Contents
- 1 「平成芭蕉の旅行術」は芭蕉さんの知恵
- 2 芭蕉さんの功績は「俳句」だけではありません
- 3 芭蕉さんの時代における「旅」事情
- 4 芭蕉さんの教えは「旅行+知恵=人生のときめき」
- 5 芭蕉さんは現代にも通用する「旅の達人」です!
- 6 芭蕉さんの旅の目的
- 7 「おそれ」を克服した芭蕉さんの旅
- 8 芭蕉さんの観察眼を守る「眼病対策」
- 9 芭蕉さんのコミュニケーション術は「聞く力」と「イメージ力」
- 10 芭蕉さんから学ぶ「旅を楽しむコツ」~芭蕉さんと西行の旅
- 11 芭蕉さんの格安旅行術~俳句という技で「西行」に出た職人
- 12 芭蕉さんに学ぶ~自分の信念を大切にする
- 13 芭蕉さんの旅の真髄は『野ざらし紀行』にあり
- 14 『奥の細道』の真の目的地は秋田の象潟~芭蕉さんの「心の四季」
- 15 芭蕉さんの『奥の細道』旅でのハイライトは最上川
- 16 芭蕉さんの『鹿島詣』と根本寺の仏頂和尚
- 17 新型コロナウイルスに対抗する平成芭蕉の旅行術
- 18 松尾芭蕉の直筆『野ざらし紀行図巻』発見
- 19 旅を住処とした松尾芭蕉の生涯~芭蕉さんは何故旅に出たのか
- 20 松尾芭蕉の代表作『おくのほそ道』の旅の魅力
- 21 芭蕉さんも旅した旧東海道の楽しみ方
「平成芭蕉の旅行術」は芭蕉さんの知恵
私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って令和時代を旅しています。
私は俳聖松尾芭蕉の生家(三重県伊賀市上野赤坂町)の向かい、上野農人町で生まれ、芭蕉翁の遺髪が眠る愛染院願成寺(上野農人町)「故郷塚」には裏庭から行くことができました。
そして私は幼少期にその松尾家の菩提寺である愛染院願成寺のご住職より、芭蕉さんについて多くのことを教わったことから、自らを「平成芭蕉」と名乗り、芭蕉さんの人間像と「芭蕉さんの旅行術」を研究してきました。
芭蕉さんが俳諧を学んだきっかけは、伊賀上野の侍大将、藤堂藩の嫡子である藤堂良忠(俳号は「蝉吟」)に仕えたことです。良忠は芭蕉さんの良き理解者であり、熱心な文化人でもあって、京都の北村季吟に俳諧を学んでいましたが、その影響で芭蕉さんも俳諧を始めたのでした。
しかし、その藤堂良忠が早逝したため、職を失った芭蕉さんは俳諧を武器に「格安旅行術」を身につけて「旅の達人」となったのです。すなわち俳諧をテーマとした芭蕉さんの旅は、俳諧の門人に会うだけでなく、経済的な支援者をも獲得し、自身も「かるみ」を発見するという偉業を生み出したのです。
私を含む伊賀上野出身者は、俳聖松尾芭蕉を親しみ込めて「芭蕉さん」と呼びます。芭蕉さんは俳聖と呼ばれる俳句の達人ですが、旅行業に身を置く私にとっては、俳聖と呼ぶより、私たちが参考にすべき究極の「格安旅行術」を身に付けた「旅の達人」と呼ぶべき人なのです。
私は芭蕉さんから何を学んだか?
私は芭蕉さんの俳句にも感銘を受けましたが、一番、関心を持ったのは「芭蕉さんの旅行術」です。旅をするにはそれなりのお金がかかり、それは今も昔も変わりません。そして曽良のようなお供を連れて旅をするには、お金だけではなく、それなりの「心遣い」も必要であったことは間違いありません。
では、芭蕉さんはそのお金をどのように工面していたのでしょうか?
芭蕉さんは旅先では句会を開き、門人と交流し、彼らの「俳句を教わりたい」という欲求を満足させていたのです。そして、その対価として接待を受けたり、相応の謝礼金(又は奉仕)を受け取っていました。
そこで、私はこの芭蕉さんの旅行術を活かして旅をしてきたのです。すなわち、お客様に喜ばれる解説とサービスを提供することによって、お客様からお金をいただきながら、旅をすることができたのです。
この旅行術は芭蕉さんと同様に相応の心遣いが必要ですが、人に喜んでもらって、お金をもらうという商売の教えでもあります。
「自分の欲を満たそうとすると、お金は出ていく。逆に、他人の欲を満たそうとすると、お金は入ってくる。お金は、自分が誰かのために“貢献した対価”として与えられる」という教えです。私は芭蕉さんから“お役に立つ”という意識をもって、旅することを学んだのです。
そこで、私は「まず、お客様の役に立ちそうな情報を集める」ことから旅の準備を始めますが、この「芭蕉さんの旅行術」では、私が「旅を住処」とした俳聖松尾芭蕉から学んだ旅に対する心構えをご紹介しています。
*「俳諧」とは「俳諧の連歌」の略で、芭蕉さんの時代、「俳句」はその俳諧の最初の一句と言う意味で発句と呼んでいました。
芭蕉さんの功績は「俳句」だけではありません
芭蕉さんの功績の第一は、この貴族のたしなみであった「俳諧」を庶民にも分かり易い「俳句」に改良したことにあり、この功績により「俳聖」と呼ばれています。
しかし、私は愛染院ご住職の話から、芭蕉さんは「俳聖」というより「人間味あふれる行動の人」で、旅行業界にとって模範とすべき「旅の達人」だと思います。
すなわち、芭蕉さんは旅する前に十分な準備を整え、必要に応じて案内人を同行させて、船や馬も利用しましたが、基本的には歩き旅で現地で支援者を見つけると同時に最新情報を入手するという、今日で言うところの価値ある究極の「格安旅行」をしていました。
そして、道中、地元の人とも交流しつつ、地図やガイドブックがない時代に自ら考える旅をして、その感想を俳句によって今日の私たちに伝えてくれています。
すなわち、芭蕉さんは旅に出るにあたり
・十分な事前準備と案内人同行
・推理推敲による旅日程と臨機応変な日程変更
・基本的に歩き旅が主体
・旅先で門人と交流しつつ俳句を詠み、情報収集
・俳句を詠んで経済的支援を受ける
という5つの行為を実践し、知恵とコミュニケーションによって格安の歩き旅を価値ある俳諧修行の旅とした「旅の達人」なのです。
芭蕉さんの時代における「旅」事情
旅(Travel)の語源は苦労(Travail)にあり、「困難(Trouble)」やそれを回避するための「移動Transfer)」が本来の意味でした。
日本語の「旅(たび)」という言葉も、諸説ありますが、食べ物を乞う「給(た)べ」、他人の食卓で食べる「他火」、他の場所で一日過ごす「他日」と言った言葉から来ています。
その「旅」が庶民に広がった芭蕉さんの生きた元禄時代、「伊勢参り」や「善光寺詣」も道中、決して楽ではなかったはずです。
芭蕉さんも紀行文『おくの細道』の中で、芭蕉さん自身が旅にあって苦労する修行の句を多く詠んでいますが、みちのくを旅した結果、「不易流行」という俳諧の本質を発見し、芭蕉さん自身も大いに満足したのではないでしょうか?
今日、私たちは気軽に日本国中、世界各地へ気軽にレジャー目的で旅することができます。
しかし、旅の有難みや満足度は昔に比べて下がって来ているように思います。
芭蕉さんの教えは「旅行+知恵=人生のときめき」
旅行で今一つ満足感が得られなかった場合の主たる原因は次の4です。
・旅の準備や事前勉強が不十分でガイドなし(バスガイド同乗は稀)
・情報過多で自らが推理し、考えることをしなかった(スマホの普及)
・旅先で歩く機会が少なかった(交通手段の発達)
・旅先で人との交流がなかった(コミュニケーション不足)
逆に、旅する前に勉強と推理、異郷の地を歩いて現地の人と対話する機会を増やし、加えて案内人さんの解説があれば、旅の満足度は上がると思います。
そこで、私は自身の体験から旅の満足度を上げる手法と旅の達人である芭蕉さんの「旅の知恵」を整理してみました。
そして感じたことは、芭蕉さんの教えは「旅行+知恵=人生のときめき」であり、旅行の仕方によって人生が変わるということです。
★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」
芭蕉さんは現代にも通用する「旅の達人」です!
もし芭蕉さんが「おくの細道」という紀行文を残していなければ、東関東を訪れる旅行者の楽しみは減り、もっと言えば旅行会社の東北企画担当者の商品ラインナップは減っていたはずです。
すなわち、芭蕉さんは俳聖であるだけでなく、旅行業界の大恩人です。また、現代に通じる「旅の語り部」であり、「旅の達人」でもあると思います。そして、さらに我々が学ぶべきところは、旅に出るための事前準備、旅費の工面の仕方や現地での情報収集や資金調達方法等も含む芭蕉さんの「旅行術」です。
すなわち、芭蕉さんの旅ほど費用対効果のすぐれたものはありません。私も旅行会社に身を置きつつも、同じ旅費で価値ある旅ができるように芭蕉さんから学んでいます。
そこで、私「平成芭蕉」は、芭蕉さんの同郷として芭蕉さんの知られざる人間性を考察し、芭蕉さんの「旅行術」を研究するだけでなく、代表的な「俳句」に対する私の所見もお話しします。
「平成」の時代は幕を閉じ、新しい「令和」の時代を迎えましたが、平成芭蕉は令和時代も旅を続けます。
芭蕉さんの旅の目的
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芭蕉さんは「おくの細道」の冒頭の段に「松島の月まづ心にかかりて…」と宮城県の松島を訪ねるのが目的のひとつと書いていますが、実際はこの「蕉風開眼」をきっかけに真の俳諧を探求することが旅に出る真の目的だったと思います。
そして芭蕉さんが崇拝する西行法師の500回忌にあたる元禄2(1689)年、門人の曾良を伴って奥州、北陸道を巡った紀行文が「おくの細道」です。
「古人も多く旅に死せるあり」と記した芭蕉さんは、住んでいた家も人に譲って覚悟の上でみちのくの旅に出ました。
もともと古人が旅の途上で死んだのは覚悟の上ではありません。しかし芭蕉さんは死を覚悟の上で旅に出ました。
この強い意思と行動力が芭蕉さんの魅力であり「旅の達人」の秘訣です。
すなわち、具体的な目的意識をもって旅にでれば、旅の満足度も上がると思います。
「おそれ」を克服した芭蕉さんの旅
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かつての旅はいつも危険と隣り合わせで、西行に憧れて旅をした芭蕉さんも『奥の細道』の中で自身が旅にあって苦行する修行の句を多く詠んでいます。
冒頭には「古人も多く旅に死せるあり」と記していますが、もともと古人が旅に死んだのは覚悟の上ではありません。
しかし芭蕉さんは俳諧に対する求道精神から決死の覚悟で旅に出たのです。
これは日本人の武士道精神に通じるものがあり、芭蕉さんの「惧れ」に挑む強い行動力と意志こそが、今も私たちを「芭蕉の足跡をたどる旅」に誘うのです。
歴史を振り返るとこれらの「おそれ」を克服し、畏怖しつつも魅了される「おそれ」に挑む旅こそが人を進化させるのではないでしょうか。
芭蕉さんもみちのくを旅して、心の「惧れ(おそれ)」を克服した結果、「不易流行」という俳諧の本質を発見し、「俳聖」になったのです。
芭蕉さんの観察眼を守る「眼病対策」
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芭蕉さんは旅を通じて俳諧の道を究めたのですが、私はその成功は芭蕉さんの観察眼にあったのではないかと思います。
なぜなら、私が「旅行+知恵=人生のときめき」であることに気がついて、旅から多くのことを学べるようになったのは、シャーロックホームズの観察眼があったからと思えるからです。
しかし、私も還暦を過ぎてからは視力の低下と老眼の進行を感じるので、私が観察眼を維持するために取り組んでいる眼病対策を「芭蕉さんの旅行術」としてご紹介したいと思います。
- 老眼鏡をかけて遠くをぼんやり眺める
- 外出時はなるべくサングラスをかける
- ホットタオルで目を温める
- パソコンやスマホの輝度を下げる
- パソコンは50㎝以上、スマホは40㎝以上離して見る
- ほうれん草などの緑黄色野菜、青魚を積極的に摂る
- 年に一度は眼下専門医に診てもらう
特に、1の安い老眼鏡をかけて遠くの景色をぼんやりと眺める予防法はお薦めです。
老眼鏡は本来、手元を見やすくするための眼鏡であり、これをかけて遠くを見ると、眼科医の先生の話では、目の水晶体の厚さを調節する「毛様体筋」という筋肉を弛緩させ、結果的に老眼症状が緩和するのです。
また、やはり紫外線は目に良くないので、年をとれば2のサングラスも必要です。
私の「60歳からの旅行術」では、この老眼や白内障、緑内障などの加齢による眼病対策も大切なのです。
眼病が悪化すると[「頭痛」や「肩こり」のような2次的症状もでてきますので、注意しましょう。
芭蕉さんのコミュニケーション術は「聞く力」と「イメージ力」
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芭蕉さんは観察眼も確かでしたが、全国各地をめぐって門人たちと語らっているので、コミュニケーション術も優れていたと思われます。
言葉でのコミュニケーションで重要なことはまず、人の話を「聞く力」です。
しかし、方言などについては、聞く力以上に推理したり「イメージする力」が大切です。
すなわち、人の話を正しく「聞く」には、話し手の言葉を聞いてその意味を頭の中で思い描く必要があるのです。
例えば「コノ シロイ イヌ ハ、 オモシロイ」と聞こえたならば、一般には「この白い犬は、面白い」と理解します。
しかし、その会話の状況と話し手のイントネーションによっては「この白い犬は、尾も白い」が正しい場合もあるのです。
これは文章でいうところの「行間を読む」ことに通じ、相手の話の世界に想いを馳せ、その場の空気を読むことで正しく相手が伝えたいことを理解できるのです。
芭蕉さんの時代もみちのくの方言は聞こえても理解しにくい言葉が多々あったはずですが、、芭蕉さんは句会という場の空気を読んで相手の伝えたいことを推理していたと思われます。
芭蕉さんから学ぶ「旅を楽しむコツ」~芭蕉さんと西行の旅
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私は、芭蕉さんのような旅の達人は、目的地などの「目に見える」部分と「その時に感じた気持ち」のような目に見えない部分との両方を意識していたように思われます。
西行法師も出家後にみちのくを訪ねた際、能因法師を強く意識していましたが、西行も能因法師の足跡だけでなく、能員法師の心理的な内面を感じ取ろうとしていたことは間違いありません。
そこで、芭蕉さんから学ぶ「旅を楽しむコツ」は、そこに行った人や旅の達人に
「どのような手段でどこに行ったのか?」とか
「そこで何を見てどのように過ごしたのか?」
という、目に見える部分だけでなく
「その時に、頭の中で何を考えていましたか?」
「なぜ、そこに行こうと思ったのですか?」
「その時の気持ちや感情、感覚はどうでしたか?」
といった目に見えない部分についても質問し、「どこへ」とか「何」よりも「なぜ」に関心を持つことです。
この「なぜ」にこだわると、旅での学びが深まり、芭蕉さんや西行法師のように歌には詠めなくても自身の素直な感動を言葉として残すことができます。
関連記事:旅して幸せになる
芭蕉さんの格安旅行術~俳句という技で「西行」に出た職人
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私は、芭蕉さんは俳人でありながら格安旅行の達人であると考えていますが、これは俳句を詠むという職人芸を披露しながら旅をして、旅先で俳句を愛する仲間に世話になることが上手であったということです。
私は「おくの細道」のツアーを企画する際、芭蕉さんの足跡を訪ねて、旧街道の残っているところは出来るだけ歩いて芭蕉さんの気持ちになって旅してみました。
そして気がついたことは、芭蕉さんは日光街道、奥州街道、羽州街道、北国街道など、各地ですばらしい句を残していますが、不思議なことに伊達藩の仙台ではいい俳句は詠んでいません。
なぜだろうといろいろと考えてみましたが、その理由は仙台においては芭蕉さんを迎えて、句会を開いてくれる人がいなかったからだと思います。
芭蕉さんに学ぶ~自分の信念を大切にする
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芭蕉さんは41歳のときに『野ざらし紀行』の旅に出てからは、元禄7年に51歳で亡くなるまでの10年間、ほとんど旅に出て俳句を詠むという旅を住処とする生活でした。
今日、私たちが親しむ芭蕉さんの名句と呼ばれるものの多くは、この10年間の旅を通して生まれたものです。
旅行が簡単にできる今と異なり、列車もバスもない300年も昔、何の用事もなくて旅に出ることは容易なことではなかったはずです。
交通手段は主に歩きでしたが、ところどころ舟に乗ったり、馬を利用したりはしています。
特に舟を利用するという考えは、芭蕉さんの出身地である伊賀上野や先祖の故郷である柘植付近に川が多く、水に慣れ親しんでいたからだと思われます。
芭蕉さんの旅の真髄は『野ざらし紀行』にあり
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芭蕉さんが蕉風俳諧の確立を目指して覚悟のほどを詠んだ「野ざらしを」の句碑は、私と芭蕉さんの生まれ故郷である伊賀上野の郊外にある長田山の「芭蕉の森」公園にあり、29歳のときに志を立てた「貝おほひ奉納」の碑と共に郷里の地に建っているのはとても意義深いことだと思います。
この「野ざらしを」の句碑にある俳句の文字は、石の大きさに比してとても小さく刻まれています。
石は人を動かし、人に語りかけてくれますが、それは、石が容易には動かず、形が変わらない永続する姿を持っているからです。
そんな変わらぬ石、動かぬ石に文字を刻んでその永続を願うのが石碑であれば、文字を刻む意図は石碑を立てた地元の人たちの想いの現れで、文字を小さくして刻んだのも意味があってのことだと考えます。
私はこの緑色に輝く石の句碑は、「芭蕉さんの旅の真髄は、故郷を訪れた覚悟の『野ざらし紀行』(小さな文字)が芭蕉さんの偉大な功績(文字に比して大きな石)の出発点である」と語りかけているように感じるのです。
『奥の細道』の真の目的地は秋田の象潟~芭蕉さんの「心の四季」
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私は今、芭蕉さんの『おくのほそ道』における目的地のひとつで、松島と並び称され「八十八潟」で知られた象潟でたたずんでいます。
今から330年前、俳聖松尾芭蕉は、先人の歌枕の地である松島や象潟へと思いを馳せ、とりわけ漂泊の歌人である西行への敬愛の思いが強く、西行の500年忌にあたる年に『おくのほそ道』へと旅立ち「松島は笑うが如く、象潟はうらむが如し」と記しています。
鳥海山を望むこの象潟は、1804年の地震で隆起して「八十八潟」は消え、現在は陸地に島がある不思議な景色が広がる九十九島の名を残しています。
かつて潟に浮かんだ島々は、田植えの季節に水が張られると、海に浮かんでいるように見えて往時の面影を彷彿させてくれます。
853年に慈覚大使によって創建された古刹の蚶満寺境内には芭蕉さんの像と句碑が建てられています。
芭蕉さんの『奥の細道』旅でのハイライトは最上川
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私の好きな芭蕉さんの句に「五月雨を集めて 早し 最上川」があります。
この句は元禄2(1689)年5月29日(新暦では7月中旬)に山形県大石田の俳諧をたしなむ人たちと句会(36句の歌仙一巻)を開いたときに詠まれたものです。
彼らの代表は船宿の主人、高野一栄という人で、芭蕉さんはその高野一栄の亭に招かれたのですが、そこは最上川の川っぺりにある涼しい場所だったのです。
そして、芭蕉さんは『奥の細道』に「このたびの風流、ここに至れり」と書いており、みちのくの旅が最上川でピークに達したと自ら言っているのです。
そこで、芭蕉さんが最初に詠んだ挨拶の句は「五月雨を集めて 涼し 最上川」でした。
しかし、実際に船に乗ってみると故郷の柘植川や服部川のような穏やかな川ではないので、「涼し」ではちょっと物足りないということで「涼し」を「早し」に訂正して『奥の細道』に発表したと思われます。
芭蕉さんの『鹿島詣』と根本寺の仏頂和尚
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延宝8年(1680)、順風満帆の人生を歩んでいた芭蕉さんも、俳句宗匠としての華やかな生活を捨て、日本橋から深川の草庵へ移りました。この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれました。
その後、俳号も「桃青」から「芭蕉」に改め、この時期に芭蕉さんと交流があったのが仏頂和尚です。仏頂和尚は鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)の根本寺の第二十一世住職で、当時、鹿島神宮と寺領をめぐる争いの裁定を寺社奉行に仰ぐために、深川の臨川庵(現在の臨川寺)に滞在していました。
この臨川庵は芭蕉さんの住んでいた芭蕉庵とは目と鼻の先であったため、芭蕉さんは仏頂和尚と出会い、禅の手ほどきを受けました。芭蕉さんの文学に多大な影響を与えた人は西行ですが、芭蕉さんの生き方に影響を与えた人は藤堂良忠と仏頂和尚です。
『かしま紀行(鹿島詣)』は、鹿島の根本寺に戻ったその仏頂和尚から、「月を見にいらっしゃい」という誘いの手紙が届いたのがきっかけで、深川での生活を始めてから7年過ぎた貞亨4年(1687年)8月、門人の曾良と僧の宗波を伴い、月見をかねて鹿島の根本寺へ仏頂和尚を訪ねた記録です。
新型コロナウイルスに対抗する平成芭蕉の旅行術
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新型コロナウイルス感染拡大の影響で外出自粛が続くと、出不精な人はますます旅に出かける機会が減るのではないでしょうか。そもそも出不精な人は旅に出ることを面倒なことと考えているようです。そこで平成芭蕉の旅行術として、旅にでることの意義とともにその面倒くささの克服法についてお話しします。
まず、面倒くささの原因は何でしょうか。面倒だと感じる理由には主に2つあります。
一つ目の理由は、面倒くさいと感じることは自分が嫌なこと、嫌いなことだからです。人間誰でも嫌なことはやりたくないので、面倒に感じてしまうのです。二つ目の理由は、面倒なことは工程数が多いからです。工程は、過程またはステップ(段階)と言いますが、このステップが多いと人は面倒に感じてしまいます。
松尾芭蕉の直筆『野ざらし紀行図巻』発見
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私が敬愛する芭蕉さんの紀行文『野ざらし紀行』の直筆ものは、これまで2冊あるとされ、そのうち俳句だけを記した1冊は天理大学附属図書館の保管となっていますが、俳句に挿絵を添えたもう1冊は、長年、所在がわからなくなっていました。
しかし、2022年5月、その挿絵付きの1冊が見つかり、専門家の鑑定で本物と確認されたと京都嵐山の福田美術館が記者会見を開いて発表しました。この「野ざらし紀行図巻」は、富士山や海からのぼる朝日など、紀行文全体にわたって書とともに挿絵が描かれた大変珍しいものであり、芭蕉が絵画にも強い関心を寄せていたことを示す貴重なものです。
旅を住処とした松尾芭蕉の生涯~芭蕉さんは何故旅に出たのか
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伊賀国上野赤坂町に生まれ、自ら「乞食の翁」と称した芭蕉は、物欲や名誉欲から解放された生活の中で、純粋に俳諧文学を追求する旅に出ました。これは芭蕉の禅の師であった仏頂和尚の禅の教えである「放下著(ほうげじゃく)」を実践したものと考えられます。すなわち「いっさいを捨て去るとすべてが生きかえる」の禅の教えに従い、旅を通じて自然や名所・旧跡、人情などに触れ、「風雅の誠」を追求し、自らの俳諧を高めようとしたのです。
芭蕉は東海道を上り、美濃、尾張から木曾、甲斐を巡った『野ざらし紀行』、高野山や須磨などを巡った『笈の小文』の旅や有名な『奥の細道』の旅など、貞享元(1684)年から元禄4(1691)年までの約7年間で通計4年3か月を旅しています。
松尾芭蕉の代表作『おくのほそ道』の旅の魅力
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「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」この有名な書き出しからはじまる『おくのほそ道』は、俳聖松尾芭蕉が1689(元禄2)年の早春に深川の草庵を出立して大垣に至る150日、約600里(2400km)の旅の紀行文ですが、この一文に、芭蕉の人生観が込められているといっても過言ではありません。
「時は永遠の旅人であり、人生は旅そのものである」と芭蕉は書いていますが、芭蕉は人生の真の意味をつかむために、文学者として生きるべく、草庵を後にして旅に出たのです。
芭蕉さんも旅した旧東海道の楽しみ方
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俳聖松尾芭蕉は旧東海道を『野ざらし紀行』の旅で歩いています。貞享元年(1684)8月、41歳になった芭蕉は東海道を上り、生まれ故郷の伊賀上野へ帰郷し、奈良・京都・大津・名古屋を訪ねて江戸へ戻るまでの9か月に及ぶ旅でした。
旧東海道を歩く楽しみの一つは、松尾芭蕉の足跡をたどって、『野ざらし紀行』をはじめとする俳聖の詠んだ俳句を味わってみることです。「野ざらしを心に風のしむ身かな」
平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える
「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。
そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。