増ししていました。
宿ごとに雇う「宿継ぎ人足」、国許から江戸まで通しで雇う「通(とおし)日雇い」などがあり、専門の斡旋業者も存在しました。経費を抑えながら藩主の威厳を誇示するには今の派遣スタッフの活用がかかせませんでした。
東海道57次(京街道)
一般には東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までの53次とされていますが、宝永年間の調査では江戸大坂間137里4町1間をもって東海道とし、道中奉行所の勘定方であった谷金十郎も「東海道の宿は品川宿(1宿目)から守口宿(57宿目)」と記しているのです。
京都と大阪を結ぶ道筋は、古くは淀川を船で往来していましたが、大坂と伏見に壮大な城を築いた豊臣秀吉は、この間を最短距離で結ぶために文禄3(1594)年、毛利輝元をはじめとする毛利一族に命じて淀川左岸に堤を築かせました。
これが「文禄堤」ですが、秀吉は京橋を起点として堤上の陸路を京街道として整備したのです。これが江戸時代に入り、徳川秀忠により高麗橋を起点とする東海道57次となったのです。すなわち、京街道は東海道の1部なのですが、東海道57次では大名が天皇と謁見するのは好ましくないとの理由から、京都には入らずに大津宿から伏見宿に向かっています。
この京街道4宿にも、東海道53次の宿場同様に、諸大名の宿泊所となる本陣、大名側近のための脇本陣、家臣や庶民のための旅籠が設けられ、公用荷物の運搬を担当する問屋(といや)場も置かれていましたが、この4宿では特に淀川の舟運により、人や物資の移動が活発に行われ、出船、入船で繁盛していました。
今日では、この京街道の宿場の歴史を再発見し、東海道57次を宣伝しようと、守口宿では「守口の歴史と文化を活かしたまちおこし」、枚方宿では鍵屋資料館の開設や淀川舟運シンポジウムの開催、伏見宿では伏見二十石船の復元をイメージする十石舟の運行などのまちおこしを推進する運動が高まっています。
松尾芭蕉の旅から学ぶ旧東海道の名所
俳聖松尾芭蕉は旧東海道を『野ざらし紀行』の旅で歩いています。貞享元年(1684)8月、41歳になった芭蕉は東海道を上り、生まれ故郷の伊賀上野へ帰郷し、奈良・京都・大津・名古屋を訪ねて江戸へ戻るまでの9か月に及ぶ旅でした。旧東海道を歩く楽しみの一つは、松尾芭蕉の足跡をたどって、『野ざらし紀行』をはじめとする俳聖の詠んだ俳句を味わってみることです。「野ざらしを心に風のしむ身かな」
『野ざらし紀行』俳文碑
〔富士市本町 富士市民交流プラザ 平垣公園〕
富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨て子のあはれげに泣くあり。この川の早瀬にかけて、浮き世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。小萩がもとの秋の風、こよいや散るらん、あすやしほれんと袂より喰物投げて通るに
「猿を聞く人 捨て子に秋の 風いかに」
富士川のほとりで芭蕉は「捨て子」と出会うも自分にはどうすることもできない。山峡に鳴く猿の声に哀れを感じた詩人たちよ、猿の声と捨て子の泣声とどちらが哀切に感じるか、答えは明らかでしょう。
〔三島市山中新田 富士見平駐車場〕
「霧しくれ 富士を見ぬ日そ 面白き」
自分の尊敬する西行や李白・杜甫も旅の中で彼らの歌や詩はみがかれたので、芭蕉も門人千里と共に東海道を西上する旅に出るも、箱根を超えたのは秋の冷たい霧雨の降る日で、目当ての富士が霧雨の中に姿を隠してしまったが、これもまた旅の風狂で面白い。
〔島田市金谷新町2253 長光寺〕
「道のへの 木槿(むくげ)は 馬に食はれけり」
旧東海道の金谷の一里塚から南に向かってJR金谷駅のガードをくぐり階段を上った高台に長光寺があります。この句は大井川付近で詠まれた、「馬上吟」または「眼前」と前置きがあり、芭蕉が馬の背に揺られながら吟したものです。馬がふと立ち止まったかと思うと、芽の前で白い木槿の花をむしゃむしゃと食べてしまったという驚きを句にしています。
この時芭蕉は仏頂和尚の禅の教え「放下著(ほうげじゃく)」〔いっさいを捨て去るとすべてが生きかえる〕を思い出したと言われています。
〔掛川市佐夜鹿291 久延寺〕
「馬に寝て 残夢(ざんむ)月遠し茶の煙」
久延寺は旧東海道牧之原台地、小夜の中山峠の頂上付近に位置する古刹です。本尊は、聖観音で、「昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の仇を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである。」という夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称されます。この句は貞亨元年(1684年)8月、箱根に次ぐ難所で西行も歌を詠んだ小夜(さよ)の中山で詠まれた句。
半分眠りながら(馬に寝て)、夢見心地で(残夢)空をみると、まだ遠くに有明の月が浮かんでいる(月遠し)、目をこすってよく見たら農家のかまどからは朝茶を煮る煙が立ち上っている(茶の煙)
旧東海道を歩く楽しみの一つは、松尾芭蕉の足跡をたどって、俳聖の詠んだ俳句を味わってみることです。
代表的な東海道の芭蕉句碑
〔丸子宿・丁字屋前 (静岡市)〕『猿蓑』
「梅若菜 丸子(まりこ)の宿の とろろ汁」
(梅が花咲く春が来た、大地に新芽(若菜)が芽吹く春が来た、そして、(丸子宿の)とろろ汁の美味しい春が来た)
この句は芭蕉が1691(元禄4)年に江戸へ旅立つ門人、乙州(おとくに)にはなむけとして贈ったものです。東海道五十三次の21番目の宿場だった丸子宿(現静岡市駿河区丸子)は鞠子宿とも書き、東海道の中で一番小さな宿場町ですが、ここに宿場の茶屋として1596(慶長元年)に創業されたのがとろろ汁で有名な丁字屋です。とろろ汁は生態系農法で栽培された自然薯と自家製の白みそ、鰹節を合わせてつくられています。
また有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の「丸子宿」は、クロード・モネが「積みわら-日没」を描く際、その構図やグラデーションを参考にしたと言われています。
そして静岡生まれの十返舎一九は「東海道中膝栗毛」の丸子の場面で「けんかする 夫婦は口をとがらして 鳶(とんび)とろろに すべりこそすれ」という狂歌を残していますが、宿場の夫婦が、けんかしながら作ったとろろ汁をぶちまけてしまい、とろろの師匠である鳶も滑ってしまったという意味で、駿河のわらべ歌に由来しています。
丁字屋は国道1号線沿いにあり、店の前は丸子川、店の裏の1号線の向かいが丸子梅園(現在は法華梅院)。
〔府中宿・清水寺境内 (静岡市)〕『炭俵』
「駿河路や花橘も茶の匂ひ」
(駿河は茶の産地である、香りの強いタチバナさえも茶にはかなわない)
元禄7年5月17日、51歳の芭蕉最後の西上の旅では、大井川の増水で芭蕉は島田に4日間足止めをくって、塚本如舟に世話になった折の句です。芭蕉がかいだ茶の匂いは、新茶ではなく、黒製とも呼ばれた釜炒り茶の強い炒り香と考えられます。
府中宿は駿府城の城下町として発展し、隠居した徳川家康の入府に伴い、この地に諸国から人夫が大勢集まって、男同士の争いが絶えなかったので遊郭安倍川町ができました。
駿府音羽山清水寺は、守護大名、今川氏9代氏輝の創建で、「きよみずさんの花火」で古くから親しまれており、毎年7月9日に観音様の御縁日法要(四万八千功徳日法要)を厳修し、その時に打ち上げられる奉納花火が静岡では夏祭りの始まりとして古くから夜空を彩っています。
清水寺は徳川家ゆかりの寺で、御本尊の千手観世音菩薩像は徳川家康公の念持仏が寄進されたものです。境内には「駿河路や はなたちばなも 茶のにおい」の芭蕉句碑が建っていますが、実際に読まれたのは島田と言われています。
〔島田宿・大井川川越遺跡/川会所跡前庭 (島田市)〕『泊船集』
「馬方は しらじ時雨の 大井川」
(私を金谷まで運んで戻ったあの馬方は、時雨の大井川を越えた私の難儀を知るまい)
元禄4年10月下旬、最後の江戸東下の旅の途中で島田の塚本如舟宅に泊った折に詠まれた芭蕉48歳の俳句です。「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と詠まれたように、江戸時代、大井川は東海道の難所の一つでした。橋がなく流れが急な川は、川越人足の肩や連台に乗って渡るしかなく、雨で増水ともなれば川留めになり、最高で28日間川留めが続いた記録が残っています。
旧東海道沿いの「大井川川越遺跡」では、旅人が川を渡るための「川札」を買った川会所をはじめ、川越人足が待機していた番宿、川札(川の水位によって5段階の料金)を換金した札場などの街並みなどが復元されており、川越遺跡西側に隣接する「島田市博物館」では「旅と旅人」をテーマに、1階の常設展示室では旅道具や連台、川越しの様子、島田宿などをジオラマビジョンなどにより分かりやすく展示、2階の企画展では島田の歴史や文化をはじめ民俗や産業、美術などを紹介しています。
東海道を歩く信仰の旅
伊勢へのお陰参りの旅
旧東海道を使った信仰の旅は秋葉信仰と伊勢へのお蔭参りが有名です。江戸時代には数百万人規模のもの伊勢参詣が、およそ60年周期(「おかげ年」)に3回起きています。 伊勢へのお蔭参りの特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣していたため、これが伊勢へのお蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんです。
お蔭参りに行く者は、「伊勢講」と呼ばれる講の代表として集落から集められたお金で伊勢に赴いたため、手ぶらで帰ってくる事がはばかられた。そのため、当時、最新情報の発信地であったお伊勢さんで知識や技術、流行などを知り、見聞を広げるための旅でもありました。
秋葉信仰の旅
火事が多かったとされる江戸時代、全国的な流行を見せた秋葉信仰でしたが、明治元年(1868年)、明治政府による神仏分離令で、神仏習合である秋葉大権現も分離を迫られました。
秋葉山は天狗が棲む山としても知られており、神仏分離以前は秋葉信仰の対象でもあり、秋葉山の修験者「三尺坊」は、秋葉山で修行を積み、後に「秋葉三尺坊大権現」という天狗になったといわれ、神仏分離後は秋葉山中腹にある秋葉寺で祀られています。
七月七日は先祖供養の旅
七夕とは「七」の日の「夕」と書きますが、これは7月7日の夜の十五夜になる手前の「上弦の月」を意味します。上弦の月の頃は「あの世」と「この 世」が半分ずつになる日とされ、上弦の月から始まって十五夜まではご先祖様がこの世に存在する日です。そして、十五夜、すなわち満月になればご先祖様はまたあの世に帰っていきます。七夕とは本来ご先祖様を供養するお盆の行事なので、ご先祖様が歩いた旧街道から夜空の月を鑑賞することをお勧めします。
*関連記事:平成芭蕉こだわりの「奥の細道の旅」~黒羽から大垣へ
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。
★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って旅をしています。
平成芭蕉は元禄時代に生きた俳聖松尾芭蕉の旅から学んだことをお伝えします。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。平成芭蕉が体験した感動を「旅行+知恵=人生のときめき」をテーマにお話しします。