平成芭蕉の日本遺産 | 芭蕉さんの旅講座

平成芭蕉の日本遺産

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旅を愛するあなたへ『奥の深い細道』

旅の達人「平成芭蕉」が、松尾芭蕉の行けなかった世界の名所・旧跡を訪ねた感動の体験記録です。

「旅行+知恵=人生のときめき」で、旅行から人生が変わる体験を味わっていただけます。

「平成芭蕉」が案内する「旅スルおつかれ様 ハーフタイムツアーズ」(テレビ東京 11月26日、27日放映分)

前編動画  https://youtu.be/V0rJgAZxE-8

後編動画  https://youtu.be/qywsR5p9Fmw

「日本遺産」を学ぶ

この「平成芭蕉の日本遺産」は、単なる日本遺産登録地の紹介や旅情報の提供ではなく、「平成芭蕉」を自称する私が、実際に現地を訪れて、地元の人と交流し、私が感じたことや認定されたストーリーに対する私自身の所見を述べた記録です。

人々の価値観は時代と共に変化し、旅の在り方も変化しつつあります。しかし、どれだけの人が本当の「旅」をしているのか、私は疑問を抱いています。

旅の目的が観光であろうと視察であろうと、訪れた土地の生活文化を知り、日本人として先祖伝来の伝統文化を振り返ることはとても重要です。

そこで、この「日本遺産」のストーリーを学ぶことによって、自らの旅を豊かにしたいと思います。

日本遺産とは

「日本遺産」とは、地域の文化財や歴史的特徴を活かして日本の文化・伝統を語る“ストーリー”を文化庁が認定したものです。

日本遺産構想のきっかけは、日本で暮らしているイギリス人のデービッド・アトキンソン氏で、彼は日本の神社仏閣に何度も足を運んでいるうちに、「外観はすばらしいが、ただそれだけだ」と感じるようになったと言っています。

そして、もしその建立された経緯や今日に至る歴史などを知れば、それらの神社仏閣に対する興味がもっと深まったのにと残念に思ったそうです。

アトキンソン氏の所見は私も同感で、いくらその土地に歴史があり、伝統文化が息づいていても、それを知らなければ何の感動も得られません。

日本各地には国宝をはじめとする多くの価値のある文化財が残っていますが、これまでは文化財保護が優先され、先祖伝来のものを大切にする反面、鑑賞するには不便な状態でした。

私はストーリーを設けて文化財を面としてアピールする「日本遺産」を契機に、文化財の素晴しさを改めて再認識できれば、日本人の意識も高まり、日本全体が元気になっていくのではないかと考えます。

世界遺産との違い

世界遺産が遺跡、景観、自然など人類が共有すべき顕著な普遍的価値をもつ“物件”であるのに対し、日本遺産は地域の文化や伝統を物語る“ストーリー”であり、文化財を活用して日本の魅力を国内外に発信し、同時に地域の活性化を図る日本の事業です。

2017年3月7日、文化庁は日本遺産国際フォーラムを主催し、
・宮田文化庁長官の挨拶に続いて
デービッド・アトキンソン氏の基調講演
・海外からの留学生による日本遺産研究発表
・ロバート・キャンベル氏がモデレーターを務めるパネルディスカッションが開催されました。

文化庁の日本遺産事業

私はこのフォーラムに旅行業界を代表してパネラーとして参加しましたが、文化庁では2020年までに100の日本遺産登録を目指すと同時に日本の歴史的魅力や文化・伝統を世界に発信することに意欲的です。

すなわち、従来の文化財保護の立場から日本遺産を通じて歴史的文化財を積極的に活用し、ストーリーとして発信することによって世界観の創出と地域のブランド化を目指す方針です。

しかし、日本遺産の中にはわかりやすいストーリーもあれば、時代や文化、流通や大陸からの影響などあらゆる歴史的要素を紐付けて考察しなければ読み解けないストーリーもあります。

そこで、私は自身の国内・海外の旅行体験から、この日本遺産のストーリーを日本遺産旅行講座として分かり易くご紹介したいと思います。

日本遺産の楽しみ方

「日本遺産」は、個々の遺産を「点」として指定・保存してきた従来の国宝や重要文化財等の"遺産"とは異なり、各地の歴史的文化財を「線」で結び、さらに「面」として活用、ストーリーとして発信され
"活産(いさん)"です。

人類は誕生以来、物語(ストーリー)を通じて知恵や知識を身に付けて、文化を継承してきました。

神話や宗教もほとんどストーリーを通じて伝えられています。

人はデータや理論、実例等を学んでも忘れやすく、ストーリーに関するものは印象に残ります。

そこで、旅行先の風習や文化、さらにその土地の歴史、名物料理、美術工芸、建築およびその地に生きる人達の生活様式などをストーリーとして学べば、記憶にも残り、旅も楽しくなります。

私はKKベストセラーズ一個人『日本遺産を旅する2』の巻頭に旅の楽しみ方について紹介していますが、ストーリーへのアプローチに際し、時には歴史的人物や旧街道など別の角度から読み解く手法も必要です。

文化庁の「日本遺産パンフレット」には

歴史の声に耳を傾けると その土地に物語が生まれる

と記されています。

日本遺産のストーリーから広がる豊かな世界観を追体験するといった新たな楽しみ
方、ここに日本遺産の旅の楽しみがあると思います。

日本遺産のストーリーを体験する『奥の深い細道』

「観光」という言葉は今から約3500年前の中国周時代の古典『易経』にあり、これは占いの指南書でした。

その一節に「国の光を観る。もって王に賓たるに利あり。賓たらんことを尚(こいねがう)なり」とあり、つまり昔は「観光」は自国の未来を予見するための国王の仕事だったのです。

この「国の光」とは各地の自然環境やそこで営まれている人々の暮らしや伝統・文化を指し、これらに接することで王は心身共に豊かになり、王は新たな「国の光」を発することができたのです。

すなわち、国の文化は,自然を背景とする村落や都市の景観,日常の生活様式,さらには文化の所産として芸術等に形として現れるものであり,それらを視察することによって,自国の文化の向上に役立てるのが「観光」本来の意味です。

そこで、観光が大衆化した現代社会でも単なる物見遊山の旅ではなく、各地の豊かな自然や伝統・文化に触れて何か新しい「知恵」を身につけるのが好ましいと思います。

そしてその指針となるのが日本遺産です。

私が提案する日本遺産の旅は光っているところを観るだけでなく、この光輝く遺産がなぜっ光っているかを考察し、真実の歴史を追及して気付きの喜びを知る旅です。

すなわち「日本遺産を訪ねる旅+知恵=人生のときめき」をコンセプトとして、『奥の深い細道』日本遺産巡りにご案内します。

by 【平成芭蕉】

<タイトルをクリックすると解説記事があります>

日本遺産の「ストーリー」の旅とは

北村薫の著作『空飛ぶ馬』に「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、この「小説」を「旅」に置き換えると旅も同様だと思います。

すなわち、旅は私にとっては、一度の人生への抗議として、憧れ、観察、発見そして創造活動です。

言い換えれば、自分の生きてきた「物語」と旅先の「物語」とが織りなす新しい「物語」の創造です。

そこで日本遺産のストーリーは、自分の「物語(ストーリー)」と対比させてこそ生きた旅になると思います。

埼玉県行田市の日本遺産

行田では靴下が普及した今日でも足袋の生産が続けられており、日本一の足袋生産地として新製品を国内外に販売し、「足袋と言えば行田」とアピールしています。

江戸時代の大火では、足袋蔵が延焼を防ぎ、稲荷神社の手前で鎮火したことから、各店舗には屋敷稲荷が祀られているのが印象に残ります。

ピーク時には200社以上の中小規模の足袋商店に皆が寝食を惜しんでミシンを稼働させ、寸暇を惜しんで働く女工さんの間で手軽に食べられるおやつが地域の食文化として定着しました。

これがお好み焼き風の「フライ」とおからのコロッケとも呼ばれる「ゼリーフライ」です。

神奈川県伊勢原市の日本遺産「大山詣で」

文化庁が認定したストーリーは、主として江戸時代に行われた農民の五穀豊穣や雨降り祈願漁民の豊漁や航海安全祈願を中心とした庶民参拝で、当時の様子は歌舞伎や浮世絵としても取り上げられています。

しかし、現在の大山は参詣というより、観光や登山客のほうが多いようです。さらには多くの人が大山と言えば阿夫利神社と思っているようにも見受けられます。

実際は、奈良時代に良弁が大山寺を開創して以来、明治までの1112年間は仏教が大山を支配しており、本来は神仏両詣の信仰の山なので、神だけとか仏だけではなく、両方を詣でるべきだと思います。

明治の神仏分離により大山寺は廃寺となり、大きなダメージを受けましたが、国学者権田直助とそれに従った先導師(御師)たちの努力によって、ようやく江戸時代から続く大山信仰の存続を図ることができたのです。

また、権田直介は読みにくかった日本語表記における句読点の必要性を説き、1887年に『国文句読考』を出版するも、同年に風邪をこじらせ、自らの出版物を見ることなく、この世を去っています。

今日、句読点を活用して日本語を読みやすくしてくれた恩人でもあり、大山信仰を再興した功績からも、権田直介のストーリーこそ心に留めていただきたいです。

和歌山県広川町の日本遺産「稲むらの火」

広川町は、醤油で有名な湯浅町の隣に位置しており、かつては広庄(広村)と呼ばれて熊野路往還としてにぎわった場所ですが、起伏なす紀伊山脈が海に迫り、複雑な海岸線には岩礁と砂浜が点在する風光明媚な土地柄です。

しかし、深く入りこんだ湾の最深部の低地にあるため、津波の危機と背中合わせの地で、江戸時代末期の1854年(安政元年)11月5日、突如地震が発生して暗闇の町に津波が襲ったのです。

そして、その津波を察知した濱口梧陵は、暗闇の中で村人を避難させるために、自身の大切な財産である「稲むら」に火を放ち、避難ルートを示して多くの命を救いました。

津波の後も彼は私財を投げうって田畑の復旧や家屋の新築、さらに「広村堤防」の築造を行い、村の復興に尽力しました。

日本遺産のタイトルにある「百世の安堵」とは、この広村堤防建設時に濱口梧陵が語った言葉「築堤の工を起こして住民百世の安堵を図る」から来ています。

大分県中津市・玖珠町の日本遺産「やばけい」

日本遺産の調査を兼ねて「耶馬渓」誕生200年祭の「頼山陽フォーラム」に参加すべく、大分県中津に行ってきました。

本年は頼山陽が、「耶馬渓」という名前を全国に紹介した「耶馬渓誕生200年」という節目の年です。

頼山陽は江戸時代後期の儒学者、歴史家、漢詩人そして画家でもあり、『日本外史』などの著作で知られていますが、1818年に当時外国との国交が盛んであった長崎を目指して旅立ち、下関、博多、佐賀、長崎、熊本、鹿児島そして大分と旅しています。

今回のフォーラムでは頼家第六代当主、頼政忠氏より「頼山陽を語る」という演目でこの頼山陽先生の九州への旅や人柄についてお話をお伺いしました。

頼山陽先生は天領にある日田咸宜園の廣瀬淡窓と親交を深めた後、日田から豊前へ向かう途上、山国川沿いの山水画の風景に驚嘆しながら中津に入り、友人である中津鶴居村「正行寺」の雲華上人と歓談して山国谷の岩峰をしきりに讃えたそうです。

大分県日田市の日本遺産「咸宜園」

日本遺産の調査を兼ねて「耶馬渓」を巡った際、私は頼山陽も身を寄せた、日田市にある日本最大規模を誇った私塾「咸宜園」にも立ち寄りました。

この「咸宜園」は

日本最古の学校「足利学校」(栃木県足利市)

世界最古の庶民のための公立学校「閑谷学校」(岡山県備前市)

日本最大規模の藩校「弘道館」(茨城県水戸市)

と共に「近世日本の教育遺産群~学ぶ心・礼節の本源~」として日本遺産に初年度登録された私塾です。

この私塾は儒学者であり詩人でもあった廣瀬淡窓が、

「人材を教育するのは、善の大なるものなり」

といった考えから開設し、毎月成績評価を行う「月旦評」などの公平な教育が評判となり、塾生の数では日本最大規模を誇りました。

岐阜県高山市の日本遺産「飛騨匠」

「飛騨工制度」は飛騨の豊かな自然に育まれた木を活かす文化を形成し、平成28年、「飛騨匠(ひだのたくみ)の技・こころ~木とともに、今に引き継ぐ1300年~」というストーリーが日本遺産に登録されました。

実際、飛騨高山にはその匠たちによって建てられたとされる寺院や神社が数多く残されており、中でも国府盆地にある安国寺経蔵荒城神社本殿は飛騨工制度の時代から受け継がれてきた伝統と文化が生きています。

また、樹齢1200年を超える大イチョウ三重塔が境内にそびえる飛騨国分寺は、匠の魂を感じると同時に風格も漂っています。

都での厳しい労役に耐えながら、真摯で優れた建築技術を身に付け、「飛騨の匠」と称賛されるようになったのですが、関西の大和路には飛騨と共通する地名も多いことから、飛騨に帰れずに現地にとどまった人たちも多かったのではないかと推察できます。

「飛騨の匠」とは一人の優れた大工の名前ではなく、優れた木工たちの美称で、万葉集にも追憶の匠として登場しています。

「かにかくに 物は思わず 飛騨びとの うつ墨縄の ただひとみちに」

栃木県宇都宮市の日本遺産「大谷石」

私は委員会出席の前に日本遺産の構成要素である大谷資料館大谷寺の大矢観音、そして市内のカトリック松が峰教会を視察しました。

大谷資料館は大谷石の地下採掘場跡で神秘的な巨大地下空間となっており、まるでインディ・ジョーンズのごとく探検に来た気分です。

大谷寺本尊の千手観音(大谷観音)は810年、弘法大師の作とされ、鎌倉時代には坂東19番の霊場となり、多くの人が訪れていますが、私は岩窟の彫刻された表情からバーミヤンの石仏を連想しました。

また、松が峰教会は、建物の内壁と外壁に大谷石が貼り付けられ、あたかもロマネスク様式の石造建築のような見応えのある教会です。

そもそもこの大谷石は、大正時代に有名なアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトが、旧帝国ホテルの素材として使用したことで全国に知られるようになりました。

さらに言えば、大正12年の関東大震災で多くの建物が崩壊炎上する中で、旧帝国ホテルが焼け残ったことにより、大谷石の防火性があらためて見直されたのです。

広島県呉市の日本遺産「呉鎮守府」

訪れたのは呉市海事歴史科学館、通称「大和ミュージアム」です。呉海軍工廠で建造された戦艦大和の模型をはじめ、ゼロ戦人間魚雷「回天」も展示されており、規模はアメリカのスミッソニアン博物館に及びませんが、内容は日本人の誇りを感じさせてくれる素晴らしいいミュージアムです。

日本海軍の象徴として長く国民に親しまれ、現在、ビキニ環礁に眠る「長門」も素晴らしい戦艦ですが、「大和」はその名前の通り、大和魂を結集した日本人の叡智の結晶だったと思われます。

すなわち、当時の日本が持っていた技術力、知識、資源を結集させた、驚異の高性能艦で、このノウハウが戦後の日本の近代化に貢献したことは間違いありません。

隣接する「てつのくじら館」は海上自衛隊呉資料館で、実物の潜水艦「あさしお」が展示されており、秘密のベールに包まれている潜水艦内の操舵室が見学でき、乗員の食事内容など興味深い展示もありました。

岡山県倉敷市の日本遺産「日本一の繊維のまち」

今回の視察ははこの児島エリア倉敷エリアの日本遺産ストーリーを倉敷市日本遺産推進室の方とめぐるファムトリップです。

まずは瀬戸内海を一望できる鷲羽山レストハウスで昼食をとった後、鷲羽山頂上から瀬戸内海と児島の旧塩田地帯の展望を楽しんだ後、最初の視察事業所である「ニッセンファクトリー」に向かいました。

児島は製塩業新田開発で財をなした野崎家のおひざ元で、新田は塩を含んでおり、米作には不向きでしたが、良質の綿花栽培には適していました。

そのため、この綿の栽培から糸を紡ぐ紡績業、生地を織る織物業など繊維産業のすべての工程がこの児島エリアで形成されたのです。

この児島で最初に生まれた製品は「真田紐」と呼ばれる細幅の織物ですが、明治期になると足袋、そして昭和期に入ると学生服と生産がシフトしました。

そして、昭和の後期からは作業服、とりわけジーンズの生産が主流となり、平成になってからは「国産ジーンズの聖地」となったのです。

神奈川県の日本遺産「横須賀鎮守府」

2日目の横須賀鎮守府視察は、東郷平八郎長官率いる艦隊の旗艦として活躍し、日露戦争で歴史的な大勝利に貢献した戦艦「三笠」の見学から始まりました。

「三笠」はイギリスから購入した当時の最新鋭艦で、1905年5月27~28日の日本海海戦で勇猛果敢に戦い、大国ロシアの艦隊を破った我々の誇りとすべきモニュメントです。

なぜならば、私がトルコのアンカラにあるアタテュルク廟やベトナムのホー・チ・ミン廟を訪ねると、地元の人たちから「日本が大国ロシアを破ったことで勇気づけられた」と感謝されることが多いのです。

これは、当時のトルコやベトナムを始めとするアジアの国々は、この歴史的事件によって、列強から独立に向けて行動を開始したからで、社会科見学で訪れている地元の小学生も私が日本人だと知ると手を振ってくれるのです。

よって、この「三笠」が佐世保港で爆沈するも浮揚・修理され、今日記念艦として横須賀でその雄姿を見られるのは本当に喜ばしいことだと思うと同時に、日本遺産というよりはアジアの遺産と言ってもよいと感じました。

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