日本遺産旅行講座

大分県日田市の日本遺産「咸宜園」

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「近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ー」

日本遺産のストーリー  〔大分県日田市〕

我が国では、近代教育制度の導入前から、支配者層である武士のみならず、多くの庶民も読み書き・算術ができ、
礼儀正しさを身に付けるなど、高い教育水準を示した。
これは、藩校や郷学、私塾など、様々な階層を対象とした学校の普及による影響が大きく、
明治維新以降のいち早い近代化の原動力となり、現代においても、学問・教育に力を入れ、
礼節を重んじる日本人の国民性として受け継がれている。

平成芭蕉、「咸宜園」で廣瀬淡窓の思想に触れる

日本最大規模を誇った私塾「咸宜園」

日本遺産の調査を兼ねて「耶馬渓」を巡った際、私は頼山陽も身を寄せた、日田市にある日本最大規模を誇った私塾「咸宜園」にも立ち寄りました。

この「咸宜園」は

日本最古の学校「足利学校」(栃木県足利市)

世界最古の庶民のための公立学校「閑谷学校」(岡山県備前市)

日本最大規模の藩校「弘道館」(茨城県水戸市)

と共に「近世日本の教育遺産群~学ぶ心・礼節の本源~」として日本遺産に初年度登録された私塾です。

この私塾は儒学者であり詩人でもあった廣瀬淡窓が、

「人材を教育するのは、善の大なるものなり」

といった考えから開設し、毎月成績評価を行う「月旦評」などの公平な教育が評判となり、塾生の数では日本最大規模を誇りました。

「咸宜園」における廣瀬淡窓の思想

塾名の「咸宜園」とは「咸(ことごと)く宜(よろ)し」、すなわち「すべてのことがよろしい」という意味で、どんな階級出身者でも入塾を可能とする、誰でも公平に学べる学校でした。

また、この言葉には「学問に偏りがあってはいけない、広く様々な学問を学ぶべし」という意味も込められています。

私も講師という立場から、咸宜園の教育システムをこの機会に詳しく知りたいと思って、咸宜園に詳しい管理者の高木先生に解説していただきました。

高木先生によるとこの咸宜園では、「人にはそれぞれ個性があり、能力も異なるので、その能力にあった使い方をすれば役に立たない者はいない」という廣瀬淡窓の考えが徹底されていたそうです。

すなわち「鋭きも 鈍きもともに 捨てがたし 錐(きり)と槌(つち)とに 使い分けなば」

という廣瀬淡窓の和歌がその思想を象徴しています。

また、淡窓は幼少の頃、体が弱く、妹に負担をかけたことを悔いており、生涯を通じて「善行」にこだわって、純粋な善行が1万回になることを目指して『万善簿』なる記録もつけていました。

頼山陽も感銘を受けた咸宜園門下生「中島子玉」

しかし、私がもっとも感銘を受けたのは多くの優秀な門下生を育てたことです。

幕末に活躍した維新十傑の一人で陸軍の創始者とも言われる大村益次郎や日本の夜明けをリードした蘭学者の高野長英は有名ですが、中島子玉という門下生も知っていただきたいと思います。

頼山陽が咸宜園に淡窓を訪ねた際、淡窓に命じられて実際に応対した人物が中島子玉です。

頼山陽は九州旅行で「すばらしいものに2つ出会った」と言っており、1つは「耶馬渓」の景観ですが、もう1つはこの「中島子玉」という人物でした。

頼山陽は淡窓の知遇を得るために咸宜園を尋ねたのですが、実際に接遇したのは若い門下生の中島子玉だったため、頼山陽は当初、彼を軽んじて相手にしませんでした。

しかし、子玉が添削を依頼して差し出した漢詩をみた山陽は愕然とし、

「子(子玉)の学才、此の如く秀逸なるを知らざりしは予の不明である」と謝罪しています。

私は頼山陽が山国川沿いの山水画の風景を漢詩文を添えて「耶馬渓」と命名、天下に知らしめてくれましたが、その頼山陽に感銘を与えた咸宜園の門下生第一の英才、中島子玉の名前も記憶すべきだと思います。

廣瀬淡窓と門下生「中島子玉」より時間の大切さを学ぶ

残念ながら子玉は34歳という若さで世を去ったため、師の淡窓は運命を呪う言葉を日記に記しています。

そこで咸宜園では、「学ぶ期間は人それぞれで異なる」といった、人生における限られた時間を大切に使えるような配慮がなされていましたが、誠に人生において生きている時間はお金以上に貴重です。

会社経営をしていた私の父も「お金持ちになるより時間持ちになれ」と私に言っていましたが、私もこの年になってお金を管理することも重要ですが、時間を管理することこそが幸福の源であると理解するようになりました。 by 【平成芭蕉

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