平成芭蕉の旅語録〜街道情緒と五百羅漢、鶉野飛行場や戦争遺跡の加西市 | 【黒田尚嗣】平成芭蕉の旅物語

令和の「平成芭蕉」

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平成芭蕉の旅語録

平成芭蕉の旅語録〜街道情緒と五百羅漢、鶉野飛行場や戦争遺跡の加西市

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加西市に残る貴重な第一次大戦の遺跡「青野原捕虜収容所跡」

加西市と言えば兵庫県立フラワーセンターが有名ですが、今回は加西市ふるさと創造部文化・観光・スポーツ課の方々に加西市の歴史的スポットをご案内いただきました。

加西市では最近、第二次大戦時の「鶉野飛行場」跡が注目を浴びていますが、加西市青野原(あおのがはら)町には第一次大戦時の貴重な遺産が残っています。それは「青野原俘虜収容所」と呼ばれた第一次世界大戦時にドイツとオーストリア=ハンガリーの捕虜(当時の表現では俘虜)を収容するために作られた収容所です。

青野原俘虜収容所跡地

1914年の第一次世界大戦においては、日本はイギリスとの同盟関係により連合国側でドイツ・オーストリア・トルコなどの同盟国と戦い、ドイツの租借地であった中国の青島(チンタオ)を攻め、そこに駐留していたドイツとオーストリア=ハンガリーの兵士合わせて約4,700名を捕虜としました。

そして捕虜たちは1915年9月以降、専用施設を備えた本格的な収容所に移され、最終的に俘虜収容所は全国6か所(習志野<千葉県>、名古屋<愛知県>、青野原<兵庫県>、板東<徳島県>、似島<広島県>、久留米<福岡県>)に集約されたのです。

青野原俘虜収容所のスケッチ

青野原は1889年に軍馬育成場とされ、その後は陸軍の演習場として使われていましたが、この演習場内に俘虜収容所が設置されました。そしてこの青野原俘虜収容所には、主としてオーストリア=ハンガリー(ハプスブルク帝国)の兵が収容され、彼らの多くは帰国の時(1920年1月頃)までの期間を青野原の地で過ごしました。

青野原収容所では、将校が暮らす宿舎と一般兵が暮らす兵舎が分かれており、事務室と医務室のある建物や酒保と呼ばれる売店もありましたが、現在では将校用の個人風呂が唯一残っています。

将校用の個人風呂

今回は青野原俘虜収容所跡保存会代表の藤田孝一氏に現地をご案内いただき、捕虜だったハインリヒ・ハンクシュタインが遺した写真をもとに当時の捕虜たちの生活についての説明も受けました。

捕虜のハンクシュタインが遺した写真

青野原捕虜収容所の存在意義を理解するには、第一次世界大戦では日本はドイツと戦ったことを知っておく必要があります。その意味では徳島県の坂東俘虜収容所(ドイツ村公園)にも訪れて、松江所長の「武士の情け、これを根幹として俘虜を取り扱いたい」の理念と日本で最初に演奏された「第九」についても知っておくと理解が深まります。

「播磨風土記」根日女伝説ゆかりの玉丘古墳

次に訪れた玉丘史跡公園には、4世紀末から6世紀にかけて造られた古墳群があり、最大の前方後円墳である「玉丘古墳」については「播磨風土記」根日女の伝説と玉丘の名前の由来が記されています。

玉丘史跡公園の玉丘古墳

根日女に求婚するも譲り合って結婚せずに死なせてしまった2人の皇子が「朝日夕陽が隠れることなく照らし続ける地に墓を造って、根日女の骨(かばね)を納め、玉で墓を飾ろう」と言ったことから墓を玉丘と名付けたという伝説です。

公園内では造り出しが付随するクワンス塚古墳、ホタテ貝式の笹塚古墳マンジュウ古墳愛染古墳壇塔山古墳などの円墳を間近に見ることができます。特に兵庫県で5番目の大きさを誇る全長109mの玉丘古墳には見学道が設けられており、発掘調査で現れた長持ち型石棺の埋葬施設を見ることができます。

玉丘史跡公園内の古墳群

しかし、私が興味を抱いたのは、玉丘古墳をはさんで西と東の対の位置にある、陪塚(ばいちょう)第1号墳第2号墳で、西側の第1号墳は径約25mの円墳ですが、東側の第2号墳の墳丘は、、幅約4mの溝が墳丘周囲を方形に巡る方墳であることが明らかですが、2つ合わせて前方後円墳とも考えられます。

堀に囲まれた陪塚第1号墳

ここは単なる公園としではなく、「播磨風土記」ゆかりの古墳群として訪れるべき場所です。

原始人会の「土一七日屋台(どいなかやたい)」名物ぼたん鍋

昼食は加西市の最北端に位置する上万願寺町の「土一七日屋台(どいなかやたい)」で、名物のぼたん鍋を食べました。

原始人会の「土一七日屋台」

ここは原始人会の施設で、近くには「てる」と「市兵衛」という男女の悲恋物語に由来する「女切峠」があります。原始人会の主な活動は、その「女切峠」の名をとったどぶろく・甘酒の醸造販売や古民家を利用した宿泊施設「大谷山荘」の運営ですが、その関連施設である「土一七日屋台」では、名物のぼたん鍋をはじめ地元の食材をふんだんに使用した「土一七日(どいなか)定食」等のジビエ料理が提供されているのです。

名物のぼたん鍋御膳

私の食べたぼたん鍋膳は少し量が多めでしたが、他に鹿カツ定食やミニ牡丹鍋膳もありました。また、この交流館では食事・喫茶だけではなく、地域の特産品も販売されています。

加西市市街を一望できる赤松氏の居城「小谷(こだに)城」

昼食後は、加西市街を展望できる小谷城跡を訪ねました。小谷城と言えば、浅井氏の滋賀県小谷(おだに)城が有名ですが、加西の小谷(こだに)城は呼び名も時代も異なります。加西の小谷(こだに)城は標高218mの山頂に築かれており、現在は木が伐採されて城郭遺構も見やすくなっています。

小谷城のハイキングコース

登山口には陽松禅寺があり、小谷城を再建した城主赤松祐尚(すけひさ)の墓とその家臣の墓と伝えられる五輪塔や宝篋印塔などが立っています。

赤松祐尚(すけひさ)の墓

この城は応永年間(1394~1428)に赤松義則の養子で赤松満祐(みつすけ)の義弟にあたる祐政が築城し、赤松氏が滅ぶ契機となった嘉吉の乱の時には赤松直操(なおもち)の居城でした。

嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱は、室町幕府の6代将軍足利義教(よしのり)が赤松満祐に暗殺されたことに端を発する一連の事件です。小谷城を預かっていた赤松直操 は当時、龍門寺の禅僧でしたが、法衣を甲冑に着替えて坂本城に駆けつけ、生野峠で戦いましたが、山名氏に破れて自害したため、小谷城は山名氏の居城となりました。

小谷城の本丸跡

「応仁の乱」の後は、再び赤松氏の居城となりましたが、戦国時代前には廃城になっています。しかし、城跡には土塁や横堀の跡が残っており、頂上の本丸跡からは、加西市街や西国街道が一望でき、連絡拠点としても機能していたと考えられます。高低差は約150mで、ハイキング道も整備されており、山城初心者にとっても楽しめる城跡です。

小谷城の展望所

小谷城跡に登った後は、一旦、宿泊予定のホテルルートイン加西にチェックインしましたが、西国街道の北条の宿を散策するには絶好の場所にありました。

風土記の里に「五百羅漢」の石仏を訪ねる

北条の宿界隈は加西市歴史街道ボランティアガイドの水田加代子さんに案内していただきました。

最初に訪れた五百羅漢は天台宗の羅漢寺にありました。五百羅漢とは、仏(シャカ)に常時付き従い、仏滅直後の経典編纂に参加した仏弟子とされ、これに基づき500人の羅漢に対する信仰が生じて五百羅漢像が彫られるようになったと言われています。

この五百羅漢石仏は、元は南の酒見寺の伽藍の一部で、明治時代の廃仏毀釈後、現在の地に薬師堂が移築されて寺院とされたと考えられています。

表情豊かな五百羅漢石仏

境内北面に459体が鎮座しており、姿は風化していますが趣き深い表情です。材質は流紋岩で、一体一体の表情に個性があり、一説には帰化人をモデルにしたともいわれています。

古くから「親が見たけりゃ酒見北条の五百羅漢に御座れ」と唄われて、表情の異なる石仏の中には、必ず親や知人、または自分自身に似た顔があると言われています。

北条の五百羅漢

境内にはご本尊の薬師如来を祀る本堂、庚申堂、聖天堂があり、また、西方の極楽浄土へ導いてくださる来迎二十五菩薩像も圧巻です。

羅漢寺の来迎二十五菩薩像

11月中旬に紅葉ライトアップが開催されますが、新緑や石仏群が綿帽子をかぶる雪景色の季節もすばらしいと思います。

情緒ある西国街道「北条の宿」寺町通り散策

私たちは五百羅漢を後にして、次に酒見寺・住吉神社を参拝しましたが、西国街道「北条の宿(しゅく)」は、酒見寺・住吉神社の門前町として栄え、さらに山陽と山陰を結ぶ西国街道の交通の要衝でした。

北条宿の街並み

明治・大正・昭和にかけては、流通拠点として多くの商家が立ち並び、当時の繁栄が袖卯建(そでうだつ)虫籠窓(むしこまど)出桁(だしげた)等の町屋建築に残っており、旧街道の散策道として楽しめます。

酒見寺(さがみじ)は高野山真言宗の寺で、住吉神社と隣接しています。南端に加西市指定文化財の楼門があり、そこから北に延びる参道沿いに木組みの美しい多宝塔(国重要文化財)や地蔵堂、観音堂、常行堂が配されています。

酒見寺の桜門

特にこの多宝塔は、全国で最も美しい多宝塔といわれ、塔の屋根の上重が桧皮葺、下重が瓦葺という独特の様式で、装飾模様は優雅な極彩色です。

酒見寺の多宝塔

本堂は参道の突き当たりにあり、東側に色鮮やかな鐘楼(県指定文化財) 、西側には弁財天堂が建っています。

寺伝によれば、745(天平17)年、酒見明神の神託を受けた行基菩薩が聖武天皇に奏上し、泉生山酒見寺として開創した勅願寺で、隣接する酒見明神社(現、住吉神社)の別当寺も兼ねていました。

色鮮やかな酒見寺の鐘楼

平安時代から勅使の参詣が行われていましたが、平治の乱を含めて2度全山を焼失しています。しかし、江戸時代に姫路城主となった池田輝政が援助を行い、池田家の転封後は本多忠政の帰依を受け、寛永年間(1624年 - 1643年)になって江戸幕府の命を受けた実相院隆恵によって再興されました。

さらに江戸幕府3代将軍徳川家光が朱印寺と定めたことから隆盛し、これまで天皇や幕府、藩により厚く保護され、瓦にも葵も紋が入っています。

住吉神社(酒見明神社)

酒見明神社と呼ばれた住吉神社播磨国の三宮で、毎年4月に行われる東西の神輿、15台の豪華な屋台が街中を巡行する「北条節句祭り」は播州三大祭りの一つに数えられています。

寺町通りには貴重な瓦屋根の大信寺、鐘楼のある西岸寺や法華経を納めた妙典寺が並び、商家の家並みの町には天皇の「旅」を連想させる「御幸(みゆき)町」「御旅(おたび)町」といった町名が残っています。

寺町通りの大信寺

本来ならば旧丹波街道の横尾街道も歩きたかったのですが、今回は寒さのために断念し、ホテルの前にある創業明治14年の伝統ある「割烹 四ツ目」で暖かい食事をとって明日に備えることとしました。

割烹「四ツ目」

私は西宮青年会議所に所属していた当時、たびたび加西を訪れていましたが、今回の歴史の旅では種々のストーリーが、「時の流れの忘れ物」のように心に残りました。

北条鉄道で加西市の誇る貴重な戦争遺跡「鶉野(うずらの)飛行場跡地」へ

翌日は北条町の「えぇもん王国」で加西市の地産地消「ほっこり・あったか」モーニングサービスの朝食をとった後、北条駅から北条鉄道に乗りました。

えぇもん王国のモーニング

北条鉄道鉄印帳28番の兵庫県加西市の北条町駅から粟生(あお)駅までを結ぶ全8駅のローカル鉄道です。北条町駅が唯一の有人駅で、他の駅はボランティア駅長により駅舎の管理、運営、イベントなどが行われています。駅長は約2年の任期の中で、自分の特技や趣味を生かした活動により、北条鉄道の活性化につながる活動がなされており、例えば播磨横田駅ではコントラバス奏者の駅長がクラシック教室を開催しています。

北条鉄道法華口駅

車両は一両編成のディーゼルカーで、私の乗った列車は女性の運転士でした。目指す鶉野飛行場跡地は西国二十六番札所の法華山一条寺の最寄り駅である法華口駅で下車します。

鶉野飛行場の最寄り駅「法華口」

ミニ三重塔の立つ法華口駅から加西市まちづくり協会の河原事務局長に同行していただき、念願の鶉野飛行場跡地を巡りました。鶉野飛行場跡(姫路海軍航空隊鶉野飛行場、川西航空機姫路製作所鶉野工場跡)は、ミッドウェー海戦を境に戦況が悪化しはじめた頃、優秀なパイロットを養成するため、昭和17年に着工し、昭和18年に完成した旧日本海軍の飛行場跡です。

鶉野飛行場の門柱と衛兵詰所跡

飛行場の建設に伴い、昭和18年10月には姫路海軍航空隊が開設され、飛行場の西南の川西航空機姫路製作所鶉野工場では、「紫電」「紫電改」など 500機余りの戦闘機が組み立てられました。

1t爆弾にも耐える爆弾庫跡

まずは近くの1t爆弾にも耐えるとされた爆弾庫跡防空壕を見学し、門柱の残る衛兵詰所跡から対空機銃座跡にも案内していただきました。この機銃座跡は地下室も完全な状態で残っており、1分間に230発の弾を発射できたと言われています。

対空機銃座跡

次に訪れたカモフラージュされた巨大な防空壕跡は、自力発電所として使われていた場所ですが、ここでは厳しい飛行訓練を重ね、敵地へと出撃した姫路海軍航空隊の神風特別攻撃隊「白鷺隊(はくろたい)」所属の隊員たちが残した遺書が映像にて公開されています。

巨大防空壕跡のシアター

当時、航空隊には、17歳から25歳までの若者が全国から集められ、終戦までに63名の尊い命が失われました。

日本海軍最後の切り札となった「紫電改(紫電21型)」U.Sコード”George”

鶉野飛行場には「紫電」「紫電改」の試験飛行に使用された約1200mの滑走路跡が当時のままの姿で残っていますが、その中間地点には平成11年、尊い犠牲の上に築かれた平和が永遠に続くことを願い、「平和祈念の碑」が建立されています。

鶉野平和記念の碑苑

また、滑走路の先にある格納庫を模した備蓄倉庫には「紫電改」の実物大模型と操縦席が展示されています。局地戦闘機「紫電改(紫電21型)」は優秀であったがゆえに過酷な任務を与えられ、かけがえのない若者の青春と運命をともにしたのです。

備蓄倉庫と実物大の紫電改模型

日本海軍最後の切り札ともいうべきこの最強戦闘機の操縦席に身を置けば、翼を左右に振り、別れの合図を送って串良基地(鹿児島県)から出撃した若い人たちが、国のため、家族のためという純粋な気持ちで命を捧げたことを思うと胸が締め付けられました。

紫電改の操縦席

現在、「紫電改」は世界に4機あり、日本では唯一、愛媛県南レク馬瀬山公園に保存されており、私は来春には馬瀬山公園の紫電改展示館も訪ねたいと思いました。馬瀬山公園の「陽光桜」が、平和を願う人々の想いを秘めて、毎年春には美しい花を咲かせているからです。

西国第二十六番札所の法華山一条寺は桜の紅葉の名所

鶉野飛行場跡を見学した後の昼食は、純米蔵・富久錦の直営店「ふく蔵」で「ふく蔵弁当」を食べました。

数量限定の「ふく蔵弁当」

「ふく蔵」は明治時代の酒蔵を再生しており、木と土のぬくもりのある空間で、地元・播磨の食材を中心に、素材の味を活かした美味しい料理を提供しています。また、1階のショップでは、純米蔵・富久錦の純米酒が販売されていました。

ふく蔵のショップ

今回の視察の最終目的地である法華山一条寺は、加西市歴史街道ボランティアガイドの森会長にご案内いただきました。法華山一乗寺(いちじょうじ)は、650年、法道仙人の開山で、仙人はインドより紫雲に乗ってこの地に降りて山を法華山と命名されたと言われています。法道仙人は観世音菩薩像と鉄鉢と仏舎利を持ち、飛鉢の術をもっていました。そして法道仙人が孝徳天皇のご病気を平癒させたことから、孝徳天皇は法華山に金堂を建立し、鎮護国家の道場とされました。

西国第26番札所の法華山一条寺

988年の花山法皇が御幸された際には、金堂を大悲閣と命名され、西国第二十六番札所として「春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙なる法の華山」の御詠歌を残されています。

大悲閣と呼ばれる本堂

境内入口から最初の石段を上った狭い平地の左手に常行堂(阿弥陀堂)があり、次の石段を上ると左手に国宝の三重塔、右手に法輪堂(経蔵)が建っています。三重塔から、さらに階段を上った位置に懸崖造の本堂(金堂・大講堂・大悲閣)が建つており、このため、本堂の縁に立つと平安時代後期を代表する和様建築の三重塔を見下ろすことができます。

平安時代の優美な三重塔

本堂裏手には鎮守社の毘沙門天を祀る護法堂、妙見菩薩を祀る妙見堂、弁財天を祀る弁天堂(以上重要文化財)、役小角の行者堂があり、本堂からさらに200メートルほど登ったところに法道仙人を祀る奥の院開山堂が建っています。

奥の院にある法道仙人を祀る開山堂

奥の院にある法道仙人を祀る開山堂

私は両親が亡くなった際に、西国三十三カ所の霊場巡りをしましたが、紅葉の時期に訪れたこともあり、この一条寺の奥の院開山堂はとても印象に残っています。

総じて加西市の文化財は多様性に富んでいるため、テーマ別に訪ねてそれぞれのストーリーを理解すると楽しめます。

日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!

「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はこのたび『縄文人からのメッセージ』というタイトルで令和の旅を語り、Amazonの電子本として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。

★平成芭蕉ブックス
 ①『日本遺産の教科書 令和の旅指南』: 日本人の心に灯をつける 日本遺産ストーリーの旅
 ②『人生は旅行が9割 令和の旅指南Ⅰ』: 長生きして人生を楽しむために 旅行の質が人生を決める
 『縄文人からのメッセージ 令和の旅指南Ⅱ』: 縄文人の精神世界に触れる 日本遺産と世界遺産の旅 

平成芭蕉ブックス『令和の旅指南』

★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」

私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って日本遺産を旅しています。

平成芭蕉のテーマ旅行

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平成芭蕉は「検索すればわかる情報」より「五感を揺さぶる情報」を提供します。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。

「令和の旅」へ挑む平成芭蕉

*「平成芭蕉の旅物語」サイトマップ参照

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